新人シリーズ8受賞者

新人賞/小山綾子『あたまからつっこみたいの』
オーディエンス賞/
南弓子『MUSHI‐KERA』

●新人賞審査委員:
志賀信夫・西田留美可・坂口勝彦・竹重伸一
Katja Centonze・矢内原美邦

2010年度1月にdie pratzeで行われた新人シリーズ8の受賞者は上の2団体となりました。


新人シリーズ8講評

以下審査委員、その他・宮田徹也氏,、廣野誠司氏から寄稿があったものを掲載していきます。

写真の撮影者は田中英世さんです。

総評 志賀信夫
「コンテンポラリーダンス、新しい人が出ないねえ」こんな言葉が交わされることも多くなった。しかし、それはマスコミ的に目立つ人がいないということにすぎない。NHKでコンドルズが注目を浴び、勅使川原三郎、伊藤キム、黒田育世、康本雅子なども何度もテレビに登場した。だがそれは、「コンテンポラリーダンス」というジャンルが、マスコミ的に目新しかったからでもある。
 朝日舞台芸術賞がなくなり、助成金の縮小など、ダンス公演についてはマイナスもある。しかし、現在も新しいダンスを創造しようという人々のエネルギーは、とても強い。そして何よりもそれを、自らの体そのものから生み出そうとしている人が多いということは、やはり注目すべきだろう。
 哲学的な身体論が流行り、特権的肉体論などで体が注目され、アンダーグラウンドや前衛演劇などの表現、舞踏などが輝いた1970年代。それから40年の時を経て、「身体」「肉体」「体」が復権している。そしてそれをもっとも顕著に表すのが、身体表現、ダンス、舞踏、バレエなどの舞踊とパフォーマンスである。コンテンポラリーダンスが注目されたのも、その復権が背景にあるからではないか。
「ダンスがみたい!新人シリーズ」はその最も熱い新人たちを支えてきた。ソロが多いのもその特徴である。まずは自分の体から何を生み出すか。それを探る。それがダンスの原点だろう。それがないと、デュオ、トリオ、群舞にしても成立しない。そこが弱いままアイデアで進もうとすると、厳しい。その場合には、自分に代わる強烈な身体性の存在が必要なのだ。土方巽が大野一雄を求めたように。
 そういう意味で新人賞となった小山綾子は、その身体感覚が最も顕著に伝わった踊り手だった。オーディエンス賞の南弓子は舞踏出身で、映像などを使った手法も含めて、魅力的な舞台だ。また、僕は特に鈴木拓朗のグループを推した。アイデアが秀逸で、映像などの使い方もいいのだが、やはり身体をきっちり探っていることが原点にある。そのうえで、ちょっとお馬鹿に弾けようとする。逆にソロではなく、グループで何かを作ることができるのは、貴重な存在で、若い勢いを感じた。今後に期待したい。

総評 宮田徹也
「ダンスがみたい!新人シリーズ」の特徴は、自らが新人と名乗れば新人であるという特徴を持つ。そのため、大学や研究所で研鑽を積んで初の舞台を踏む者もいれば、既に多くの実績を持ち数々の公演を行なっている者、この新人シリーズに何度も登場している者もいる。また、この直前の時期に東京ダンス機構提供「アノニマス舞踏会3」(12月9~11日/森下スタジオ)、片岡康子監修「DANCEHOUSE26」(12月19~20日/ムーブ町屋)に参加し習作を披露した者も複数いる。それは、みる者にも言えることなのかも知れない。初めてみるダンサーもいれば、何度もみているダンサーもいる。また、この新人シリーズを以前から通してみている場合もある。その中で、何を基準として「新人」とするかは困難を極める。特に何度もみているダンサーに対しては、以前の公演と比べてしまったり、また同じことをしていると思ってしまったりと、偏った見解から逃れることができない。このような傾向を超克するために、みる者は常に新しい視線を獲得しなければならない。
この点に注意を払いながら新人シリーズを総論してみると、女性の出演者が多いためか、閉塞的な時代にありながら、柔らかい芽吹きを感じる公演が多かった。時代の考察が欠落した楽観的/享楽的な作品が並んだと見るのは、短絡であろう。ここに出演したダンサーが創り上げる作品から、これからのダンスの動向や、芸術の、文化の変遷、果ては希望の時代を求める人間の在り方を探っていかなければならない。
私は、新人としては上手い作品を提示できた白井麻子とCOLONCHと寺田未来に「賛辞」を、経験が浅く拙くとも今後に期待ができる前納依里子と奥野美和と栄華とケイコラゴに「奨励」を、新人らしく斬新な視点を提供できたlente.と秦真紀子と坂本知子/西村香里とシュガーライス・センターに「賛美」の言葉を贈る。決して他のダンサーが劣っている訳ではないことは勿論である。しかしながらやはり「新人」という言葉から何を想起し、何を創り出し、何を見せるかを深く考慮した上での「決意」が、ここには必要だと思う。

