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「ダンスがみたい!新人シリーズ16」総評と講評 
花光潤子

116-0014 東京都荒川区東日暮里6-19-7    
営業時間 18:00-23:00  定休日 月曜  
  
  03 5811 5399    
  d-soko@d-1986.com
  
  
d-soko Theater 
   6-19-7, Higashi-Nippori, Arakawa-ku, Tokyo, JP 1160014 【Find on Map
   HOURS: Tues-Sun 18-23





総評

今回の新人シリーズでは、3人の審査員の評価が悉く別れるという衝撃の結果となった。私たちは作品解説や作者の意図など作品を読み解く手がかりを一切持たぬまま、目の前に繰り広げられる身一つの舞台と向かい合い、各自勝手な解釈と妄想(?)を膨らませるに至った。踊りの技術、構成・演出力、振付の斬新性、コンセプトの革新性、オリジナリティ等々、評価の何を優先させるかは、個人の裁量に任せられた。しかしこれだけ意見が割れたのは、残念ながら皆を納得させるだけのダントツの1位が無かったという事だろう。だがしかし見方を変えれば、出場者各々の力が拮抗していて多彩な作品群に長所も短所もあったとも言える。様式の定まった伝統芸能やクラシックバレエなどは基準が明解で判断は容易だ。しかし現代美術も然り、コンテンポラリーダンスはさまざまな手法や身体へのアプローチの試行錯誤を、今、まさに行っている現在進行形の表現形態であり、その見方は実に多様だ。それにしても、自分の価値基準はどこにあるのだろう、私は何をダンスに求めているかということを改めて考えさせられた貴重な機会となった。

私はプロデューサーという職業的見地から、舞踊の時代性や社会性といったことも考えなくはない。国際的な市場の価値も見方の範疇にある。だがそれは第一義ではない。私はダンスと共通する身体表現の一つとして、僧侶の唱える聲明を長年プロデュースしている。息や聲は人間の身体の内から発せられる最も単純で力強い衝動であり、生命に通じる原始的な表出だ。空を切り裂く一音の波動は、空間に描かれた身振りの軌道に似ている。今、ここに、ある、身体。今、ここにしかない、時間。身体の宇宙はミクロでありマクロであり、舞台に提出されるのは、身体の変容のドラマだ。身体が放つ一瞬のきらめきに眩暈する。ダンスが立ち上がる瞬間の高揚感、指一本のダンスであっても生命の美しさに立ち会う至福がある。一方、肉体は一刻一刻死を孕み、老いゆく軌跡は痛々しくも気高い。人間の原初的な身体の欲望に触れるもの、それに出会いたいという希求がある。自分の生きる内実に触れるものとして、ダンスという表現がある。「そこに切実な身体が存るか」「ここでダンスが生まれたか」、それが私にとってのダンスを観る基軸―。

今回の作品の傾向で二つ気になった点を挙げる。一つはダンスにおいての物語性、ということ。ダンスはストーリーを解説するものではない。コンテンポラリーダンスにおける物語(ドラマ)とは肉体の変容であって、ダンサーに演劇的な役者を演じて欲しいわけではない。演じようとすると往々にして孤独の真似、疎外感の真似といった嘘臭い表面的なものになってしまい、却って観客の感情移入や共感から遠のいてしまう。演劇に匹敵する心に訴えるドラマを作るには、もっと深い人間性の洞察が必要だし、言葉を介さない身体のリアリティが必要だ。勅使川原三郎がブルーノ・シュルツの小説や萩原朔太郎の詩を作品化しているが、筋書を説明したり主人公の感情をなぞるものではない。物語のテーマを最大限引き出せるイメージ豊かなプロットをどう構築できるかが鍵だと思う。ダンスシアターと呼ばれるピナ・バウシュなど、情動を揺さぶる演劇的なダンスのお手本は沢山ある。
もう一つは、お笑い系のダンス。
それは有りです。一途な身体は滑稽で泣ける。けれどやるなら巧妙に仕組んでください。爆笑だけど超シニカルとかあまりの奇想天外に脱帽、といったエンターティメントとしても万人にウケる作品を作るには、かなり戦略的な演出技術が必要ではなかろうか。これだけ世間にお笑いが溢れている今、更にダンスで何がしたいの?といった素朴な疑問。やっている本人たちだけが楽しく見えるのでは中国で流行の広場ダンスと大差なく、それではお金は取れませんよ、と辛口三昧。

