Interview no.87 shelf

2012年後半、三重県、長久手市、名古屋市など東海地方での公演が続いたなか、今回は約一年ぶりの東京公演ですね。意気込みをお願いします。

えーと。実は、ことさらに「東京で公演をやるぞ!」というような意気込みは、特にありません。僕は旅が好きで、旅公演などで地方を回ることも大好きなのですが、旅って、ちょっと観念的な物言いになりますが、人は旅をすることで、日常から少しだけ離れて普段の自分の生活を省みたり、今・ここの自分とちょっと距離を取って、未来や過去を眺めてみたり、そういうことが出来るものだと思うんですね。史跡や観光地を巡ったり、土地土地の美味しいものを食べて回ったり、っていうのも勿論あるんですが、本来はそれ、つまり非日常の世界を体験するというのが、旅の醍醐味だと僕は思っているんです。
その意味で、実は「劇場」という場所は、その劇場のロケーションに関係なく、どこもいわば「旅」が出来る場所だと思うのです。日常の自分から少し離れて内省したり、あるいは旅先で「他者」に出会うということも大きな歓びの一つです。そう考えると、東京も一つの地方に過ぎなくて。あ、ここでいう「他者」というのは、単に知らない人、というだけでなく、良く知った友人でもよくよく考えると、その人が全く見知らぬ他人に見えてくるような、なんていうんですかね。改めて世界と新鮮に出会い直す、というか。
「劇場」ってだから、そういう場所だと思っているので、東京公演だから! という意気込みはあまりありません。ただ、違いは若干あって、例えば地方だと演劇を見慣れていない人が多くて、その分、なんといえばいいのかな、観劇するという行為が自分の生活と地続きになっていて、自分の人生と照らし合わせて舞台を見てくれる人が多くて、それはとても怖いことでもある。つまり、演劇にあまり触れる機会がない人に対して自分の演劇が演劇一般を代表しなくちゃいけないようなシチュエーションというのがあって、でも、それは僕にとってとても刺激的だったりするんですね。一方で、東京には逆に観劇を趣味としている人が多くて、良く言えば「見巧者」というのかな。が、多いので、ここでは逆に、たくさんある演劇のなかからshelfを選んで観に来てくれる、という別な意味での責任感というか、緊張感があります。初めてやる劇場で、今回はどんな人と出会えるのか。どんな発見があるのか。今からとても楽しみです。




shelfは、というよりも矢野さんは、「分からないということ」について非常に興味を持っておられるように思うのですが、「理解できない」「分からないということ」がテーマになっていたりするのでしょうか。ぜひ、これからはじめてshelfの作品をご覧になる方、又、何度か作品を見ている方にそこのところを聞かせてください。

 「分からない」ということ。それはテーマというよりか、厳密に言うと僕の欲求の一つであって、言語化できない、言葉という記号には置き換えられない圧倒的な情報を俳優の身体と劇場空間を通して観客に一気に流し込みたい、という欲求が僕にはあります。そのとき起こるのは、「よく分からないけど面白い!」という現象です。アタマじゃなく、身体で分かる。身体知を獲得する。あるいは知覚が刷新される。(劇場から外に出たときに世界がそれまでと少しだけ違って見える!)という。そういう状況を作り出すことが、テーマというよりか、僕が演劇を続けている理由の一つですし、僕自身、劇場に足を運ぶ理由の一つです。僕はそういう体験をしたくて、演劇をしています。

なるほど。これは一般的な話ですが、多くの場合、人は分かりやすさを追及したり、より伝わりやすくしようとすると思うのですが、「理解できない」「分からない」ということもshelfでは面白がるということでしょうか。「分からない」「自分の理解の範疇を超える体験」を、ネガティブにとらえるのではなく、ポジティブに考えているのですね。面白いですね。それでは一回観て、よく分からなかったら、ぜひ何度も観に来て頂きたいですね(笑)新しい発見があるかもですよね。

 そうですね。繰り返し見てもその都度、発見のあるような作品を目指しています。ぜひ二回、三回とご観劇ください。(笑)

東京には、公共の大きなホールから、小さな劇場など本当にたくさんの劇場があり、アトリエやカフェ、はたまた野外やテントなど様々な場所で演劇が行われていますが、今回、会場にd-倉庫という空間を選んだ理由を、ぜひ聞かせてください。

