「私とdie pratze、d-倉庫」 志賀信夫 (批評家) 【ダンスがみたい!】
日暮里d-倉庫が閉館する。つきあいは、神楽坂die pratzeのころからで、それ以前の田端時代は知らない。そして、筆者が舞踊を中心に批評を書いていることから、主に関わったのは「ダンスがみたい!」というフェスティバルである。その立ち上げには2020年に亡くなった舞踏家、鶴山欣也も関わったようで、初期は舞踏家の出演が多かった。筆者も、上杉満代、和栗由紀夫、福士正一、森繁哉、阿部利勝といった舞踏家などの出演を推薦したこともある。 そして、現在は一般的になったコンテンポラリーダンス。活躍する数多くのダンサー、振付家がこのフェスと、兄弟企画「新人シリーズ」で世に出たといえるかもしれない。公共団体や業界団体が関わらない在野・私立のダンスフェスティバルで、コンテンポラリーダンスの隆盛にこれほど影響を与えたものは、ほとんどないのではないか。 筆者もここで多くのダンサー、舞踏家、振付家と出会い、10年以上、「新人シリーズ」の審査に関わったため、多くの新人たちを知った。なかには、その後、他のフェスやコンペティションで受賞し、国際的に活躍する人もいる。そういう意味でも、真の新人発掘の場だった。 「ダンスがみたい!」は、ある時期から特集テーマを持つようになったため、それぞれの振付家、ダンサーなどが新たな挑戦を行った。そういう点でも、どちらのフェスも、舞踊家を育てステップアップさせる場でもあった。 その特集で記憶に新しいのは、「日本国憲法」、「春の祭典」、「サムルノリ」だ。これは、die pratzeが2003年にハイナー・ミュラーのフェスティバルに関わり、その後、現代劇作家シリーズとして、「ハムレット・マシーン」やイヨネスコの「授業」といった特集テーマを立てた流れにあると理解している。そして、『ハムレット・マシーン』でわかるように、表現者に実験的、先進的かつ新たな作品への挑戦を求めるものだ。 筆者は「新人シリーズ」で審査員を10年以上つとめたことで、講評とシンポジウムやその司会などによって、批評を書くだけでなく、語ることの難しさと、直接、言葉を表現者に届けるやりがいを知った。また、その技術も高めさせてもらったように思う。出演者選出のために、眼をこすりながら映像を見続けた数日間、そして審査会で激論が飛び交ったことなども懐かしい思い出だ。 【畳半畳】 これらの劇場で、他にも多くのダンスカンパニーなどの公演、身体表現やパフォーマンスの公演も見て、刺激を受けてきた。なかでも印象的だったのは、die pratzeのスタッフだった中西レモンが企画した「畳半畳」である。これは、「ダンスがみたい」新人シリーズの会議などで、舞踏家はギャラリーで畳一畳、あるいは1メートル四方くらいで踊れるので、そういう企画も面白いと発言したことが、一つのきっかけだったと思っている。 2000年代に主に神楽坂die pratzeで行われていたこの「畳半畳」企画は、文字通り、半畳の畳が舞台中央にあり、そこでダンサーが踊るというものだ。毎回、1日5組前後が20~30分出演し、数日間行われたミニ・ダンスフェスである。筆者が声をかけて出演したダンサーが、後にその作品を横浜ダンスコレクションに出したこともあった。その畳に至るまでの過程も含めて踊りをつくるとか、畳の周囲だけで踊るダンサーもいて、奇想天外な舞台も生まれた。さらに思い起こせば、筆者自身も数名で出演したことがある。この企画については、その後、2013年にギャラリーなどで写真展示と記念公演が行われたが、その記録によると2004年に高円寺のライブハウス無力無善寺で始まり、15回開催され、さらに2015年まで続いたようだ。 その写真展の写真家である田中英世も、筆者のdie pratze体験から切り離せない。「ダンスがみたい!」や「同・新人シリーズ」の公式カメラマンとして、期間中はほとんどいつも顔を合わせた。田中は舞踏を多く撮っており、他の劇場でも会っているが、この二つのフェスティバルの期間には毎日のように会い、すぐそばで写真を撮るため、いつも短い会話をしていた。当時、すでに高齢だったため、すでに他界されているが、その息子さんとたまに劇場で顔を合わせると、当時のことが蘇る。同様に公式映像撮影の船橋貞信は、現在も時折、d-倉庫でお見かけしている。このように、これらの劇場では、ダンサーや振付家のみならず公演に関わるスタッフと交流することもたびたびあった。 神楽坂die pratzeで公演を行ってきた劇団、ダンサー、振付家などとJTAN(ジャパン・シアターアーツ・ネットワーク)を結成して、2010年と2012年には「JTANフェスティバル」を開催したこともあった。その際は、トークやフェスティバルの企画にも携わり、ダンス公演を企画したり、音楽を担当したりもした。また、向井千恵ら主宰の即興表現フェスティバル「透視的情動」が、d-倉庫で開催されて、出演したこともある。 【発信と批評】 die pratze、d-倉庫は、批評などの発信にも積極的だった。出演者などへのインタビューもd-倉庫のサイトで120組を超えているが、die pratze時代には、『CUT IN』を発行していた。これは、新宿にあった小劇場タイニイアリス(1983~2015年)と共同で、公演案内と批評を掲載するタブロイドペーパーだった。「ダンスがみたい!新人シリーズ」の講評も、当初はここに掲載されていた。編集長の井上二郎の逝去でなくなったが、その後、d-倉庫は独自で『artissue』誌を刊行している。この文もそのサイト版に掲載されるようだ。 このように、批評についても積極的である私立、独立劇場は多くはない。舞踏公演が多い中野・テルプシコールは『テルプシコール通信』を現在も発行しているが、思いつくのはそれくらいだ。どちらにも筆者は関わらせていただいているが、劇場側のこうした積極的な姿勢は非常に重要で、それが出演者や舞台表現の場を活性化させる一助になってきたといえるだろう。 演劇についても、ここで開催された演劇フェスティバルや公演では、身体表現、ダンスなどとのジャンル混交があり、さまざまな舞台表現に触れることができた。その点でも、die pratze、d-倉庫で学んだことは非常に多い。 これは、劇場主が、身体表現が中心の劇団OM-2の主宰者であることも大きいだろう。海外公演も多いこの劇団の舞台は非常に刺激的で、身体感覚のみならず、人間のトラウマなどの精神性にも切り込む斬新なものだ。 閉館の理由の一つが、貸し主との関係だという。1960年代から優れた表現の場であった明大前のキッド・アイラック・アート・ホールも、貸し主の世代交代によって、2016年、閉館を余儀なくされた。コロナと指定管理者制度などにより、公立劇場の自由度が狭められる現在、あらためて私立劇場、独立劇場の存在意義は大きい。d-倉庫には、ぜひとも復活を望むとともに、他の私立劇場、ミニシアターの今後の活躍にも期待したい。 (敬称略) INDEXに戻る |