総計36本を制覇する連日連夜、全身で舞台を受け止め一瞬も見逃すまいと、最大限の感度を働かせたつもりだ。心を空にして体感する。私は批評家でも研究者でもないので、舞踊学的な作品の解析や細かな技術の査定はしていない。あくまで極私的な感想文である。36組の出場者の皆さん、上から目線の物言いだったら許して欲しい。でも他者の目に晒されて鍛えられてください。リベンジの次回作には身銭を切って観に駆けつけますから。

[新人賞に推薦した5組]

山本裕『モザイク紳士』
後ろ向きに座った背広の上着から真っ直ぐに開脚した足が伸びている。男か女か判らない。灰色の包帯で覆われた顔としなやかな動きからはジェンダーを判別できず、危ういエロチシズムを漂わせている。真正面の照明の中で口元の包帯を解く。真赤な唇が露わになり、口から数個の鋲のような金属片を零れ落とす。スリリングな展開で怪しいイメージを掻き立てる。10分程度の短編だがきちっと纏まった構成力のある作品で、実力のあるダンサーだと思った。この挑発的で倒錯的な作風はキワモノに見られる危険性もあるが、舞台芸術でなければできない非日常へと飛翔するフィクションの構築は、芸術に必要だと思っている。そうした意味でこの作品は独特な世界を作ることに成功しており、そのインパクトは見事だった。一方、覆面の無名性は土方巽の舞踏手を一瞬連想させ、土方が舞台に持ち込んだ暴力性や肉体の危機の様相に期待を抱かせたが、後半それとは真逆にすんなりときれいに踊ってお終になったのが至極残念だった。身体自体を凝視する舞踏的な視座で更に展開できたなら、もっと硬質な深い作品になっただろうと思う。しっかりしたテクニックは持っている人だと思うので、この先の作品が見てみたい。

球磨ユキ『赤いため息-soft sounds from another planet-』
戦争や消費社会へのアイロニカルな批評性を含ませながら、卓越したオイリュトミーの技術を作品に織り交ぜたオリジナルな作風が興味深かった。舞台で何をどう見せたいのか、どう見えているのかが明確にわかって作られている、客観的な視点を持った作品だと思った。オイリュトミーが持つ音楽や言葉の響きと動きとの関係性など、コンテンポラリーの定番に異質な言語を持ち込んだ、その成果と今後の可能性が期待される。どこまでこの組み合わせが有効に働くか、またそこから新しい何かを発見できるのかを探求した、実験的な取り組みを評価したい。

矢島みなみ『composition』
「Composition-構成・構造」そのタイトル通り、身体の一つ一つの部位の構造を丁寧になぞり確かめていく所作が、見事な集中力で続けられていく。しっかりした身体の軸が空間に安定感を与えていたが、後半はその均衡を破り崩壊する身体へとコンポジションは進行していく。ミニマルな動きを誘発するぶれない意志と誠実さ。身体に向かう凛とした姿勢に、実力を感じさせられた。更に望むとすれば、自己を観察する洞察力と共に、観客と共有し外に開いていく意識が欲しかったと思う。

三田真央『reincarnation』
ブルーのワンピースを着た二人のデュオから始まるが、次々にダンサーが現れ6人が踊る。連日繰り広げられる新人コンペの作品群の中で、数少ない貴重なグループ作品だ。二人のペアは互いに身体に潜り込むように腕や足など細部に顔を近づけ、何やら匂いをかいで確かめるような仕草を繰り返す。彼女らがジャンプすると、ブルーのフレアースカートが宙に舞い、空間に描かれた曲線が幾重にも交差して美しい。技術が揃った6人のダンサーを適所に配置し、縦のライン、横のラインと様々にフォーメーションを変え、空間を活用したコンポジションが見事だ。振付けの言語は特に斬新ではないが、空間のあちこちで同時多発的に発生する動きの連鎖は視覚的な流動感をもたらし、作品にスピード感を与えていた。群舞でできる空間構成の特権を如何なく発揮した秀作だと思った。(個人的な好みを言えば、なめらかに流れる展開のどこかに、1箇所ささくれ立って引っかかるところがあったらいいな。)