 日暮里というロケーションと、d-倉庫という劇場の持つ空間の魅力ですね。例えば下北沢とか、演劇といえば下北! みたいな風潮もありますが、それが悪いという意味ではなく、なんというか、その街に既に独特の色が着いてしまっている。それをちょっと避けたかったというか、あるいは、本当は、僕は今世田谷に住んでいるので、世田谷でも、というか、地域に根差すという意味ではもっとローカルに、経堂とか、もっともっとコアな地元でやりたいと思うところもあるのです。ただ今回は、これはもう感覚的な問題なんですが、日暮里という場所が、僕にとって自分の生活と演劇とを考えるときに適度な距離というものがあるように思えて、地に足のついた表現が出来そうな予感がしたんですね。
あと単純に、d-倉庫には、観客と交歓の場を持てるロビーがちゃんとあるじゃないですか。他の小劇場にはあまりないですよね、これだけの広さのロビーって。そこが今回d-倉庫でやらせて貰おうと思ったポイントの大きな一つです。

以前、矢野さんは「人は物語を必要としている存在だ。」と仰っていましたが、今回の三島由紀夫作品の二本立ては、そういう意味では、観客は物語の中に没入する、三島由紀夫+shelfの世界を体験するということになるのでしょうか。

 「物語」を必要とするというのは、例えば、人は幸せを感じるためにも、「幸せとは何か?」「何が幸せか?」という、指標を必要としています。そのような思考と認識の大きな枠組みとしての「物語」を人間はあらゆる局面で必要としている。「何故生きるのか。」「何故食うのか。」「何故働くのか。」そういった意味で、人は物語を必要としている。それが僕の演劇作品を作るときの“仮説“の一つです。
だから、厳密にいえば普通の意味での物語に没入、はして欲しくないですね。僕はしばしば自分の公演を葬式に喩えるのですが、葬式という場では、故人を偲びながら、同時に少しだけ、非日常の時空間で自分の日常を省みる。内省する機会が与えられる。そういう「場」に僕は立ち会いたい。そう思っています。

今、なぜ三島由紀夫なのか。ということを知りたい方もいらっしゃると思うのですが、そこについては主旨など何かありますか。聴かせてください。

 理由は大きく二つあって、まず一つ目には、三島由紀夫は敗戦を通じて、日本という国の在り方を考えつづけた文化人の一人だと思うのですね。有名な言葉を引用すると、

“私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大國が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。”

という、これは1970年7月のサンケイ新聞に掲載された「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」という、エッセイの締め括りなのですが、これを読むと、今まさに日本が陥っている状況を三島は40年前に言い当てている気がするのです。いや、もっと酷いかも知れない。しかし、三島由紀夫ほど、在り得べき理想の日本社会と、その一方で加速度的に、三島の言葉を借りれば「からっぽ」になっていく日本社会の現実との間で引き裂かれた人はいないと思う。それが最後、割腹自殺というところに辿りつくわけですが、そのような意味で、今、三島由紀夫を読み直すことはとても意義のあることだと思うわけです。

 もう一つは、これはもう、純粋に文体の魅力ですね。これも三島由紀夫の書いたものを引用すると、

“何故、われわれは言葉を用いて、「言うに言われるもの」を表現しようなどという望みを起し、或る場合、それに成功するのか。それは、文体による言葉の精妙な排列が、読者の想像力を極度に喚起するときに起る現象であるが、そのとき読者も作者も、想像力の共犯なのだ。”

という言葉があって。つまり、三島の書く戯曲はどれも、非常に美的で、構築的、建築的というか。とにかく技巧の粋を尽くしていて、しかも怖ろしいほどロジカルに会話が展開していく。日本人は普通、こんな日本語喋らないよ、という強度の高い日本語を書いている。shelfは「語り(Narrative)」の様式を獲得しようとしている集団なので、それを考えると挑戦するに格好のテキストなのです。まあ、単純に三島の戯曲が好きだから、というのもありますけれど。

フランスで「私は自分を豊かにする為に観劇に来ているのよ」という女性がいたと耳にしたのですが、観劇者自身が非常に積極的に劇場に足を運んでいて、自分にとって良い体験にしていますよね。shelfの作品も、観劇者が積極的に参加するように感じたのですが。観客が頭をフル回転させて観る、みたいな(笑)。やはり、そのように意図して創作をされているのでしょうか。