総評 廣野誠司
 自称と実際の“新人“が混在出演する”新人シリーズ8“当然、実際新人は不利で、些か乱暴な感、否めず。
 自分が観た回はB~Hグループ。どの出演者/グループの場合も”何を観て欲しいのか”をポイントに観た。
個性と言っても身体の特徴、運動能力と表現スタイルとがあるが、身体では出演者の個性が出ているケースも多かったが表現スタイルに関しては見え難いケースが多かった。
 体力の時間配分に関しては、文字通りの新人の場合、持ち時間の間、常に見せる事は難しく、息切れする前にリラックスする為の戦略的な構成力も養う機会になったのではないだろうか。
 表現、構成に関しては、定型技(つまはじき、ユニゾンの構図等)、既存ネタ(ゴシック、アングラな演出)に身体、動き、演出、映像を詰め込むが、作品としては未整理だったり、定型、既存な見せ方が枷になり、作品自体よりも表現の不自由さが目につき、オリジナルのスタイルの獲得に至らないケースもあった。これらは、観客にみて欲しいポイント、見せ方、各要素のバランスを整理する事で作品全体の印象も改善されるので今後に期待したい。
 今回上演のdie pratzeは、昨年のd-倉庫より舞台も客席も狭く、新人シリーズ7の出演者にとっても空間の狭さ、濃密さ等、勝手が違うので空間の使い勝手の点では初参加の人と条件は同じ人もいたと思われる。
 客席は減ったが動員はd-倉庫並みの日もあり、桟敷席を作った分、舞台面積が更に削られ、作品の意図を出し切れなかったグループもあったと思われるので、劇場サイドには会場、上演日数などへの対応を希望する。


AGroup 1月9日(土)
lente.『lente. 1』
志賀 荒木志水(荒枝志津)と音楽の柳本和弘によるグループ。ゆっくりという意味のlenteなのか不明だが、体一つが淡々と静かに動き、展開するコンピュータで紡ぎ出される音はノイズ系。しかし、非常に音量を抑えて、静かに踊りに随伴する。音と踊りの理想的なつながりを探る仕事のように思える。これからの展開が期待できる。


宮田 柳本和宏の電子ノイズが響き渡る。舞台最前左で背を向けた荒枝志津は振り返り、右肘を曲げる。荒枝は音を解釈し型を用いながらそれを壊していく。暗転を経て転がしのライトが創り上げる影が印象的だ。スクラッチ・ノイズが響き渡る中、右掌甲を背中に乗せ、素早く動いてみせる。電子ノイズに難解な展開はなく、却って曲のような解り易い序列がある。右足踵を上げ、壁に到達して淘汰される動きには、ノイズとの対話が秘められている。


白井麻子『underneath』
志賀 長くモダンのキャリアがあるダンサーで、振付家として活躍している。冒頭、無音から静かに動き出し、両手両足を広げて立つ大の字の姿は、照明の効果もあったが、圧倒的に目を奪った。グループの振付でも活躍しているが、ソロとしてこのように立てるというのがまず何よりも重要なことだと思う。その意味でも見習うべきダンサー・振付家だ。


宮田 闇の中に体が浮かぶ。両手を横へ広げ肘を垂直に保ち、足を運んでいく。無音から、ピアノが奏でる現代音楽の旋律とリズムが強く響き渡る。床に仰向けになると暗転し立膝で体を揺らす。持続的電子音が響き、そのテンポと共に白井のダンスは速度を増す。曲が止まると後方から前へのライトの中、爪先立ちとなる。屈むと青い光が、戻ると白い光が灯る。ミニマルな軟らかい曲と共に柔らかく舞う。全ての動機が連動し無限連鎖する。


やのえつよ『シカク』
志賀 女性2人と男性1人。この男性が1人座って語り出す話はやたら面白い。聞くとアドリブだというから、びっくり。劇団に所属して芝居をやっているらしいが、即興的であるがゆえに、ダンスと合うのかもしれない。身近な物語を必ずしもつながりのない動きとともに演じるという、1人チェルフィッチュ的なものだが、即興というのが本当に凄い。


宮田 女性が後ろ向きで、額と両足をつけて腰を上げている。アルコーブ左に男性、右に女性が見える。規則的なピアノ曲が鳴り響き左右のみの照明の中、三者はマイム的動作を見せる。やがて同じ振付となり、軽快な曲に合わせてランダムに動き回る。座り、再びランダムに歩む。暗転を経て男性が即興で「苺大福」についての夢想を喋り捲る。女性が旋回する。流れるドラムに合わせて再び三者は同じ振付で舞う。演劇的要素が見え隠れする。



BGroup 1月10日(日)

栄華『人生百年』
志賀 韓国の歌を歌いながら踊るというチャレンジ。歌と共に踊るというのは、実に難しいが、歌がしっかり入っているため、それが安定している点は、評価できる。あとは歌と動きのバランス、全体の構成。それぞれの場面と場面が切れているような印象で、コラージュ的に並べた感があるので、もっと場面をつなぐ意識が必要だと思う。