今枝星菜『執行猶予』
白いキャミソールに露わになった白い足が生々しく、赤茶色の巻き毛がどこかロリータを連想させる。まだ大学生だが、初めてのソロ作品とは思えない期待の逸人だと思う。手の指先から足先まで身体の一つずつの関節を分節化し、操り人形のように左右の手と脚やさまざまな部位の二つの支点の力点をずらしてゆく。均衡や整合性を回避し、意識の回路を繋げるように一つの部位から一つの部位へとひねりや回転を入れる。そうしたアンバランスな運動によって創り出された動きから、未知なる身体の形状を探っていった。既存の振付けを使わず、まだ見ぬ動きやフォルムを身体から立ち上げようとする瑞々しい感性が印象に残った。まさにダンスが生まれる瞬間。身体に意識を集中させる無音の使い方なども見事だった。後半は繰り返しで単調になってしまったが、今後の作品に充分期待したい。

1/4
三谷真保『RED』
舞踏を思わせる背中のダンスから始まる。飛べない羽の痕跡を残すような背中の隆起は、 冷ややかな視線にさらされ痛々しい。足首に結ばれた細長いリボンは、幻影へと繋ぐ赤い回路のように彼女の身体をからめ捕る。最後まで物語性に閉じ込められた身体に亀裂が欲しかった。

砂と水玉『スクラップ・アンド・ビルト』
パフォーマーで演出家の市松氏の身体から醸し出される、生ぬるいヌエのような質感。「もういいかい」「まあだだよ。」「モシモシ?」問うているものも応えるものも実体が無い。掴みどころのない不気味な世界が映しだされて面白い。ただし中盤のダンスはありきたりでつまらない。残念!

中村駿『サハラ』
ダンサーとしてさまざまな振付家と仕事をしている最近の活躍は目覚ましい。ただし、ソリストとして、または振付家として自分を伸ばして行こうとするなら、あえて苦言を呈したい。身体が動く、もしくは踊れていると自負している自分に充足せずに、作家性を磨いて欲しい。干上がった河、干からびた身体、文明の墓場などの言葉が呟かれるが、踊る身体からは何のイメージも立ち上がってこない。涸れるという危機を身体に現出させる、踊る手前の試行錯誤を地道に行って欲しいと思う。

1/5
おやすみワンセカンズ『トゥ・マッチ・ペイン』
立ちはだかる壁に撥ねかえされる現実。しかし体操着で踊る健康そうな彼女たちの姿態からは、ひりひり焼け付く傷痕も黒いかさぶたも見えない。Too much pain 痛みを購え、全身で!「僕は嫌だ!」鬼気迫るパフォーマンスで過呼吸にまでなった欅坂46に、リアルさで負けてるよぉ!

樋口聖子『巡ル』
ドビッシィーのピアノ曲「月の光」に添うように踊る。誠実なソロ作品だと好感が持てたが、音楽の選曲も含め、もう少し実験的なチャレンジが欲しいと思った。誰もが知っている名曲を使う時には、曲の力に拮抗するだけの踊りの精度が必要です。踊り倒すかわざと外すか、どちらにしても音楽との真剣勝負に覚悟が要るのだ。

武田麻耶『record』
背後から他者に頭を抑え込まれ前屈になる。が、その腕をすり抜けて後ろに回り、今度は前に立つ者を抑え込む。4人の反復が続く。それぞれに他人の存在と深く交わることができない。他者は居るのに不在。立ち竦み遠くを見つめるラストシーン。類型的なストーリー展開に工夫が欲しい。物語を演じてしまうと、そこで生成されるリアルな感情まで絵空事になってしまう。

