【1】
1999年 シアターオリンピック。
「リア王」上演中(俳優として)以下のような体験をしました。
呼吸を丹田に落とし息と共に摺足で一気に舞台を駆け抜けた時のこと、身体が空間と同化し皮膚が溶ける感覚を味わいました。
全身に鳥肌が走り、時の流れが遅くなり、自分がなくなる感じを覚えました。
僕はオソレを抱き反射的に呼吸を日常に戻してしまいました。
あの日経験した心身の充足感と言いますか、森羅万象に触れる感じと言いますか、あの瞬間の「あの状態」が、かけがえのないものであったことは直ぐに理解できました。
個別に意識し積み上げてきたもの「呼吸・丹田・足・感情や感覚・空間」が観衆の呼吸とも交わり調和した瞬間だったのだと認識しております。
「あの状態」にどうしたら毎回到達することができるのか。
それはその後の大きな課題となりました。
身体の景色を旗揚げし、様々なエチュード、方法論を試みてきた次第です。
本年(2017年)「ハムレットマシーン」を初めて読みました。
『これを書いた作者の精神は「あの状態」にある』と直感的に思いました。
言葉で説明できるものは世界の20%に満たない部分で、残りの80%に触れることができるか否かが舞台の仕事のひとつであると考えております。
言葉を越えたものが宿る世界へいかに踏み込み「あの状態」へと越境するか、これは重要なところであると。
「ハムレットマシーン」はその80%の世界から生まれたのだと感じました。
それは戯曲がシュールだからそう思ったのではなく、また整合性取り辛いイメージの重なりからそう思った訳でもありません(例えばダリの絵に同じ感想は持ちません)。
そこに「あの状態」と同じ精神性を見たから、です。
読後しばらく放心し、僕は僕の内部で起きたことを整理し、驚きをかように言葉にしました。
『様々なレベルの言語、イメージが一見無秩序に並ぶ、難解と呼ばれるこの戯曲は、そのことそのものに目を奪われ易いがしかし、大切なのはその混沌を生んだ作者の精神の在り様だ。この戯曲と僕らが対峙する上で先ず問われるものは明確だ。それは稽古の段階から僕らが「あの状態」に入れるか否かだ。言葉を越えた場所での思考を、そもそもこの戯曲は要求している。そこを外して、いかに頭で解釈をコネタとしてもそれは「表層の粘土イジリ」になりかねない。この戯曲は無意識とか、潜在意識とか、霊的とか呼ばれる世界に触れている。ハイナー・ミュラーはシャーマンのようにそこへ飛翔しこの作品を書いた。そこで彼は無防備にも真っ裸になって』
上記はこの戯曲と向き合う大切な前提として踏まえつつ、しかし、以下、解釈を試みます。
【2】
ハイナー・ミュラーは旧東ドイツの作家で「ハムレットマシーン」は1977年に書かれた戯曲。
20世紀の情勢をシェークスピアの「ハムレット」に重ね、隠喩を交え大胆に、象徴的に描いています。
先王に共産主義国家を産んだカリスマたちを見ます(これは誰もが頷くところかと)。
クローディアスに(僕は)現代に至るまで世界を席巻することになる資本主義を見ます。
ガートルードには(これも僕は)様々な権力を受け入れ続ける歴史の娼婦性を見ます。
これら記号性はこの戯曲の面白いところで、多くの方が多彩な解釈を示すところでありましょう(それは言語イメージにも言えます『廃墟・寄せては砕ける波・地球・斧・心臓・埋める・脳髄・機械・深海…』等々、様々な隠喩、象徴となり得ます)。
そしてハムレットとオフィーリア。
この二人は記号性を越え、この戯曲の主題そのものを担っています。
それはかようなものです。
◯
『ハムレットだった』男は、イデオロギーの闘いについて終始語っています。
『オフィーリア』と名乗る女は、世界の深部に流れる血について終始語っています。
この対比が先ず目にとまりました。
イデオロギーは時代民族各々で異なるもの。