 そうですね。演劇は、先の三島の引用ではないですが、演じ手だけでは成立しない表現です。演じ手と観客とが一緒になって作り上げる、一回性の体験です。テレビ的なメディアや、マーケットの論理に支配されたコミュニケーションに慣れ親しんでいると、モノゴトを体験するのに受け身になるのが当たり前になっちゃうんですよね。映画も演劇も対価を払って“与えられる”ものに堕してしまう。演劇は、演劇に限らず芸術一般はもっと能動的な、参加するものだと僕は思うのです。
観客が払うチケット代というのは作品のクリエイションに掛かる経費なのであって、作家が汗して涙して恐ろしいほどの時間をかけて、というのと本来、等価なものであって、作家と観客はその意味で、お互いを補完しあう関係にある。お互いにお互いが出せるものを持ち寄るのであって、畢竟、芸術は観客のものでも作家のものでもなくなる。もっと大きな、演劇なら演劇という芸術そのものに捧げられるというか、観客も作家もそれに対して無心に奉仕すべきなのだというのが僕の考えです。




shelfでは、100年以上前の北欧ノルウェー出身のイプセンや、ギリシャ悲劇、今回の三島由紀夫など、骨太なストーリー、物語のある作品にくわえて、近年では、多数の作品、小説から引用、エッセイなどを抜粋して、編集しなおす作品作りにも取り組んでいますが、それぞれの見所や違い、見て欲しいポイントなどはありますか。

 厳密に言うと僕の中ではあまりその二つの作業は分けて考えていないですね。イプセン戯曲や三島をそのままやることは、実はあまりないですし、たいていの場合そのテキストが現代の観客に受け入れられるような仕掛けを作っている。いわば古典や近代戯曲を現代にアップデートする作業をしている訳ですが、強いて言えば後者、例えば[edit]という作品は、去年(2012年)6月に初演を行って、今年(2013年)3月に再演を行ったばかりの作品なのですが、これは様々なテキストをいったん解体し、その上で事前に決めていたコンセプトに沿って、再度「編集」し直す作業を行うのですが、なんていえばいいのかな。そう、このタイプの作品は、メタレベルで新しい物語構造の試作を行っているというか。簡単にいうと、起承転結とか序破急とか、物語には普遍的なある種の「構造」がありますよね。それを用いずに、如何に舞台上で流れる時間をコントロールするか。既存の構造に頼らない、新しい物語構造を作れないか? ということを試しています。その経験が、三島のような一本の戯曲を制作するときにも、たぶん、反映されていると思うのですが、こればかりはまだ制作に入っていないので、なんともいえません。(笑)
ただ、ちょっと長くなりますが、一つ面白いエピソードがあって。実は、人間の声というものについてこのところずっと考えているんですが、具体的にいうと、発語された言葉が如何にして、どのような強い身体性を獲得し得るか。記号であることを突破して、如何に言葉に身体性を獲得させるか、という。
以前、shelfを何作か観てくれている友人の演出家に「shelfはさ、動かないの? それとも動けないの?」と問われたことがあって、その時はやや躊躇しながらも「動かないんだよ!」と答えたのですが、考えてみるとshelfでは俳優に全力で立ち・止まることを要求していて、そのことと、声について思考し続けていることとは深い関係があって。
で、ちょっと面白いなと思ったのが、前回の公演である[edit]の再演の稽古をしている際、ある俳優が初演よりぜんぜん動かなくなったんですね。自発的に。それは何故かと俳優に問うてみたら、動くことで台詞への集中を散らしたくない。動くことで、何かを誤魔化したくない、という答えが返って来た。
ここんところがちょっと難しいのだけど、誤解してほしくないのは、台詞を喋るのと動くのが同時にできない、というレベルの低い意味で言っているのではなく、だいたい扱っていた台詞はギリシア悲劇で、所謂リアリズム(ナチュラルな)演技では通用しない台詞だったし、じっさい台詞を聴いているだけで分かるくらいのレベルで、その俳優のテキスト理解が初演とは段違いに深まっていることが僕には手に取るように分かって。それは非常にストイックな表現になるにはなるのだけど、表現としてそれは、動かないということが確かに成立していて。
で、いろいろ悩んだ末、最終的には、ある程度、人は視覚情報に最も頼ったコミュニケーションをとる生き物だから、という理由である程度「語り」だけでなく動き、端的には関係の変化を人と人との距離の変化を使って“表現”することを“足した”演出にしたのだけど、果たしてそれは前進だったのか、それとも後退だったのか。今もそれはよくわかっていないんですけど、改めて今回、がっつりと三島由紀夫の描いた骨太な「物語」と格闘することになるので、その経験がどう生かされるか。自分でも今からとても楽しみです。




二本立ては、なんだかお得な気持ちになりますね。上演時間は全部でどのくらいなのでしょうか。

「班女」は30分強、「弱法師」は50分程度なので、休憩を挟んで全部で1時間30分くらいでしょうか。

二本も観たら疲れてしまわないでしょうか?(笑)

shelfは観劇者の方にも緊張を強いるので、もしかしたら…そうですね。出来れば体調万全でいらしてください。(笑)