1/6
高瑞貴『くちばしの黄色い女』
コンテンポラリーダンス作品に多用される類似的な振付から一線を引いた、彼女の意志的な振付は、時に予測不能で目が離せない。踊る主体である自分と作品中の客体化された自分とをきちんとした距離感で把握しているように感じた。しかし客電が明るい中で始まり、明るい中で終る照明の演出。バックから差し込む明るい光から敢えて離れたハレーションの中で踊るラストシーンなどの照明効果は、作者の演出意図が今一つ伝わってこなかった。

水中めがね 『有効射程距離圏外』
客は冒頭に「ここ(劇場内)は安全な場所だ」と告げられる。何をしても怒られない、何が起きてもそれはフィクションだからか?ブレイクダンスでのひと踊りは見る者を充分楽しませる。この人は身体に音を持っている。踊る事の純粋な歓びに、目覚めた細胞の一つ一つが跳びはねているようだ。下半身が安定し体幹がしっかりしているので、日舞からストリート、コンポラと何をやらせても踊れるだろう。バックには商店街の裏の駐車場のような白黒映像が流れ、神社の笙の音、マネキンの頭の電灯で踊る。彼女のキャラか演出要素は饒舌で、何だか解らないが明るい気合いで何でもありにしてしまいそうな期待感が湧く。投影された映像は、雰囲気があったが単なる背景として使ってしまったのは残念。踊り手とのインタラクティブな要素を加味するなど工夫が欲しかった。演出意図が解らなかったのは、結構な分数をうす暗がりで踊り身体のデティールが良く見えなかったこと。この見えそうで見えない曖昧な暗がりは射程距離圏外というアイロニーだったのか。だとしても身体のフォルムは見えた方がいい。

田中朝子『imagination』
ふりしきる雨の音の中、白いかっぱで現れる。袋から出した沢山のペットボトルを並べてみる。大小のペットボトルに落ちた雨のしずくは、色とりどりの音を演奏するだろう。色鮮やかな雨だれの音を連想させるのに、ダンスには多彩な色合いが見えず、中盤から作品が単調になってしまったのが惜しい。

鈴木紺菜『向日葵-あなただけを見つめる-』
蝉の声高く向日葵の夏。陽に恋い焦がれ、向日葵の頭は太陽を追いかけて巡る。5人のダンサーがそれぞれに向日葵の花頭をかざし、デスコミュニケーション、疎外、拒絶、孤独、受容などの様相が綴られる。多人数のグループ作品になると、社会の様相や他者との関係性を映し出す作品が多く見られるが、その表現の多くが類型的なストーリー仕立てになり、表層を演じるだけになってしまうのが残念だ。

1/8
内田しげ美『ブラックホール』
水色のポリバケツの底は、虚空へと続くブラックホールの入り口だろうか?吸い込まれる空間のゆがみやねじれを現すような音の振動が面白い。筒状のパイプに息を吹き込んで増幅したり圧縮させたりして音を出す手製の楽器からは、さまざまな変化に富んだ音が生成された。しかし残念ながらそれに対応するダンスは、バケツのふちに乗っかったり、お尻を突っ込んだりと姿態の変化への仕掛けを試みたが、音以上にイメージを喚起する身体の変容は見られなかった。

美音異星人『スーパー満子』
オレンジ色のコスチューム、アーティスト養成ギブスに身を包んだ異星人が繰り広げるナンセンスバラエティショー。美音マシンが出す音は面白いが、異星人のパフォーマンスは一発芸以上のものは見られず肩すかし。おばさんは老い先短いのだから中途半端なギャグに付き合っている時間はない。抱腹絶倒させてぇ!

