『ダンスがみたい!新人シリーズ』はノンジャンルのコンクールだが、審査にあたって、貫は、各作品がコンテンポラリーダンスとして成立しているか否かを基準とした。
ただし、ここでやや説明が必要である。「コンテンポラリーダンス」の実質について、一般にはまったく自明ではないからだ。理由は二つある。
第一に、モダンダンスやバレエとは異なり、コンテンポラリーダンス自体が多様である。1980年代、ピナ・バウシュやヌーヴェルダンス、アンナ・テレサ・ド・ケースマイケル、ウィリアム・フォーサイスなどによって種がまかれ、90年代以降、コンドルズやニブロールなど、日本を含む世界各地で同時多発的に爆発したコンテンポラリーダンスだが、その手法、美学は多様であり、一部のバウシュ作品やノン・ダンスのようにダンスが登場しないダンス作品すら存在する。
第二に、上記コンテンポラリーダンスの対極をなすモダンダンスもまた「コンテンポラリーダンス」と称される。マーサ・グレアム舞踊団の正式名は「コンテンポラリーダンスカンパニー」であり、モダンダンスの牙城である新国立劇場ダンス部門は「コンテンポラリーダンス」を名乗っている。モダンダンス、もしくはモダンは、基本的に、作家の想いやこだわり、作品の完結性や内部構造、諸要素の関連のみに自閉し、自足する感性・態度を特色とし、その淵源は19世紀的ヘーゲル美学にある。「コンテンポラリーダンス」に軸足を置くと自認し公言する者も、実質的にはモダンダンス的感性の持ち主である場合が少なくない。
本稿において、以下、「コンテンポラリーダンス」と言うのは前者である。コンテンポラリーダンスは手法や美学的には多様だが、その根本においては、観客に何かを届け、観客と舞台との間でなにかを起こそうとする感性を共有している。審査にあたっては、作品全体が立ち上げる世界やシークエンスの説得力、身体や動きとの連動性・整合性、動きや身体自体の独自性や音楽との連動性を、それぞれ、観客になにをもたらすかという観点から、検討した。
こうした観点から、今回登場した諸作品は、次のように評価される。
まず、ひときわ群を抜いていたのは住玲衣奈『←出口A9』だった。よろめきながら歩く女の冒頭シーンは、当初、凡庸に見えるが、後半、落魄の女性をテーマとしたラップの歌詞と結びつくと、ふたたび登場する同じ動きが一気に厚い意味を帯び、そればかりか、記憶に残っている冒頭シーンとそれに続くシークエンス全体がドラマティックなものとして蘇り、一気に時間が逆流する。ピナ・バウシュ《ヴィクトール》、発条ト《Living Room》のように長大な作品で複雑な時間構造を作ることはよくあるが、わずか25分のシークエンスでこのような構造を作ったことはそれ自体、特筆に値し、また、その世界自体も観る者の感情を揺さぶるものだった。
『執行猶予』の今枝星菜は、強靱な体幹と柔軟な身体を活かして、アイソレーションの効いた人形振り、また、腕を使うことなく下半身だけで変形する、小気味悪さが気持ちいい不思議身体、さらに、魚の群がとつぜん向きを変えるような動き、など、2000年前後に活躍し人気のあった天野由起子を彷彿とする身体自体が魅力的である。ただし、全体の空間設計・時間構成については、たとえば、その都度、下手の柱にもどってはステージ中央に出て行く、その局面ごとにに身体のあり方を変えるなど、もう一段の工夫が必要かと思われる。
以上、二作家に続いたのが、次の五作家。
鈴木紺菜『向日葵―あなただけを見つめる―』は、タメをきかせては解放する動きが、四肢やデュオ、ユニゾンやフォーメーション変化など、さまざまなレベル、さまざまな動きで一貫して追求され、ローザス《レイン》に通じる快さがあった。ただし、冒頭・末尾で強調される向日葵がらみの設定の意図、また、それと動きとの関係が、観客には伝わってこなかった。
中村駿『サハラ』は、腰を落とした低い体勢からの裏切りとイリュージョンに満ちた動きが足腰の強さをうかがわせて力強く、また、文明の興亡をめぐる作品世界も明確だったが、そのコンセプトをもうすこし身体に落とし込むことが望ましい。
