現代劇作家シリーズ vol.08
ハイナー・ミュラー『ハムレットマシーン』フェスティバル参加団体 -【ハムレットマシーン】論考-

 楽園王
   2018年4月10日(火)&11日(水)@d-倉庫
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    ハムレットマシーン論考の代わりに

楽園王 長堀博士(劇作家・演出家)


 関係あるのかないのか、の、話ですが、今これを書き始めた今日が3月11日なのです。スタッフで入っている浅草にある劇場にて。テレビでは数日前から震災時の映像が流れます。あるいは、今、被災地がどうなっているのか、を知らせてくれます。そして、虚構の物語と、現実の出来事と、について思いを巡らせます。あるいはハムレットマシーンで描かれる欧州の廃墟と、自国の状況についてを同時に考えます。僕は、震災の後に、あらためて演劇が非日常であり、虚構の分野であると考えました。そして現実世界が非日常になってしまった時には「無効である」と考えて公演も中止にして、しばらく考えるだけの時間を持ちました。それがどうだったのか、とか、まだ答えが出たわけではないので書けませんが、活動休止に関しては、僕の中では演劇が神事に近いものであったことも関係しているかも知れないと思っています。ちゃんとした宗教家ではないので、誰かと比較して戦えるほどの信心もないのですが、その時には、復興とか、何か人々に役に立つことは、とか、心のケアとか、人間のこと、残された人のこと、社会のことの前に、亡くなった方の魂みたいなものに意識が行っていて、そこに演劇がつながってもいる感覚を持ってたものですから、継続が厳しかったと、そう思っていたのです。自分を取り巻く社会に対して、違和感、が生まれていました。もう一度言いますが、何か答えみたいなものに辿り着いた話ではなく、ただただ、その時には厳しかったという話です。

 このことに関しては、一応自己内反省もあって、と自分の為に書いておきます。いいと思ってるだけの話じゃない。

 さて、だんだん演出プランが決まりつつあるので、その事をメモ的に記します。でもあんまり「ハムレットマシーン(以下、HM)」について触れないけど、いいでしょうかね。


イヨネスコ『授業』フェスティバルより

 その前に、自分が参考にしている体験についてを二つ。OM-2の公演のスタッフとしてベルリンには2回行きました。その1回目、公演場所だったタハレスのスタッフとして手伝ってくれた若者たち、東独出身の彼らとは一緒に飲んで話す機会もありました。その印象は鮮明です。もちろんベルリンの壁が壊される前の東独の街並みも見ていて、戯曲にある景色に関してはその時に耳にしたもの、目にしたものが参考になります。バナナ見ながら、昔はこんなもの見たこともなかったと言っていたっけ。もう一つ、利賀演出家コンクールの第一回で最優秀演出家賞を受賞したのは東独出身のペーターゲスナーでした。ものすごく親しいというわけではありませんが、演劇人家会議などで何度か話したことがあります。東独で演劇をやるということ、西に出られるようにと頑張って賞に届くような上演を行っていた話、賞を取っても結局東からは出られなかったという話、そして、東独で、あるいは、欧州で演劇をやるということが、どのような立派な教育を受けているということであり、(しばしば日本での文化的な土壌こそが貧弱だという議論にもなりますが、)彼らは知識人であり、あくまでその時における比較の問題ではありますが、経済的には恵まれている、というようなこと。ちょっと思い出すのは、チェーホフを初め、イプセンなど、その時代の近代劇に出てくる中心的な階級の人達、労働を知らない、労働の必要がない、働くことに何の意味も見出せない人達と、どうしてもイメージは重なります。そして僕のハイナーミュラーへのイメージも重なってきます。