キャストは全く別々なのでしょうか。二作品両方に出演する方もいるんですか。

 そうですね。両方に出演する俳優が三人います。

そうなんですね。では、同じ俳優が違う役をやっているのも注目ポイントですね!(笑)

 ですね。ぜひ、違いを楽しんでください(笑)

話が少し戻りますが、ただ傍観するというのではなく観客が前のめりになって、積極的に参加することによって、shelfの作品はより楽しめるということですね。三島由紀夫の近代能楽集は文庫本でも出ていますが、事前に読んでおいた方がいいのでしょうか。

 基本的に事前にテキストを読んでいない人にも楽しんで頂けるよう作りますが、三島の『近代能楽集』は短編集で、新潮文庫で簡単に手に入りますし、ページ数も少なく読みやすいと思うので、このインタビューで興味を持って頂けたらぜひ読んでから体験してみる、ということにも挑戦してみてほしいと思います。

さて、矢野さんにたくさん語って頂きました。作品だけでなく、創作の裏側やこういうお話を伺う機会が増えると、shelfが、d-倉庫が、演劇がより身近に感じられるのではないかと思います。また是非インタビューを企画させてください。今日は有難うございました。



矢野靖人
shelf演出家・代表。1975年名古屋生。北海道大学在学中に演劇を始める。1999年4月より青年団演出部に所属。2000年2月、青年団第5回若手自主公演 『髪をかきあげる』 (作/鈴江俊郎)演出。退団後、演劇集団かもねぎショット演出助手等を経て、2002年2月shelf始動。
shelfでは洋の東西を問わず、毎公演、古典的テキストを中心に大胆に再構成。同時代に対する鋭敏な認識、空間・時間に対する美的感覚と、俳優の静かな佇まいの中からエネルギーを発散させる演技方法とを結合させ、舞台上に鮮やかなビジョンを造形し、見応えのあるドラマを創造する手腕には定評がある。
代表作に、 『R.U.R. a second presentation』 (作/カレル・チャペック)、 『構成・イプセン ― Composition / Ibsen』 (作/ヘンリック・イプセン)、 『悲劇、断章 ― Fragment / Greek Tragedy』 (作/エウリピデス)、 『Little Eyolf―ちいさなエイヨルフ―』 (作/ヘンリック・イプセン)、[edit]等。
自身のプロデュースするshelfの他、2006年より横濱・リーディング・コレクション(共催/横浜SAAC、横浜市市民活力推進局)プロデューサー、総合ディレクターを務める。日本演出者協会会員。(財)舞台芸術財団演劇人会議会員。

shelf
"shelf"はbook shelf(本棚)の意。
沢山のテキストが堆積・混在する書架をモチーフに活動を展開。俳優の「語り」に力点をおきつつ、古典、近代戯曲を主な題材として舞台作品を制作し続けている。
演劇や舞台芸術一般を、すべて個人とコミュニティとの接点で起こる事象(コミュニケーション)であり、と同時にそのコミュニケーションの様態を追求し、関わり方を検証し続けてきたメディアであると考え、単に作品を以てそれを示すだけでなく、舞台芸術の枠組みを再提示する意図から、近年はワークショップや、プロデュース事業なども多く行う。活動の拠点は東京と名古屋。所属俳優 2名。(2012年12月現在)
2008年8月『Little Eyolf ―ちいさなエイヨルフ―』(作/ヘンリック・イプセン )利賀公演にて、所属俳優の川渕優子が、利賀演劇人コンクール2008<最優秀演劇人賞>を受賞。同年、同作品名古屋公演(会場・七ツ寺共同スタジオ)にて<名古屋市民芸術祭2008<審査委員特別賞>受賞。2011年10月、「構成・イプセン― Composition/Ibsen」(会場:七ツ寺共同スタジオ)にて、名古屋市民芸術祭2011<名古屋市民芸術祭賞>受賞。



次回公演

shelf volume15 『班女/弱法師』
2013年6月28日(金)~30日(日)@d-倉庫(東京) 
6月28日(金)19:30~
6月29日(土)14:00~/19:30~
6月30日(日)14:00~
作/ 三島由紀夫
構成・演出 / 矢野靖人
出演 / 川渕優子、春日茉衣、森祐介、たけうちみずゑ (chon-muop)、平佐喜子(Ort-d.d)日ヶ久保香、小川敦子、櫻井宇宙、和田華子、ほか
前売り開始日 / 4月30日(火)
チケット料金 / 前売2,800円/当日3,300円/学生(前売・当日とも)2,000円
お問い合わせ先 / shelf
info@theatre-shelf.org
090-6139-9578