振付家とダンサーとしての違いとは?
酒井 自分が踊るために自分で作品をつくることが始まりだったので、振付けることと踊ることはほぼイコールの感覚でした。ずっと自分のイメージした世界観の出力は私の身体を通すことがベストだと思っていたのですが、大学の卒業制作で出演せずに作品をつくった時に、できあがった作品を眺めながら「私が踊らなくても大丈夫なんだ」という実感がありました。祖母は私が出ないとがっかりしますが、笑。そこから、必ずしも自分の身体のみが表現の媒体ではない、という選択肢が出てきました。その一方で、ダンサーとしてKENTARO!!さんや岩渕貞太さんの作品で踊らせていただいたときに、自分で振付けて踊るのとは違う面白さを感じました。KENTARO!!さんの作品では、自分の作品では出さない私のキャラクターを使ってくれて振付けの中に自分の居場所をみつけられる信頼感があったし、貞太さんの『タタタ』では全く違う身体言語をどうやって喋るのかという身体で思考することが新鮮で刺激的でした。
ダンサーとしてやりがいがあるのは、どんな振り付けでもどうやって自分の踊りとして咀嚼するか、その作業にあります。その過程で、気づくことがたくさんあります。特徴となる癖やできないこと、あるいは私がやらなくてもいいこととか。ただ、私はダンサーとしてまっさらな器にはなれない。技術力の面からいっても、何にでもにはなれないタイプ。なので、酒井幸菜というダンサーのキャラクターを前提に、それをどう引き出して使ってくれるか、それが振付家や作品との相性にもなってきます。振付家としては、作家として自らがイメージする身体のある美しい風景を紡ぎ続けたいですし、一方、部活の指導や映像での振付けなどの職業的に求められる部分ではその都度必要なイメージに対応でき、ダンサーのポテンシャルや音楽の魅力を引き出すような振付けを提供したいとも思います。もちろん、私らしさのオリジナリティをもって。