 ずっと言いふらしてきたので、僕の身近な人はご存知のように、僕の演出プランは、シェイクスピアの「ハムレット」を、「HM」を参考にしつつもテキレジして上演し、最後までやり、その後、ハムレットを初め、多くの人物が衣装を脱ぎ立脚して、台詞を用いることなく終わる、といったものでした。今でもこれは、観客の想像力を最大限にお借りして、という形ではあるけど、「HM」の上演には適っているとは考えているのです、が、ただ、テキストに具体的に何度も何度も当たっている内に、変化していきました。やりません。ただ、これに関して、付け加えると、今回のこのようなフェス、つまり、一つの戯曲を多くのカンパニーが同時に上演する、という状況には、僕なりに思うところがあります。僕は、あくまで僕は、ですが、作品と僕の演出、あるいは、それに出演者など仲間を加えても、そのことだけで作品作りは出来ません。自分の演出作は、今回で言うなら、10団体の中の1部分、ということを考えます。一緒にやる9団体を意識します。その中で、どういう役割を果たすか、差を作り出すか、とか考えて、まっすぐにただただ作品に向かっているわけではありません。1時間という枠を越えたら細々と言われる状況の中での上演は、フェス側はフェスの中の一つで在れ、と規定しています。あくまで時間制約や美術や音や照明に関してのルールが決められてる中での上演、ということは、その土俵からは出るな、ということです。それを、僕は、別に何かの障害を感じることなく、その中で作品づくりをしようと素直に考えます。ルールはルールです。さて、このフェスの前にも、僕は演出のコンクールというものにも多く出てるため、同じ一つの戯曲を多くの劇団が上演する、という経験がすごく多いのです。この現代劇作家シリーズが7回目、コンクールは8回出ていますので、僕の中での同質の状況は通算15回です。その中での、経験的事実が僕のこの考えを補填します。公演が終わり、語られるのは、また、記憶の中ですら位置づけされるのが、比較の中の一つだった、ということです。自分の公演ではなく、自分の作品ではなく、比較対象が明記された何かの中の一つであり、自分達の思いとは別の次元で、そう評価されていくのです。自分の中の思考の一部ですらそういう選択をしてしまいます。だから、何か批判的な、対抗的な気持ちではなくって、その上でやろう、というのが、経験則から導き出された僕なりの積極的な選択なのです。それが、例えば出来上がった作品を経て、振り返って「だから弱いんだよ」とか言われても、まあ、現在進行的には何とも言えないのですが。で、そんなことを踏まえた上での、上記したプランでもあったのです、はい。比較の中の一つ。……「HM」には「ハムレット」の存在が重要です。ですが、このフェス、もしかしたら「ハムレット」を知らずに観てしまう観客が出てしまうかも、ならば古典戯曲を多く演出している自分が、そんな作品を上演してもいいのでは、と考えたのでした。それで自分も満足するし、役にも立つと。でも別の角度から色々入ってきて、とにかく上記のプランでは稽古をしていないのですが。


サミュエル・ベケット『芝居』フェスティバルより

 この話題はここでお終いなのですが、ところで今、僕は、否定的な意見もあるだろう、ということを書きました。「「HM」には「ハムレット」の存在が重要です」と。続いてこれに関して。ハイナーミュラーは、シェイクスピア、そして「ハムレット」をリスペクトしている演出家であった、と考えました。今回読んでみて、やはりそれを思いましたし、読むまでもなく、そうであるだろうとまず僕なら考えます。欧州で演劇をやるということには、演劇の専門的な教育を受けた、ということであり、言わば演劇人はインテリです。また、「ハムレットマシーン」中でも触れている通り、特権を嫌悪するが特権の上に胡坐をかいていて、貧困も知らず、貧困とは経験ではなく風景であり、たぶん労働ということをしたことがない、というのが、登場人物であり、ハイナーミュラー自身であると解釈できる人物の人物像です。また一方、欧州で演劇の教育を受けた、ということになれば、もうそういった古典に対する十分な知識を持っているということであり、実際に「ハムレット」を演出した経験があるというなら、古典戯曲の演出家である自分の目から見て、そこには十分に考え込んだなりのリスペクトは必ずあるだろう、と考えます。古典の演出の仕事には必要な精神です。実は、かなり昔に「HM」を読んだ時には、「ハムレット」に対して否定的なものであるのではないか?と受け取っていました。しかし今、今回あたらめて読み、特に英語の版を単語や熟語を調べ調べやって意味取りをする内に、以前とは考えが変わってきたのでした。詩のように感じた日本語訳も、けっこう普通の台詞になっていて、意味も分かりやすい、というのも今回の発見でした。今日ちょうど、「HM」を以前は戯曲だと思っていたが、今では戯曲のパロディであり、詩である、というツイートを見ました。ある側面では賛同すると共に、僕は逆の順序で、最初に詩だと思ってたものが、今は戯曲に読めてきたのでした。台詞があり、ト書きがあり、構造としては戯曲そのもの、と。以前に「画の描写」を演出した者の目から見ると、とにかく形式は戯曲です。詩も戯曲も、声に出さないと本当の意味を成さない文学としては同質なので、そこを厳密に区切ることは正直に話せば難しいのですが、どう理解したか、という個人の中での順序はけっこう重く、もう僕には詩→戯曲、演劇の脚本、になってしまったのです。パフォーマンスの指示書でも、それを促すものでも、ダンスの振り付けでもなく、思いのほか詩でもなく、もちろん小説でもなく、舞台演劇の台本、なんです。その形式で発表され、上演され、そう出版もされ、そう翻訳されたものが、手元にある本で、読んでみてもそうだったという話でした。