人類はイデオロギーを絶えず変容させながら長い歴史を刻んできました。
そしてその変容の度、戦争や革命が起きたくさんの血が流されてきました。
もう少し言うと、時代時代の表層で変容してゆくイデオロギーが(或はイデオロギーを利用した覇権と領土を巡る争いが)様々であったのに対し、その度に発生する殺し合い、それによって流れ出るものは常に同じ「血」でした(そこにはレイプも含まれることを忘れてはならない。先の大戦然り。今のIS然り)。
◯
「ハムレットマシーン」の中で、イデオロギーから自由になれない『ハムレットだった』男は悔恨と呪詛を捲し立てています。
戯曲が書かれた時代背景、また作者の置かれた立場から、それは共産主義の敗北と資本主義の勝利の上のこととなります。
経済至上主義への批判皮肉は実に小気味よく現代を糾弾するに有効な言葉の群ではあります。
が、男が捲し立てているところの本質は、イデオロギーの対立から解放されることのけしてない人間の悲哀と、前線で闘い尽くした人間の虚無です。
これは人類の宿命のひとつ。
血から解放されることのない『オフィーリア』と名乗る女は終章でこう宣言します。
『あらゆる犠牲者たちの名において伝えます。(中略)私は私が受け入れてきたすべての精液を吐き出します。私の乳房の乳を毒に変えます。私の産んだ世界を股の間で窒息させます。世界をこの性器に埋葬します』と。
女の言葉は、殺し合って血を流し続ける惨状、その連鎖を止めることのできない人間の愚かさ、闘いと関係のない多くの弱者を巻き込む卑劣さに対する絶望です。
これも人類の宿命のひとつ。
「ハムレットマシーン」には、この二つの宿命が並列し流れています(その発生起源や形成過程は描かれず、その結果だけが置かれています)。
そしてクライマックス。
ひとつの宿命(男)が『私は機械になりたい』と言うのに対し、もうひとつの宿命(女)は『私は世界を埋葬します』と言います。
最後に用意されたこの対比、印象的です。
男が「歴史の継続」を前提に『機械になりたい』と言っているのに対し、
女は「歴史の終焉」そのものを宣言します。
この対比にどんな意味を見出すかはカナメ、しかしまだそれは見えておりません。
靄の中にバクとしたシルエットが見えるのみです。
よってここでは答えを急がず、この対比についての解釈、考察とまでは及ばぬ、その手前の卵のような夢想を以下記させて頂き終わろうと思います。
【3】
男の在り方には一片の希望も見出すことが出来ません。
『こうやって生きて、こうやって死んでいくしかないのだな、人間は』
という生々しい宿命の事実をヌメリと胸に塗られるだけです。
のたうち回る男の叫びに僕の心は共鳴します。
しかしそれは『救いなどないのだな、人間には』という身も蓋もない溜息でしかありません。
が、しかしです。
あらゆる血を背負った女の言霊の向こう側には、一縷の希望があるような気がしているのです。
僕の皮膚が舞台で溶けたあの日、僕は日常を越えました。
それは「日常の終焉」であったと言って良いように思います。
そしてその「日常の終焉」の向こう側で僕は森羅万象と繋がる「豊かさ」を見ました。
その「豊かさ」において日常は、また戯曲の主題は、取るに足らぬ実に小さなものに感ぜられました。
女が完璧に「世界を終焉」させた向こう側で何が始まるか。
何に繋がる「豊かさ」が待っているのか。
そこに僕は希望を見ます、ヒカリを夢想します。
もしかして僕らは宇宙に繋がることができるのではないか!
と。荒唐無稽でしょうか。
でも僕は思います。
演劇に力があるとしたら、あるいは演劇が今やらなければならないことは、その夢想に真実を与えることではないかと。
80%の世界の力を借りて。
俳優たちの呼吸が深まり交わりゆく稽古の中、そのヒカリの一端だけでも掴むことができたらと思っております。
2017,10,1
身体の景色 オカノイタル