Pickles『ポケットプラネット』は、スピーディかつ綿密なアンサンブルの展開によって、ダンスを快く楽しめた作品であり、また、それを踊りきったダンサーも見事だった。ただし、語彙にときどき既視感があり、また、ところどころにあらわれるドラマ的設定の意図、また、それと動きとの関係が不分明だった。
三田真央『reincrnation』。冒頭、互いの身体に絡み合うペア、水平払いの動きからの展開、身体の組み合わせ、最後のデュオなど、動きの設計・構成は明解だが、シークエンスの必然性、とりわけ最後のシーンが登場するまでの経緯が不分明だった。
武田摩耶『record』は、中盤以降、緩急のついたユニゾンやフォーメンション転換でダイナミクスを切り替え、密集と散開などによって空間の質感を変化させるなど、これもダンスとして快かった。だが、冒頭の「すべる」動き、末尾近くの「孤独」といった設定の意図、また、そのダンスとの関わりが不分明。
各作品は、それぞれ程度の差はあっても、ダンス部分と世界や設定との関係に工夫を凝らす余地がある点に共通の課題があった。
以下の十三組の作品にも光るものがあった。
おやすみワンセカンズ『トゥ・マッチ・ペイン』は、標題にあるとおり、グルーヴィーな曲とギクシャクした動きのミスマッチ、転倒、激突、苦悩の表情など、あの手この手で痛みを表したが、それが観客にどう感じられるか、たとえば、舞台上の動きによって観客自身も痛みを感じるし、それはたいへん効果的な飛び道具であるはずだが、それを利用し、操作する視点は希薄だった。
『嘴の黄色い女』の高瑞貴は姿のよいダンサー。ディキシーランドジャズを使いながら、曲調にひきづられた激しい動きではなく、静かな動きを合わせたのは賢明。最後の照明とシルエットの切替の効果は疑問。
田中朝子『imagination』は、観客に背中を向け、身につけたコートの中に手を入れて奇怪身体となる、最後、ペットボトルを入れた袋が人間に変身する、など意表を突くアイディアもあったが、映像や動きなど、全体に印象が希薄。逆に、希薄感を出したいのなら、その意図を伝えるサインをどこかに入れるべき。
水中めがね∞『有効射程距離圏外』は、しゃべりとヒップホップの動きから、戸外の情景、半裸でのダンスという構成は明解で、はじけた感はあったが、はじけることが自己目的化しているような印象があった。
A LA Claire『ゆらぎver.K』は、二人の女性による清潔感のあるセノグラフィー、動き、姿だが、動き自体にはリズムやドライブ、タメはなく、ひたすら、振りであらゆる瞬間を埋めたいという欲望に満ちている。外見と欲望のそのギャップを活かすと面白かったかも知れない。
小野彩加 中澤陽『共有するビヘイビア』。ダンス制作過程を見せるというコンセプトは明解だったが、同種のやり方はコンドルズのネタバレアンサンブルやお題即興、バウシュ『ワルツ』、など多数あり、いずれも振付や動きを言語化することで生まれるギャップを用いてさらに大きな効果をあげていた。メタダンスというコンセプトの次の段階における演出や効果まで計算する必要がある。
笠原すみれ『箱to糸』。美しくバランスのいいダンサーであり、ジャンプして反転する、脚を前後する、など、随所に効果的な振付があった。冒頭、両腕十字のシルエットが崇高を感じさせるべきところ、会場の壁に凹凸があったためうまくいかなかったのが残念。
中屋敷南によるFuture Fighters! 『Fighter』は、エアロビやボクササイズなど、ファンキーな動きが楽しいが、後半、女性の本音にいたる構成は既視感。
砂と水玉『スクラップ・アンド・ビルド』は、前半のたよりない身体と、後半、グルーヴィーなアンサンブルの展開とのメリハリが出色だが、子ども遊びの使い方に工夫が必要。
MIRA『Re』は、巨大な半透明の膜を活かして、胎内から誕生、成熟、男女の交わりというプロセスにまとめた構成は明解だがまとまりすぎ。
三谷真保『RED』は、冒頭、背中の動きの緊張感、アラベスクのポーズから前に倒れる意外性など、光る動きもあったが、せっかくできた緊張感を崩してしまったりなど、個々の所作の効果をよく吟味する必要。