宮田 作品解説をするアナウンスが聴こえる。後方から黒いヴェールを被った栄華が入り、歩む。暗転後、ヴェールを取り床に展開する。右手をくねらせ体を揺する。旋回し、声を出さずに口を動かす。再度暗転、ディスコ調「故郷」が流れ、それに合わせて足を踏み、曲を止めるように促す。三度暗転、演歌が流れる。伸ばした体を倒し、歌う。四度暗転、壁面の紙を操る。明暗転により物語性を物語性によって打ち消してしまい、体と歌が出てこない。


廣野 韓国の歌、台詞や、ふいに音楽に反応する身体、など、環境(周囲)に左右される不安定さと元気なパワーの組み合わせで構成するが、ネタの羅列に終始、場面ごとのブツ切り感の所為か全体を通してのイメージが見えない。暗転の時間を短縮してブツ切り感を見せない工夫、ネタの整理と構成力が欲しい。


河原田隆徳・ゾーハウ・コーヘン『RED DESSERT』
志賀 黒っぽい顔を隠した衣装で舞台手前にうずくまる存在。それに対して絡み出す男。暗黒舞踏のアングラな匂いがありながら、随所に「見せる」という要素が出てきて、なかなか完成度が高い。ただショー的に見えかねず、それを超えるにはもう一つ、舞台を抽象化する、あるいは完全に個人化する意識が必要だ。


宮田 電子音が唸りをあげる。黒服、仮面の河原田が前方で背を見せ振り返り横たわる。赤いライトが場内を照らし、フリージャズが響く。コーヘンが床を這う。ハウリングが鳴る。河原田の膝にコーヘンが乗り、そこに立ち上がり服のフォルムを残して抜ける。河原田はアルコーブを廻り、コーヘンは床で背を反る。河原田はコーヘンを抱える。二人は離れ、対峙し、絡んで離れる。音と照明の演出がなくともこれからの二人の物語は始まっている。


廣野 河原田隆徳+ゾーハウ・コーヘン/RED DESSERT
 この時間のみ、上手袖でみたので、出演者の表情は半分位は解らず。ゴシック風衣装に力を借りた時と衣装を取った時とでパフォーマンスのレベルがダウンしてしまった。二人羽織など仕掛け、アイデア勝負以上のものがなかった。


寺田未来『KURO』
志賀 話を語りながら踊るという、これも非常に困難なものに挑戦している。話の面白さでついつい引きこまれるが、踊り自体もなかなか魅力的。ただ、突っ走るパワーに対して、裏というか、しっとりと引くような場面をつくり、コントラストを強めると、より、その魅力が生きるだろう。


宮田 田舎暮らしにより心が「真っ白」になってしまった御婆さんが御爺さんを残し都会に進出、「真っ黒」になる過程を延々と語りながら舞う。寺田の発想には舞踊の基礎である古代演劇や、日本でいうと琵琶法師のような語り部的要素が満ち溢れている。そこには言語論的で難解な思想よりも、芸能的な実践がある。御爺さんを花に見立てたり最後には雪を降らせたりと想像力の展開を図るのだが、それ以前にそれらは寺田の身体に隠されている。


廣野 昨年の走り、踊るウェイトレス達~を今回はソロで。
場と身体の関係から出てくる言葉、反応を見せる意図、との事だが、今回も寺田の走り回る体力と肺活量に注目した。タフさと押しつけがましく無い程度の客いじりのさじ加減がこの人の強みなので、更に使いこなして欲しい。


CGroup 1月11日(月・祝)

ケイトラゴ『Forest』
宮田 赤いライトの中、二人は背を向ける。頭を叩きあい、平地は加茂を抱える。暗転、古いジャズがかかり、オレンジの光の中で平地は足踏みを続け、加茂は素早く移動する。二人は対角線上で別々に膝を床につく。平地は加茂の膝に乗り、ずり落ちる。兎跳びの姿勢で交互に進む。立ち上がり、手を差し伸べあい、抱き合う。電子音が鳴る中、二人は床を無表情で這う。物語性を排除しきれている。流血しながらも続けた加茂が光った。


廣野 舞踏駅伝のリベンジバージョン。コントでスタート、森の中の環境条件に身体、心理が影響される様子を舞踏、マイム、太極拳等の動きで構成。動きの振り幅から見て、d-倉庫を想定して創ったと思われる作品をdie-pratzeに持ち込み、空間サイズを読み誤った様で、怪我した点には同情する。


まくらとジョーロ『111』
宮田 ヴァイオリン、タンバリン、その他がライブで鳴る。二人は関連のない動きを繰り返す。日常的動作が含まれている点のみ共通している。ホワイトノイズが流れ、伸ばした四足から中央で仰向けとなり、立ち上がり、走っては倒れる。オルガンと笛がスピーカーから流れると、小刻みに身を震わす。生音と録音、日常とダンスという対比が見られず、且、コラージュにも成り切っていない。狙いを明確化すれば、その本質が浮かび上がる筈だ。