 では、どんな脚本か? それについては、もうこれは一演出家による一つの解釈の段階でしょうが、それにはまた新たに考えたことがあります。「ハムレット」は、ハムレットが死んで終わるストーリーです。死にます。本当は。そこでお終いです。ところが、「HM」は、ハムレットだった男、ハムレットを演じなくなった男を登場させることにより、結果的に、ハムレットを殺さず、生かし続けます。いや、結果的にではなく、意図的に意識して分かっていたことなのかも。とにかく彼は、「HM」が書かれた年代としての“現代”にまで続きます。現代の、現実の風景を、その時の欧州を、目に見える世界を、ハムレット、あるいは、ハムレットに侵食された男の目を通して語らせます。あるいは、ハムレットをリスペクトしたことがある男の目、とも言うことが出来ます。彼がハイナーミュラー自身である、という解釈なら、僕の考えではそうなります。ところで、ちょっと説明を加えますと、リスペクトとは、無条件にひれ伏して、批評性を持たない、ということではありません。批評性は同居できるものとして考えています。いや、むしろ必要なもの。ただ、批評性とは、嫌悪でも、否定でも、拒絶でもない、ということは言っておきたい。……このような考えのもと、生き残ってしまったハムレットの視点で、世界を見ていく、もちろん、かどうかは分かりませんが、自分的には、つまり演出プランとして、東独でも欧州でもなく、それは今の自分の日常世界です。戯曲の中の言葉を借りて言うなら、どのような原因からであれ、どんな腐敗にも暴動すら起こせない人々、の暮らす社会。暴力に発展しないデモで、連帯だけで満足してしまえる国民性、どうしても権力には頭が上がらず、へへへってみんな笑ってる、もうハムレットの視点から見たら、かなり異常な風景、ですよきっと。なんてことを思ったのでした。

 だから、演劇をやろう、と思いました。
 大変恐縮ですが、僕がほとんどの台詞を書きます。
 それは、舞台が、上記したような世界になってしまったから。
 出来れば、普通の演劇、って言っていいか、慣れ親しんだ小劇場演劇の形式でやるのが良いのではないか? それは、ある意味賛同すると云ったツイートにある、戯曲のパロディという単語からの発想。
 パロディ、あるいは、コメディでいいのではないか? それにちょっと説明を加えると、今のこの国の中で暮らしていて、もしも例えば社会に影響力を持つようなものを書きたい、と望んだら、不条理劇にある、表面的にはコメディのような、4コマ漫画のような、ああいう仮面を被るのが、最もその目的に適うだろう、と考えていることに関係しています。悲劇が好きで悲劇を積極的に手掛けてきた演出家ではありますが、どうしても悲劇にはそういう効果が薄い。