oblique line『薄命』。タメがある動きはよかったが、動きがときどき段取りぽくなるのは踊り込みが足りないせいか。設定に工夫すれば、途中、電球や布を用いたシーンなど、もっと大きな世界を感じさせることが可能だった。目立ちすぎる黒衣も、それをあえておこなう意図を伝える工夫が必要。
内田しげ美『ブラックホール』は、身体の強さを感じさせたが、低く静かなシーンから、徐々に高まり、静かに縮む構成はあまりにも明解。後半、口琴の煌びやかな音の拡がりと身体とのギャップを感じた。
以上の作家の多くは、舞台上で行っていることを観客にどう感じてもらいたいのか、観客にどのような効果や力を及ぼせるかに配慮すると、格段のレベルアップが可能になるものと思われる。
その他、以下の一六組の作家が登場した。
Von・no ズ『牙のありか』は、床を躄る足と曲調の呼応性、ありがちな動きを断片化する部分、など、見るべきシーンもあったが、空間を組みたて、自分の動きを紡ぐことに専念する作品態度は、自分の世界の完結性にこだわり、観客に何かを伝えようとする意欲は見られなかった。
山本裕『モザイク紳士』は、動きのいいダンサーではあったが、10分ほどの間に多くの仕掛けを詰め込み、基本的に、現代舞踊協会のコンクールなど、リスト化された採点基準にあわせて必要な要素のすべてを組み込んだ、モダンダンス作品。
樋口聖子『巡る』は、清潔感のあるダンサー、照明、選曲。途中、興味深い身体の使い方も見られたが、上演時間も短く、習作段階。
Mr.Scott『SHIRAKU』。緊張感のある所作はよかったが、三人の女性が頭にのせるかぶりものの意図など、思い入れと観客とのコミュニケーションとの間に懸隔があった。
美音異星人『スーパー満子』。股間に当てた布による意表をついた仕掛けなど、組み立てや見せ方をもう少し磨けば、海外で受けるかも知れない。
八島みなみ『comosition』は、冒頭の静かに各部位を動かしていくところなど、なんらかのアルゴリズムもしくはルールにしたがっている、一時のポストモダンダンス的作りかとも思われるが、最後まで完遂できなかった。
球磨ユキ『赤いため息-soft sounds from another planet』は、選曲、また、最後に白い羽を見せる演出は美しかったが、動きや小道具、セリフで特定の世界を描こうとするコンセプトがモダン。
ザ・プレミアム・ワルツ『サヨナラ!青春』の二人は、後半のオタクダンスなど、高い身体能力を持っているはずだが、前半、ライトセーバーのやり取りはあまりにも幼稚で雑。
『夢から醒める。その前に。』の古茂田梨乃は、きれいなダンサーで、関節の使い方など興味深い動きもあったが、全体の構成、作品世界が自己完結的。
やまぐちゆうこ『称賛』は、美しいダンサーでシャープな動き、作品構成も明確だったが、全体がミュージカルなどのクリシェに満ちている。
梁瀬理加/児島麦穂『手紙』。衣装や体型、動きなど、すべてが子ども遊び風で「かわいい」が、既視感。
イトカズナナエ『Babel』は、選曲がよく、また、地上から天上にいたる構成は明解だが、照明などの効果は疑問。
[さかいtoしんじ]『KANYUU』。笑えるダンスというコンセプトは評価するが、個々の仕掛けの効果は疑問。
ibis『si-ta-la』は、面白い動きもあったが、最後、観客に話しかける展開については、その効果について熟慮の余地がある。
上原香『手紙を書く』、後半、シーンや視角、照明の切り替えは可能性を感じたが、全体に、設定した状況を安易になぞった動きに見える。使用楽曲も説明的。
大和『東京夢物語』は、元気のいいミュージカル的構成だが、随所に既視感。
貫成人 (舞踊批評 哲学・舞踊美学)
『バレエとダンスの歴史』(平凡社、共著)、「近代の残滓としての芸術」『大航海』、「針の先で天使は何人まで踊れるか」『平成18-21年度文部科学省科学研究費基盤研究(B)研究成果報告書』、『哲学で何をするのか』(筑摩選書)など。『ダンス・マガジン』『照明家協会雑誌』などに舞踊批評を執筆。専修大学文学部教授。舞踊学会理事。
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