廣野 楽器と身体の構成。
 動き周り体力浪費のグリーンと微動、マイペースのブルーのコントラストで見せる。身体の強度、テクニック等を空間配置とディスコミュニケーションネタの演出で補完、構成したが、結果的には身体が弱く見えてしまった。演出、映像ネタはあっても構わないが動きのバリエーションを増やした上で構成しないと、身体が置いてきぼり、の問題点は変わらない。


南弓子『MUSHI‐KERA』
宮田 エフェクトされたトランペットが響く。光を頼りに直進するような映像が後方壁面に投影される。南は中央で椅子に座り、足を手摺に置く。映像が閉じて暗転しても曲は続く。闇の中で机が倒れる音がする。明転すると南は右側で椅子の上に立っている。降りて座ると指の影のような映像が流れる。床を展開し、座ると音が止む。体を振り解くようなダンスだ。繰り返す映像と爆音によってその体が引き立つのか、それとも失われるのだろうか。


廣野 テーマの不自由、社会的圧迫感の時代性と南の年齢とのギャップが気になった。更にテーマの所為か折角の身体能力の高さを活かせない点は勿体なかった。激しく動き身体能力をアピールすればいいという訳では無いが、不自由さの逆説として身体能力が浮かび上がるのもどうかと思う。


DGroup 1月15日(金)

おまゆみ『おまゆみ』
志賀 赤い紙テープが解けていき奇妙な軌跡を描く。それを中心にしたパフォーマンスを展開。黒と赤の服装で狂気のように騒ぐところとあいまって、他の人にない不思議な雰囲気を醸しだす。問題は、一芸モノになりやすいところ。テープは最後にとっておいて、冒頭は抑えて、狂気も僅かに覗かせるくらいにして展開すると、作品としてもっと立つだろう。


宮田 意味不明な言葉を綴り、赤いリボンテープを抱えて登場する。落とすとリボンは放射線状に広がる。無音の中、足にリボンを絡めながら進む。片手、両手でリボンを解しながら客席ギリギリに突入し、リボンを投げる。アルコーブの中から叫び声を発しながら直径30センチほどの電球を舞台に持ち込む。電球をリボンで包み、寝転んで足を揺るがす。壁に凭れ掛ると終了する。リボンでもダンスでも観念でもない、行為そのものに目を向ける必要がある。


廣野 黒の衣装の上下、赤テープ、意味不明な幼児もどきの奇声、は基本的には今回も変わらず。客いじりの加減にも慣れた様子。
 電球と赤テープで、美術的に広がりを持たせた点が今回の見所。赤テープが単なるテープからカラースプレーやホースで水を撒いて遊ぶ光景へ、と自然に変容する過程が良かった。今後、ワークショップ等の経験を通し、更に表現の幅が拡がる事を期待。


TIPPED『differential』
宮田 無音の中、前に座った女性は体を伸ばし左足を掲げてうつ伏せとなる。リズムの強い曲がかかると正座の体勢になる。右奥から二人の女性が登場し、一方が他方の足の間を潜る。徐々に中央に進み、同じ振付で二人は舞う。初めの女性は退場するが、直ぐに二人の振付に参加する。しかし彼女は次第に二人とずれ、柱に寄り掛かる。ピアノが鳴ると終了する。「再び動き出そうとする効果」を狙うとすれば、体だけではなく意識が伴う必要がある。


廣野 タイトルの意味は差別と差異の2つ。
 主役のダンサー1名+コロス2名で、同じ振りを与え、動きの幅、タイミングの差異を見せる定番的手法でテーマの1つ目の“差異“を提示。
 3人ユニゾンでズレから動き、身体能力の差異を1対2で提示。つまはじき(村八分の構図)から2番目の“差別“を提示。構図のフォローの為の芝居、演出主体、身体は説明役扱い。


吉川千恵『han』
宮田 白いスカートで旋回を繰り返す。暗転し、スポットが当たる。両手を上に、機械的に踊る。携帯電話とスピーカーから同じ曲を流す。床に展開し、立位置で大きく体を振る。突如無音となるが、再び鳴る。再度床を廻り、立ち上がって大きなステップを踏むと突然暗転し公演が終わる。非常に可憐なダンスであるからこそ、そこからはみ出したものを見たかった。しかしその繊細さにまでこちらの視線が届いていないかもしれないという想いもある。


廣野 作品構成の雛形に則り、作って見せる、判りやすい構成。同じ場面で景を区切り、携帯電話とスピーカーからの音響に同じ曲を使い音的な繋がりを(プロローグとエピローグの関係にして)持たせる、の2点。
 構成は判り易いがテーマ、言いたい(見せたい)ものは見えず。


EGroup 1月16日(土)