笠原すみれ『箱to 糸』
黒いドレスに身を包み下手のフットライトの中で踊る。踊れる技術は持っているのに、比較的穏やかな同じテンションで進んでいくので、空間も時間の流れも変容せず単調になってしまったのが残念だ。観客席の一番後ろ目がけてエネルギーを全開せよ。はたまた観客席の空気全部呑み込んで舞台に引きよせよ。観られていることに漫然としてはいけない。観客の視線を奪い取る対峙の覚悟が必要だ。

梁瀬理加・児島麦穂『手紙』
トイレットペーパーを身体に巻きつけ、二人を繋ぐ手紙になぞらえる。元気でゆかいなコンビ、というキャラを立てたパフォーマンスであるなら、身体や振りの個性ももう少し際立ててほしい。

1/9
イトカズナナエ『Babel』
作品の主体である自分の身体を客体化してみる俯瞰の目が欲しいと思った。時に自己の意識が身体の激高に埋没して、観客を置き去りにしてしまう。「大丈夫?」と思わず声を掛けたくなった。身体のテンションを開放と抑制のどのレベルに置くか、冷静なコントロールが必要に思われた。

住玲衣奈『←出口A9』
缶ビール片手にここは最終電車のホームだろうか。電車のアナウンスや発車のメロディが聞こえる。酔っぱらって千鳥足。そこから電流が走ったようにサスの中で一気に踊り出す。爆発するエネルギーを放出する身体の瞬発力は魅力的だ。ダイナミックな表現力はうむを言わせぬ力で迫る。だがしかし、音にのせる身体の使い方や間の取り方、ラップの言葉を刻んで当て振りするようなスタイルなど、如何せん川村美紀子に似すぎている。川村美紀子の大胆さには無防備なのか戦略的なのかわからない面白さがある。何層も違った色が重なり合っているようで、観客は彼女の正体を特定できず一層うまくかどわかされたいと興味が募る。それに比べ、住の色は単色に映る。きっと実直な人なのだろう。突っ走るならもっと常識を脅かす危うさが欲しい。立ち止まるなら彼女の大容量のエネルギーを一点に凝縮した精緻な静けさが欲しい。不本意にせよ川村と比較されるのは同時代のダンサーとして受容するしかない。ならば川村が持たない自分だけの何かを全く反対のベクトルで探すことも必要かもしれない。

大和『東京夢物語』
プロフィールから見ると踊りの技術的基礎は身に付けているのだろうが、振りの中で身体が流れてしまい、フォルムが定まらないのが気になった。深い呼吸で静止する、エネルギー溜めるなど、空間と時間の中に身体を知覚する。そのセンサーを研ぎ澄ましてみては。物語を語る以前の、気持ちよく踊る以前の、身体との向き合い方を深めて欲しい。

1/10
Von ・noズ『牙のありか』
上村有紀と久保佳絵のコンビでソロを発表している。一つの言葉からイメージを派生させ作品に発展させているが、毎回丁寧に考え練り上げた作品づくりが好ましい。床を拭いているのか何かを書きなぐっているのか、床に這い蹲り忙しく動いていく。床から壁へ、そして空間へ。慌しく何かに取り付かれた様に早いテンポで動き回る。タイトルにある牙とは?ラストの首つりの意味は?この作品には作品意図と解説が必要だった。 (後に、描きたかったのは牙が無いと言われている自分たちロストジェネレーションの置かれている状況と感覚、という作者の説明があった。) 抽象的なテーマを作品に具体化するのは難しいが、チャレンジは買う。しかし二人で考えながら創っているのだからコンセプトはしっかりしていると仮定する。であるなら、作品に客観性を持たせ、伝えたいことや表現が見ている方に明確に伝わらなくてはいけない。

A LA CLAIRE『ゆらぎver.K』
絵画のように静かな雰囲気のなかに、オレンジ色のドレスを着た二人が佇む。二人の関係性に劇的な変化は訪れず、それぞれが踊るソロは自立した即興にも見えるが、時にすれ違い交差する。つつましく露わになった個性の微細な差異が淡い色を添えた。二人が共有する空間と時間の静謐さがとても魅力的だったので、後半突如踊り出す必要があったのか。

さかいto しんじ『KANYUU』
大学のダンスクラブに勧誘する様を男女のペアでユーモラスに描いた。二人の突っ込みとボケ、身体の差異を強調した振りとコントばりのやりとりが面白い。大げさな身振り手振りが笑いを誘う。が、目指しているのは踊れる漫才コンビでいいのか?

