『ハムレットマシーン』という作品は何かを言うわけでも指示するわけでもなく、それ自体が光を放ち、ただ読み手を照らすような作品だ。生き返らされた『ハムレット』の影を通じて、闇から"私"が浮かび上がってくる。ハムレットとは誰か? "私"とは誰か?
今回、難解・シュールと言われがちな本作を紐解く際の手助けになれるよう、シェイクスピアの『ハムレット』を元に短くではあるが書き記していこうと思う。上演を見る前に少しでも『ハムレットマシーン』という戯曲に興味を持ってもらえると嬉しい。
1.ハムレットとラスコーリニコフ
私の製造元の亡霊がやってくる、頭蓋に斧を突き立てたまま。(1)
『ハムレットマシーン』には『リチャード三世』や『マクベス』、サルトルの『嘔吐』、マルクスやレーニン等、さながらイメージの洪水のように、様々な作品やモデルが影を潜めている。その影のひとつにドストエフスキーの『罪と罰』がある。『罪と罰』という作品は主人公であるラスコーリニコフが「自分は選ばれた人間である」という選民意識から高利貸しの老婆とその義妹を斧で殺すところから始まる小説だ。ラスコーリニコフはその日から罪の意識に苛まれ、言い訳をしたり逃げ回ったり自殺を考えたりするが、最後には自首をして流刑にされる。
【選ばれた者】として自分の正義を遂行するために鉄槌をくだしたラスコーリニコフとは違い、ハムレットは【選ばれた者】としての正義(父の呪い/運命)と自分の意思をうまく統合させることができずに苦しむことになる。
ラスコーリニコフは己のしたことによって罪の意識に苛まれるが、ハムレットは己がこれから為すべき(と考えている)こととそれができないことへの罪の意識を抱え、最後には自己を切り離すようにしてサイコロを振るう。偶然に任せ、運命を認めるようにして死んでいく。常識やルールや他者でできた現実社会と"私"を"私"たらしめている個人的な思想・思考との矛盾をハムレットは拭い去れなかった。あるいは、拭い去ろうとしなかったのか。ハムレットはどうして行動できなかったのか。
隣屋「わが恥なき人とならん。」作・演出 三浦雨林 原作 森鴎外「舞姫」 2017.6.7-11@SPACE梟門
2.ハムレットとその肉体
私は家に帰って、時間をつぶしていく、分裂していない自我と/ひとつになって (2)
現実社会と"私"を"私"たらしめている個人的な思想とは、例えば肉体と精神であり、例えば社会と個人である。わたしたちは社会生活、すなわちルールや常識というものに縛られて生きている。他者の存在が否応無しにわたし自身へ影響を起こし、わたしの存在も否応無しに他者へ影響を起こす。一方、わたしたちは思考や想像といった無限に広がる測定不可能で不可侵な、代替不可能な内的な活動をも同時に行なっている。わたしたちは生きている限りこの精神活動("私"を"私"たらしめている個人的な思想・思考)と社会性を往復しているが、これらの往復は頻度も、傾き方も、内容も、全て人それぞれであり、誰一人として同じ人はいない。思考をする人間として生きている限り、ある時は社会が自分を、自分が社会を拒絶したり受け入れられなかったりする。そういったふたつの分断に、しばしば我々も直面しているはずだ。
シェイクスピアの『ハムレット』に登場するほとんどの人物たちは、現実社会に傾いて描かれている。現実社会と自らの精神との間で揺れ動くハムレットと違い、その母ガートルードやオフィーリアの兄・レアティーズなどの彼らは、そこにある事実しか見えない。
王妃 誰に話しているの?
ハムレット ほら、そこに、何も見えないのですか?
王妃 何も。でも、在るものは見えているわ。 (3)
明文化のできない気持ち、靄のような苦悩、"社会"から外れてしまった理解のできないもの、目に見えないものを捉えることができなかった王妃やレアティーズと目に見えないものに覆われて死を選ぶしかなかったオフィーリア、目に見えないものの影に怯えて祈りを捧げたクローディアス。立派な王子⇆非道な悪党というふたつのかけ離れた自分の内的(精神的)な苦悩など理解されるはずもなく、ハムレットは狂ったフリをするしかなかった。(あるいは狂ったように見えてしまった。)
『ハムレットマシーン』には上記の「私は家に帰って、時間をつぶしていく、分裂していない自我と/ひとつになって(2)」という一文が書かれている。"私"が肉体を持って存在している限り、肉体と精神、社会と個人という切断されたふたつの対象を往復しているはずだ。”私"とは原因でもあり作用とともに反作用、また、加害者であると同時に被害者である。ふたつは分断できない混合体として"私"に隷属してしまう。わたしは《牢獄》という言葉を思い出さずにいられない。
利賀演劇人コンクール2016 「ハムレット」 作 W•シェイクスピア 演出 三浦雨林 2016.7.24@利賀山房
3.ハムレットと"私”
私はもう食べることも、飲むことも、息をすることも、女や男や子供や動物を愛することもしたくない。私はもう死にたくない。私はもう殺したくない。(中略)私の思想は私の脳髄の傷跡。私の脳髄は傷跡。私はマシーンになりたい。掴む手、歩く足、痛みもなく、思想もなく。 (4)
シェイクスピアの『ハムレット』で描かれた社会と個人というふたつの存在とその往復を圧縮された意味の塊にしたのが『ハムレットマシーン』におけるハイナー・ミュラーの言葉である。そして、それらの言葉は"私"によって何かに接続されるのを待っている。『ハムレットマシーン』では、しばしば物理的な情景と心象風景が何の区別もなく並存しているが、何も不思議なことはない。それらの圧縮された意味の塊を他者の手が及ばない速さで、いっさいの装飾を施されないままわたしの内部へ受信させるためであり、そして"私"の、あるいは分裂した"私"の話なのだから。果たして"私"とは何か、"私"とは誰のことか。
わたしは、『ハムレットマシーン』という戯曲は大それたことを表現するための機械(マシーン)ではないと考えている。"私"に近いもの、内側と外側、今、それらを照らす光源、つよい光、ただそれだけである。
−あとは、沈黙。 (5)
隣屋「棄て難きはエリスが愛、」 作・演出 三浦雨林 原作 森鴎外「舞姫」 2017.6.7-11@SPACE梟門
(1)ハイナー・ミュラー『ハムレットマシーン』(岩淵達治・谷川道子訳、未來社)6頁
(2)ハイナー・ミュラー『ハムレットマシーン』(岩淵達治・谷川道子訳、未來社)15頁
(3) W・シェイクスピア 『ハムレット』(松岡和子訳、ちくま文庫)171頁
(4) ハイナー・ミュラー『ハムレットマシーン』(岩淵達治・谷川道子訳、未來社)17-18頁
(5) W・シェイクスピア 『ハムレット』(松岡和子訳、ちくま文庫)267頁