COLONCH『the 8th day』
宮田 後方壁面に四本、前方に一本、白い帯が弛ませて張られている。前方に白い衣装の女性が一人、後方に黒い衣装の女性が四人位置する。前方の女性は椅子に腰掛ける。後方の女性達は洋楽がかかると手を回す、ステップを踏むといった同じ振付で舞う。椅子に座る女性が立ち上がると四人は倒れる。椅子から降りた彼女がソロで踊る。中央に机が持ち出され、モーツァルトが流れると蝋燭に火が灯る。帯を使った舞は、虚しさよりも儚さを伝えた。


廣野 色数を白と紫の2色に絞り、空間をシンプルにまとめる。白い帯(リボン)を舞台美術兼ダンスの小道具として使用し、舞台背後の壁に白い帯をアーチ状に上手~下手に張り、出入り口にもアーチを創る。
 BATIKのメンバーがいる所為か(BATIKに)似た動きが目立つ。白チームと紫チームでメインとコロスの役割、関係性を切り替える見せ方は作品の流れに無理が無く、上手さを感じた。8個のキャンドルと、タイトルが何の8日目か、の意味は判らず。
 個人をアピールする場面ではテーブルをお立ち台にしてコミカルに演出。白い包帯を、スリット状の背景、リボンを2人~5人で白いアーチを作る等、一つの小道具を様々な形に切り替えて見せる等、引き出しは多い。


秦真紀子『タイトル未定』
宮田 闇の中に呼吸音が響く。ライトを抱え、白いヴェールに包まれた秦は横たわる。水の流れる音が聴こえる。立ち上がり、ライトで床を照らしつつ歩む。持続的電子音に肩を揺るがす。後方壁面に上体を落とす。動かした両手を動機に、足、腰を連動させ、爪先でうねる様に進み、体を波打たせる。空間と場所に溶け込み、爪先から皮膚の間にまで踊りが染込んでいる。無駄なものが一切ない。ふと力を抜く姿も踊りとなる。踊りの未来を予感させる。


廣野 12月のco-Re-color/兎に角。@RAFTの改定、発展版。
 ”兎に角”では背中を中心に部分~周囲の波及を見せたが、今回は波及範囲を全身に拡張。軸の傾き、重心移動による(背中、上体以外に)下肢足回りへの影響がポイント。
 背中の面~軸~点の動作、軌跡と切り替えをキーに作品全体を構成し、パーツ単位よりも全体で見せていた。左右の肩を結ぶ横軸を上下に転がし、線(の転がり)から点(の移動)のプロセスと、足への負荷のかかり具合を同時に見せた。良く撓る板の様な背中の強靭さに比べ、足周りが相対的に負け気味な点は今後の課題か。


前納依里子『脱XXX!』
宮田 ロープが天井から垂れ、先端に縫いぐるみが括られている。左奥から照るライトの中、うつ伏せとなる。暗転、ライトが差し込むと膝を抱え黒いショールで口を隠す。床に展開し四足となり移動する。ロープを足で手繰り、縫いぐるみを柱に括りつける。ポージングを経て縫いぐるみを解放、青い光が差し込むと倒れる。左足で立ち尽くし、床を転がる。仰向けで手足を上にさ迷わせる。象徴性が感傷に見えてしまうのは、肉体を晒し果てた後にある。


廣野 鬱陶しい日常からの脱出願望がテーマ。衣装、ぬいぐるみで日常、部屋の雰囲気な構成は判るが、反面、テーマ性が作品の印象をありがちなものにしてしまい、折角の身体能力、脚力が活きてこない点が勿体なかった。素直にこの脚力をメインに見せる構成の作品を作っても良かったと思う。


FGroup 1月17日(日)

岡佐和香『水の縄、煙の巡り』
志賀 冒頭、あまり動かずに淡々と舞台の手前で踊り出す感覚はいい。それからの展開も見せるし、テクニックも十分、身体感覚もしっかりしている。ただ全体にきちんと踊りすぎている。コラージュした音楽とともに丁寧に作っているのだが、見せ方を心得ているためか、少々ショー的に見えてしまう。実験性というか、はみ出しがほしい。


廣野 身体の柔軟性、小道具(レースらしき半透明の布、ランタン)、音楽でインド舞踊の空間、雰囲気を構成。アームスのウェーブはバレエ経験を窺わせる。座って足を浮かし、腰で周り、手足を微妙に動かすところまではいいが、レース生地を手にとっての動きが単調。ネタ切れと後半のスタミナ切れが見えてしまう点が辛い。無理にあれこれ取り込まず、ネタも時間も絞り込んで構成した方が良いと思う。


小山綾子『あたまからつっこみたいの』
志賀 ノイジーな音、そして幼児のいる家庭の団欒などの音が流れるなか、体をよじり、股間を前に出し、ダンス的でない動きを追求しながら、しっかりと踊りが浮かび上がる。この動きへの追求と身体への意識の集中、緊張感は、その独特の個性を生み出している。音は子ども時代の自分と家族らしいが、それと対峙する強い踊りであり、見応えがある。