1/12
ibis『si-ta-ta』
舞台奥から5本の指を目一杯広げ、空間を確かめるように上手から下手まで壁伝いに移動する。拡げられた手はそれ自体がまるでヒトデか何か生き物のようにみえる。今度は床に反転し、側面の壁を足づたいで移動する。足首を回し、足指を反り返して立とうとする。生前車椅子の大野一男が手首、指先だけでアベ・マリアを踊った光景が思い出される。せっかく興味深い導入なのに、中盤の針金のオブジェとの絡みは集中力が持続せず、放り投げて終止符を打ってしまった。終盤、「いやあ、恥ずかしいなあ」と観客に話しかける部分はどんな意味があったのだろう。舞台で素になった演者を観るこっちの方がよっぽど恥かしい。「実は僕、足指が3本なんですよ。」そう告白めいて言われると、観てはいけないものを観てしまった意識が働き、益々戸惑ってしまう。それは観客の視線へのアイロニー?

ザ・プレミアムワルツ『サヨナラ青春!』
彼らの過去の作品は何作か観てきたが、プレミアムワルツの作風って、こんなんだったっけ?赤いライトが付いたおもちゃの剣を持って男二人のチャンバラごっこが繰り返される。切った、切られた、だが何度死んでも生き返るごっこ遊び。途中アニメソングに乗って軽快ダンスも挿入される。リモコンで操作するTV画面に繰り広げられる仮想現実。青春ごっこからいつリアルを手にするのか。観ただけではあまりに幼稚な作品に思えるので、私には作品解説が必要です。本当は参りましたと言わせるだけの隠された意図があるのに、私の感度がキャッチ出来ないだけでしょうか?

小野彩加 中澤陽『共有するビヘイビア』
作品製作の過程を観客と共有し、その場で制作されるダンスを見せる、というコンセプトは面白い。こうして僕たちのダンスは作られます、とダンスを料理に例える、料理をダンスで比喩する、などの発想のアイデアが提示される。だが、そこで踊られるダンスは予め振付けられたダンスで、その場で生成されたものではない。実際に観客とのインタラクティブな創作過程でダンスが作り出せたなら、とても実験的で面白いものができたに違いない。

古茂田梨乃『夢から醒める、その前に』
黒いパジャマを着た女が座って小さなノートをめくっている。聴こえるのは小さな時計の音。時が刻まれるような身体の動き、そして水の音。水の流れにたゆたうような動き。もう夢の中だろうか。夢の中で旅立つ。リュックから出したものはトランプのカード。パラパラと零れ落ちるカードは明日を占う何かを暗示しているのだろうか。最後に彼女は鋏を取だし、拾ったカードを次々と切っていく。トランプのカードは1枚1枚象徴的な意味を感じさせる記号として面白いアイテムだと思う。残念ながら踊りのイメージが希薄で、運命を暗示させるドラマチックな小道具を活かし切れていない。

1/13
上原香『手紙を書く』
朝の目覚めからストーリーは始まる。手紙を書き、紙を折り畳んで飛行機のように飛ばす。物語の少年のように元気でさわやかな個性を持ったダンサーだ。印象的なフレーズの歌詞を用いた曲が3曲使われ、この作品の心象風景を表している。沖縄の曲に飛行機の爆音が重なるなど、日常を取り巻く社会情勢に対する彼女の想いの情感は伝わってくる。だがそれはダンスの力によってではない。曲や歌詞の力に依り過ぎていて、ダンスが当てぶりに終始してしまったのが残念だ。

Oblique line『運命』
男女が織りなすドラマチックなデュオ作品だが、藤森美貴子の情感溢れるダンスと石井武の神経症的なソロダンスのマッチングが面白い。途中、スタッフが出てきて照明機材を操作したり、白の紗幕を被せたりする。袖がない舞台の構造では操作する人の姿に目が行ってしまい、踊る二人への集中が外れてしまうので注意が必要だ。黒子は舞台上に存在していない前提なので、金髪は目立ちすぎてNG。白の紗幕に入ったシーンは照明効果でもう少し幻想的な世界を創りだせそうだ。小道具を使う場合には、外からどう見えているか、どう効果的に使えるか、最上の使い方を発見して欲しい。

