虫丸さんは、今年が舞台活動40周年だそうですが、簡単なご自身の経歴をお聞かせください。
初めての舞台は20歳、在学していた鳥取大学の学生会館ホールでした。同じ獣医学科の同級生に誘われて始めた演劇部の公演で、出し物はチェーホフの「かもめ」です。72年、世はアングラ全盛の時代なのにね(笑) 初舞台は、生まれて初めて人前に出た緊張で、身体が全く意のままに動かず、覚えていたはずのセリフも、なにをどうしゃべったのか記憶にない、いやあ、とんでもないアナザーワールドでした。変なとこだけ負けず嫌いな僕は、その時思ったんです。よし、自分の意思で舞台の下手から上手まで、ちゃんと歩けるようになるまで舞台活動を続けてみようと・・・。もともと熱心じゃなかった学業はあっさり放棄、山陰線の夜行の鈍行で一晩で行ける京都通いが始まりました。当時の京都は若者芸術文化全開でした。音楽・映画・演劇・美術・文学・サブカル・生活まで、酒とアングラのにおいのしないものはなく、昼夜逆転の生活でその空気を楽しんでるうちに、気が付けば、すっかりそっちのヒトになってたわけですよ。
その頃、関西でダントツにアングラにおもろい舞台表現をしていたのは劇団「日本維新派」でした。舞台装置から衣装メイク動きセリフ音楽照明ポスターにいたるまで、すべてが猥雑で美しく、全くシュールでオリジナルだったんです。最初は客、次は手伝い、そして気が付きゃ舞台上、と、正しいアングラのステップを踏んで、関西アングラ演劇界からは「維新派のヒトや」と後ろ指差される身分に、めでたくなりました。維新派には、1978年から1989年までの11年間お世話になりました。その間の座長・松本雄吉の全作品に出演した他、「営業」で回っていたストリップ劇場の舞台にも随分立ちました。「劇」ちゅう字はハゲシイと読むんや!と叫ぶ座長の下、カラダのすべてを使ったハゲシイ表現を求め、稽古場では、相撲部屋なみの、ぶつかり稽古に睨み合い、街を徘徊しながらの白塗り徹夜稽古、一升瓶の水を一気に飲みほして一気に吐く・・・と、どこの劇団とも違ったエキセントリックな稽古に明け暮れていました。稽古場常備の「さつま白波」が一番のいこいでしたね。おかげで根性と酒だけは鍛えられました。あと、野外に丸太で劇場を建てるためのバンセンの締め方とね…(笑)
左:1990年タクラマカン砂漠のオアシス都市でのパフォーマンス(撮影:羽鳥直志) 右:1989年初のソロ公演のチラシ(デザイン:秋山稔)
初めてのソロは、89年。松本が舞台監督を引き受けてくれたほか、維新派の全面的な後押しでしたが、いちおう僕の作品でした。最後は舞台装置の泥の中で放尿するあたり、往時の維新派のアングラな影を色濃く残した作品だったせいもあり、僕的には、自分の未熟さに気付くばかりでしたね。これはいかん、と劇団を辞し、武者修行に出ました。友人の冒険家からたまたまさそわれた、アジアの辺境・タクラマカン砂漠の旅に、個人スポンサーを募って資金を作り、同行。ウイグル人の暮らすオアシスの村々や、無人の遺跡や砂丘で即興パフォーマンスをやったのです。ウイグルの人たちのノリのよさと乾いた美しい風景とに助けられ、いい修行でした。また同時に、現地で書いた通信を個人スポンサーに配布して逐一旅の様子を知らせたり、大阪のラジオ局と契約して、国際電話でラジオ番組に生出演して現地の様子をレポートしたりと、日本にいながら旅を想像して楽しむ、当時のコピーから引用すれば「大陸を舞台に、日本列島を客席にした壮大なる野外劇」という二重の仕掛けで、「お客さん」をも巻き込んだパフォーマンスツアーに仕立てたのです。この時の旅は、テレビや雑誌にも取り上げられ,翌年はUSA横断、さらに翌年はユーラシア大陸横断、と92年まで続けましたね。
ツアーから帰っては、現地体験をモチーフに、年1作のペースでソロ作品を発表してました。この頃ですね。天然肉体詩人を名乗るようになったのは・・・。NYで、詩人のアレン・ギンズバーグに出会って、その人柄のとりこになり、詩人への憧れから自分でつけたんです。それから後は、すっかり旅芸人でした。作品作りもさることながら、即興の面白さにハマり、様々なジャンルのアーティストとの即興セッションも数多くこなし、毎年100回以上の公演を続けてました。夏はヨーロッパ、冬はインド、間を縫って韓国日本てな感じですね。ワークショップも、いろんな国でやったよね。
ところが、9年前に突然定住したんです。ツアーで疲れたカラダを癒すために、何年か通ってた屋久島で、築130年のボロ古民家をイキオイで借りてしまい、大阪を引き払って引っ越し、知人の田畑を手伝ってるうちに、はまっちゃたんですよ。百姓に・・・これはおもろい!生まれて初めて地に足着いた生活。美しい海山空を眺めながら食べ物を自給する暮らしの、なんという豊かさ、愉しさ。おまけに、足腰の鍛錬にもなる。忍耐力と、自然現象への諦念と畏れも身につく。というわけで、今では「半農半芸ライフ」。農繁期は島にいて、合間にツアーを組んで、公演し、ついでに自分で作った農産加工品も販売する。生活とアートの境目のない、やっと本物のアーティストになったかなあ、と思う今日この頃ですよ。(笑)まあ、僕の場合は、遊んで暮らして40年。いまだ、舞台の下手から上手まで自分の意思通り歩めず、こうやってやり続けてるんだろうなあ、と思うんですよ。たぶん、死ぬまでできないんじゃないかってね。あ、簡単にって言われたのに、喋りだすとつい長くなっちゃって、ごめんなさい。根がお銚子もんなもんで・・・
いえいえ。では、ズバリ。虫丸さんにとって芸術表現とは何ですか?
うーん、美意識の発露、かな。僕らカラダを素材として表現してますよね。僕らのカラダが動くことで空間の密度が変わり、観客が見ている世界がどんどん変容していく。時空間の尺度が伸びたり縮んだりする、と言ってもいいけど、そのカラダが動く時の、あ、今、即興表現を頭に描いて喋ってますが、カラダが動く瞬間のヒラメキ、みたいなものが芸術表現なんじゃないかなと思うんだよね。なぜかこう動いちゃいました、みたいな・・・。理屈じゃなくてね。意味不明のこの連続が、時間と共に、ある種の意味性をかもし出してくるよね。その根底にあるのは、やっぱ、表現者それぞれの美意識でしょ。荒海の羅針盤みたいにさ、絶対に狂わないチカラの源をちゃんと持ってないと、アーティストはね・・・
1996年1週間連続日替わり即興イベント「ア・ウン・ギⅣ~間と呼吸のART BATTLE」チラシ(デザイン:Kplant)
今日は、お話聞かせてていただいてありがとうございました。次の舞台も、楽しみにしています。次回は、屋久島での暮らしぶりを中心に聞かせてくださいね。
島暮らしですか。いいですよ。3日間位のロングインタビューでもOK! ネタはいっぱいありますから・・・。それより、一度遊びにおいでよ。百聞は一見にしかずってね。うちの稽古場で、屋久島の芋焼酎でも飲みながら、ってのも悪くないよねえ・・・。ついでに畑の草むしりとか頼んじゃったりして・・・(笑)
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