廣野 グレーの上下、装置は無し。
 タイトル通りのヘッドスライディング。負荷を様々にかけ、筋肉、体力的にきつい状況に自らを追い込み、観客の感情移入を狙うが、自らの負荷のかかり具合と観客の感動は別物なので、区別して考え、構成しないと押しつけがましい印象になり、他のネタまで観てもらえなくなる危険性あり。意識の内向性は作品意図を観る側に伝わり難くするので、他人に見せながら作った方が良いと思う。


藤井友美・水越朋『1/8m.m.』
廣野 互いに目を合わせず、舞台中心を軸に円周を周回。
構成的にはオーソドックスだが、単調な感、否めず。Wソロの並列、と片方が踊っている時に、もう片方は舞台裏に消えるか舞台端でスタンバイ、とか、進行以外に見せ方も工夫が欲しい。

Group 1月19日(火)

るるる♪鱈音『まろぶ まどろむ ラージヒル♪』
志賀 サエグサユキオと青山るり子にもう1人男性。サエグサの宅録の音によって、体操のような動きを繰り返す。とことん必死でやるところで、奇妙な楽しさが生まれる。ミニマルの手法なのだが、それを徹底してお馬鹿にやることで、パフォーマンスともダンスともつかない独特の世界を作り出している。


宮田 三者は左右に手を振る。ダンスではなく「体操」だ。後方中央に三者は集結し、手を繋ぐ。サエグサユキオが創作したリズミックな曲が流れ、三者が深く足を踏み出すと暗転する。左奥に集まり、サエグサが青山るり子の腰を掴みジャンプさせる。大迫英明はその横でマイムを繰り返す。農作業を想い起こさせる。三者は縦に並び横歩きをする。呼吸が荒くなるまでの動作は概念的パフォーマンスと言えるが、肉体の誇示には精神の鍛錬が不可欠だ。


廣野 ラジオ体操と農作業を力一杯馬鹿馬鹿しくみせ、体力消耗で笑いを取る。高速、高負荷のラジオ体操、青山をサエグサがリフト、迄は比較的、可笑しくないが、田植え、耕運機(耕運機=青山、持ち手=サエグサ)、大迫の釣りの描写で笑いをとり、青山が腕を振り回しながら終わり。体操シーンでは口を開けて息を次げない程の状況だった様で、何もそこまで、とも思った。窒息しない程度にこれからも頑張って突っ走って欲しい。


いだくろ『タイトル未定』
志賀 ディジリドゥの音楽が個性的。そこで絡み作るデュオはテクニックもアイデアもある。ただ、どうもモダンダンス的というように見えてしまう。踊り自体にはもう少しよじれというか、学んだテクニックを表面的ではなく、本当に壊していく作業が必要だろう。


宮田 口琴的音楽が流れる。二人は左右の壁に中腰、音に合わせるように体を揺すり、床でコンタクトする。未熟に見える踊りは、コケティッシュだと読み直すことも可能だ。様々な可能性を削ぎ落とし、それだけの舞台でそれだけのこと以上のダンスを行なう機運がある。しかし、それを演出する筈の照明や音響の研究が必要となる。踊りを突き詰めるためには与えられた時間内に終るのではなく、主催者に止められるまで踊り続けなければならない。


廣野 黒のワンピース2人が民族舞踊風音楽にカクカクした動きを無理なく乗せるスタートは上手い。ただ、アクロバティックな態、動き、身体能力、は悪くないが、所謂、教科書的創り(同じ振りから見える差異、2人でユニゾン)を無理に盛り込み、作品全体に窮屈さを覚えた。この手枷足枷な項目に拘る必要性は疑問。
 短時間でダレず、テンポ、流れは良かった。場数と引き出しを増やし、20分、30分の尺の作品も発表して欲しい。


菅原さちゑ『黒い家』
宮田 古いラジカセが八台、舞台に置かれている。背広を着た佐成が背を向ける。菅原がラジカセのスイッチを入れていく。佐成が振り向き、右手で頭を押さえる。銃音が空間を突き刺し、佐成は背を反る。佐成は足踏みをはじめる。赤いライトが灯る中、マスクを被った菅原が前後に歩む。ハウリングが鳴り、菅原はマスクを取り髪を縛る。二人はマスクを被りリズムに合わせて体を揺さぶる。佐成に菅原が乗る。フォルムよりもムーヴが見たい。


廣野 菅原は菊地尚子の”シンフォトロニカ・フィジクロニクル”に出演。今回の新人シリーズでも共演者を引っ張り、とあちこちで活躍。
 ベタな演出でナンセンスな笑いと大袈裟な動きを支えるタフさに感心。マスクで個性の払拭を狙うが、逆にマスクのデザインで装着した者を特定する皮肉な結果に。古いラジカセは音響装置兼オブジェとして使用。佐成の後に、ラジカセを設置した菅原ソロでアームスの動きは綺麗。佐成が台になり、肩の上に菅原がアクロバティックに乗って終わり。