Future Fighters! 『Fighter』
「今日の運動量は何キロ歩いて、消費カロリーは何キロ。」無慈悲な機械音に抗い、ダイエットに精を出す3人の女子。エクササイズスーツの上にフェイクの毛皮コートを羽織って、グラビアアイドルのポーズを連発する彼女たち。後半はそんな空しい努力が爆発する。二人の対決が格闘技さながらに激化し自棄のやんぱちのようなハジケ様。女の子の感覚-女子性(いったい何歳の?!)、女子の欲望ってこんなことなんだろうか。踊れるダンサーが必死にダンステクニックを駆使して踊りまくるには、余りに単純化された女子性の描き方で“もったいない。”

1/14
MIRA『Re』
男女が見つめ合い、歩き、ビニールの被膜に包まれる。違う惑星に降り立った、世界にたった二人だけの男女のように。被膜の中で幻想的に行われる愛の営み。クールで透明感のある世界の雰囲気は伝わったが、もう少しダイナミックに空間を使った二人のダンスパートが見たかった。

Pickles『ポケットプラネット』
鉄仮面のようなマスクを付けて元気な女子が踊る。NYのオフブロードウェイで人気を博している演劇を思い出した。観客は一軒家で役者が演じる日常の行為や事件を間近で観る。役者の周りを観客が取り囲むが、マスクを被ればそこに居ない、という設定だ。実体を隠した他者に囲まれ私たちは日々生活している。舞台では素顔の1人をマスクを付けた他の5人が囲む。「皆のためにいなくなってくれればいいな」棘のように突き刺さる周りの声とは裏腹に、ダンスは溌溂としたエネルギーで空間にリズムを刻む。ユニークな振りが面白く将来性を感じたが、作品の重いテーマが明るいダンスでかき消されてしまった印象を持った。

Mr’Scot『SHIRUKU』
四つんばいの登場シーンから、どこかコミカルで不思議な世界へと観客を導入していく。頭に折鶴やスチールのオブジェを冠のように被った3人のダンサー。時にはクラシックバレエを模した大仰な振りやロシア民謡カチューシャに合わせた踊りのシーンなどが挿入され、ファンタジーの奇妙な登場人物のようだ。だが、まるでサーカスの舞台裏のように、彼らはどこかチグハグで可笑しい。タイトルの「SHIRUKU」とは?フォーメーションや振付に工夫が見られたが、少しの作品解説やキイワードがあれば、もっとその世界を楽しめたと思う。

やまぐちゆうこ『称賛Accessaries』
舞台に置かれた箱の中からペンダントやブレスレットを取り出し、身に付けて行く。装飾する度に気分は高揚し踊り出す。アクセサリーへの執着や自分を写す鏡への眼差しはアイロニーだろうか、それとも幸福な様子をそのままを描いているのかはっきりしない。すらりと均整の取れた容姿で踊る華やかさを持っているが、作品はこのままだと単純すぎて奥行がない。美しい姿態に敢えて身体の不器用さを見詰める視点などあったら、意外性があって魅力が増すだろう。

花光潤子 (パフォーミングアーツプロデューサー/NPO法人魁文舎 主宰)
演劇・ダンス・ビデオアート・現代音楽などの現代芸術から伝統芸能まで、ジャンルを越えた実験的な舞台芸術作品を多数企画プロデュースする。海外との芸術交流も多く、外国公演のオーガナイズ、日本への招待公演、コーディネーターなどを務める。ダンスでは長年にわたり笠井叡、室伏鴻とKo&Edge.Co、山田せつ子、山崎広太、上村なおかなどのマネージメントを務め、笠井叡「花粉革命」「ハヤサスラヒメ」、室伏鴻「Edge」「DEAD1」、山田せつ子「Blanc」など多数プロデュースする。10年程大阪のIMI大学院スクールにて後輩の指導に当たり、アートマネージメントの若手人材育成にも務める。現在、海外ディレクターに日本のダンサー・振付家を紹介するInternational Dance Network(IDN)を主催。またダンスフェス&コンペ「Nextream21」の制作・審査員を務め、若手支援に力を注いでいる。


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