HGroup 1月20日(水)

奥野美和『【00】~シレイ~』
志賀 長身で整った身体、テクニックもあり、しっかりした踊り。見せるのだが、いま一つ単調な印象を抱いた。白、クリーム系の色の衣装で、数字を語る音など、現代音楽的でかなりかっこいい。アイデアもあるのだが、たぶん独自と思わせる動きがもっと強いと、作品がより際立つと思う。


宮田 上半身に01~05までの数字が書かれた姿を写した写真が印刷されているA4サイズのフィルムを咥える。暗転し、乱雑な音が響くと床に倒れている。引き攣り、上体を起こすと再度暗転する。膝を曲げ足の裏で立ち尽くす。背を向け、硬い動きを続ける。手足を素早く動かし、旋回する。暗転し、横たわる。立ち上がり、大きくステップする。明暗転が多いが必然性がある。全てを秩序立て、体も踊り切れている。予定は時に不調和を起こすことも必要だ。


廣野 タフさ勝負はEグループの前納と同じ。数字を書いた印刷物(シレイショ?)のある空間へ口に紙を咥えて登場。数字をランダムに読み、対応する体の各部もランダムに動かして人形振り風に個々の動き、終盤は連続した数字のカウントダウンで連続した動きからダンスを見せ、奥野の身体能力と表現力の両面をアピールする構成。
 脚力の前納に対し、奥野は割と全身を万遍なく負荷をかけられるタイプ。
 万遍なく対応出来る身体が強味で、傾向の異なる作品への適応にも期待。


坂田有妃子『round 2』
志賀 1人がタップを踊り、その音でもう1人が倒れ、といった展開が面白い。しかし、全体のトーンが変わらない。そしてタップのない場面は平板な印象。タップとの絡みというアイデアがいいので、それをもっと、タップを使う意味とか、タップとはなんだろうという本質的な意味を考えると、作品として意味が出てくるかもしれない。


宮田 高さ3cm程の陶器の馬が飾られている。金属音が鳴り響き、左から入り中央で靴を履きタップを始める。もう一人が右から入りうつ伏せに倒れ、音に反応して体を伸ばし続ける。二人は小突き合う。ミニマルな音楽が鳴り、互いの体に乗っては持ち上げる。再びタップが始まる。異なる二者が、異なる様相を提示したことに意義が生れる。陶器の馬の象徴性、タップであることの必然性を解体する作業に必要性は生じなかったのか、生じていたのか。


廣野 タップ・ダンスのチップ、陶器の動物、幼稚園児の服を模して何種類かの布地等を継ぎ接いだ衣装が目を引く。タップダンスをパフォーマンスのトリガーに、以降は、幼稚園児2人のドツキ合い等、遊ぶシチュエーションの上にユニゾン、コンタクト/非コンタクト、カポエラ風、ブリッジ等、ベーシックなネタを無理なく盛り込み、コミ
カルに構成。発表会の”出来るんです”風にしない熟れた創りは良いが、鬘を被った小芝居は冗長。


鈴木拓朗×chairoi PURIN『TRAIN』
志賀 男2人女2人。モノを数えるカウンターでカチャカチャ。それが次第にリズムをつくり、その音とともに顔が動き変化する。さらに吐き出す息がリズム、音楽をつくり、その音とともに動く動きがユニゾンから変化していく。面白く笑わせながら、しっかり構成された演劇的要素もある。技法はエンターテイメントの既視感があるが、吉祥寺の電車映像や日常、最後に弾け壊れていくなど、彼らの「イマ」が詰まっていて、惹き込まれた。


宮田 男女二人ずつ、皆カウンターを手に持ち登場し三拍子のリズムに乗って首を振る。車内から撮影した映像が投影され、四人は蠢く。突如映像と音が止み、壁際に佇む。「終点です…」。鈴木が喋る。一方の女性が袋から白菜を取り出し毟り始め、他方の女性はケースから新聞を取り出し、男性はギターケースで腕立て伏せをし、鈴木は回り続ける。再び車内からの映像が流れ、暗転する。旅とは場所の移動ではなく精神の跳躍だ。そんなことを感じた。


廣野 男女2組、計4名、ストップウォッチを持ち登場。
井の頭線から見える景色、乗客のスケッチをマイム、演技で見せる。
 無言、呼吸で喋る様な身振り、変顔など、演技で笑いを取る。スプラッター風に白菜、衣服、紙を撒き散らすが、何を観客にみせたかった
のだろうか?。

IGroup 1月22日(金)

THORN『I know you are beautiful…』
志賀 動物の面を付けた3人が踊るダンスは展開も奇妙でなかなか見せる。それぞれが踊れるダンサーなので、アイデアだけにとどまらない。特に照明を巧みに使った見せ方もうまく、楽しめる。ただ、もう一つ、何かを追求する力学みたいなものが中に感じられるといい。


宮田 三者はそれぞれ兎、馬、羊の被り物をしている。その前で女性が低い姿勢をとり体を揺るがす。明暗転が繰り返され、フラッシュの役割をする。その間に場所の入れ替えを繰り返す。世紀末的な音響が鳴り響く。被り物をとり後方のスタンドに並べて掛け、四者は円陣を組み手足を大きく揺する。リズミックな電子音が響く。戸を持ち込み後から覗き込む。光と音が調和すれば動きが明確になるとは限らない。見えないダンスの存在もあるのだ。


坂本典弘『重題』
志賀 京極朋彦とのデュオで、超コンタクト的にくっつき絡んで踊る場面がかなり見応えがある。特に、ノンダンス的な動きを交えて、踊りと体をよく感じさせた。ただ、作品的な盛り上がり、展開には少し欠けるところがある。


宮田 坂本と京極朋彦は別の方向を向く。一方が倒れると他方は手をゆっくりと上げていく。無音から大音量と一気に変化する。対角線に向かい合い足踏みを続ける。一方が他方を肩に担ぐ。宙で舞う。降りて並んで立ち尽くす。手を横へ広げ、一歩足を踏み出すと終了を迎える。立つ、転ぶといった基本的要素を、ポスモダンの動向に任せる必要は特にない。自らから迸る動作を体感したい。作品には、衣装も重要な役割を占める。総合性が必要だ。


清家悠圭『zaza』
志賀 ヴォイスパフォーマー、徳久ウィリアムとのデュオ。ウィリアムはマイクを使わずに生声、ドアを開けたままで外の音を取り入れるなど実験的で、そこに清家の生の体がどう絡むかというのが一つの挑戦だろう。ただこのディプラッツという場は車の音なども聞こえるので、照明を含めて、聴こえ方、見せ方も考えたほうが、伝わるものが大きかったろう。


宮田 長い暗転を経た後、客入口から徳久ウィリアムスが入る。左の椅子に座り、読書を始める。ドアが開けっ放しのため表から車のライトが舞台に入り込む。清家が何かを柱に立てかけ、闇の中でステップを始める。二人は座って動かない。徳久は唸るようなヴォイスを放つ。清家は背を向けて舞う。客席から男性を呼び寄せ、清家と会話をする。客電を含む全てのライトが点き、二人は沈黙のまま終了する。日常が捻じ曲がり、ダンスが溢れ出た。

JGroup 1月23日(土)

石井則仁『とある一人の悲日』
志賀 能の仮面をつけて、動かない動き、痙攣するような動きから、仮面を外し動き出すと次第に高まって、舞踏と勅使川原系コンテンポラリーにストリートダンスが混ざったような動きになっていく。テクニックをしっかり持っており、パワーも勢いもある。冒頭が仮面でなく、もっと素の感じで始まれば、魅力的だろう。


宮田 ノイズが蠢き背広と仮面を身に纏った石井が、立位置で手を力強く振る。暗転し、スポットが当てられる。佇み、揺らぎ、震える。手を前に構え、膝を浅く折る。肩を床につけて足を漕ぐ。座り、立ち上がり、右手を翳す。暗転し、明転すると床で震えている。ライトが消え、豆電球が灯る。後方壁面で体をしゃくる。中央へ至ると一本の蛍光灯が灯る。のたうちまわり全てを脱ぎ捨て、肉体が集まる。ストロボライトの中、立ち上がる。肉が。


坂本知子・西村香里『なんとなく』
宮田 坂本は10のフィギアを、緩急を込めて連続させる。西村がそれを追いかける。坂本は待たない。そこに差異が生れる。それは音楽となる。ピアノ曲が流れ、二人は体を揺すり、旋回し、足の位置を換えていく。同じ振付でありながらも、ランダムな感触を受ける。ミニマルな音が響き渡り、両手を体に滑らせる。二人は決して連ならず、帰着することがない。それが一つの分野として確立することなく、あくまで二者の体による関係であり続けた。


シュガーライス・センター『<舞踏譜「演劇」報告書>』
志賀 それぞれ個性ある3人なのだが、アイデアと実行の間にギャップがある。そして、ずっと同じような動きやイメージが続き、内容的には1/3の時間で収まるもの。何か、しっかりとした芯を作らないと、これではもったいない。


宮田 「名を名乗れ、解き放て」。ピンクの衣装を着た飯田晃一が語りかける。黄色の衣装の中川敬文は懐中電灯を持って駆け巡る。青い衣装を着た佐藤ペチカは歌っている。「美しい、は、抽象的、具体的」。飯田は続ける。このような前半の演劇的要素は後半に吹き飛ぶ。三者は個々に動き、握飯とパンを食し、天井からぶら下がってサンドバックと化す。言葉と肉体、ここには従来の「アクション」を超えた「内臓からの触発」に満ち溢れている。
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