 というような「言い訳」を書いとけば、誰からも怒られないかなぁ、って本当は思ってます。正直云うと、精神的にはこの状況けっこう厳しい。怖い、に近いかも。どうせ面白い演劇しか作れないので、ただただやらせて、って思う。で、上記した中には突っ込みどころが満載で、大きなところでは、お前、だいたいルールなんて守らねーだろ、というものとか。でも、それも逆なんです。

 コンクールでは、ある年、一つの戯曲の中で、他の戯曲の台詞を引用したから失格。
 その翌年は、言葉使いを大きく書き換えたことで失格。
 その翌年は、では一切台詞に手をつけなかったら、上演時間が規定をオーバーして失格。
 この上演時間に関しては、このフェスでも厳しく注意されたこともありますね。
 また、実は二つの演出における受賞作品においても、大きく書き換え、構成はいじり、審査の前にはコンクールのスタッフから、長堀さんの作品はコンクールのルールに抵触している可能性がありますので、そこを踏まえて審査してください、なんて審査員に伝えられていますね。

 で、ただ、逆と云ったのは、僕が僕自身の判断で、まったくルールを守ろう、一切そういう問題のない演出作を作ろう、ルールの中で戦おう、とした上で、まったく意外な形で、もう本当、本人の中では青天の霹靂のように、失格とか、ルール違反とか、そういった言葉が振ってきただけなので、もう自分ではどうしようもありません。ただ、そのような経験が多いため、もうこういう状況にはビクビクしてしまいます。分からない。なんで怒られるのか? 今も心穏やかではありません。これが正直な気持ち。僕の中では、なんだ、そういうところで「ダメ」とか云われちゃうのか、って後から分かることなので、ただ最初にはもう震えるしかない。だから、こんなことを書いておいて、なるべく怒られないようにしたいなぁ、と思っていますが、どうでしょうか。どうかなぁ……

 でも、これ、すごく危険なこと話してますよね、もし何らかの法律を僕が違反した時に、僕は、えー、だって守ろう、守ろうって思って生きてきたんだから、そんなこと言われても困るー、とか言っちゃいそう。真面目な話、身に迫る、本当恐ろしい話。話を戻します。

 というように、経験が人を作ります。経験、恐ろしい。こわっ。人格形成に必要なのは経験だと思います。経験から何を学ぶか。って前に、経験選べるわけもなく。そういう人間になってしまいました。


別役実『正午の伝説』フェスティバルより

 でさ、きちんとした教育を受け、演劇の専門的な知識を得て、それなりの権威もあり、影響力があり、労働の中で演劇をやってるわけでもなくてさ、僕のようなポジションの男の目から見たらチヤホヤされてさ、才能とかそういうこと云っちゃったらそうなのかも知れないけどさ、でも、そういった人間の目から見た世界の記述ですよね、これ、このホン。何の話しかと言うと、演劇にそもそも、共感、って必要ですか? なんか今の演劇、共感、共感、分かる、分かる、って、もうそればっかりで、気持ち悪い。いや、一個一個はうまい、実に、心の機微を描いて、素晴らしい。観客が、そこに人間が描かれている、分かる、あれは自分に似た人間の物語だ、いや、あれは自分だ、なんて作品は、本当にもう多い。そしてよく出来ている。多くの古典語曲を演出する演出家も、そんな傾向を背負ってか、共感を手掛かりに演出する。分かる。この部分に共感できる。この人物はきっと私に似たところがある。いやいや、でも本当は、そんなバカな話あるわけない、ってことの方が多いでしょ、ちょっと考えれば分かる、時代が違えば、国が違えば、ぜんぜん違う。知識としては分かる、でもさ、実感わかねー、分かる訳ないよね、だって経験ないもん、ってことが書いてあるはずなのに。人間はいつの時代も、どの地域でも根底のところでは同じ? いやいや、どんな夢物語だよ、それ。共感できないことは共感できない。分かり合えないことが普通で、せめて譲歩して許し合えるなら、それが平和へのかろうじての手掛かりでしょ。他人。他人は他人。どう頑張っても無理なものは無理ー。「HM」とは、僕の私見では、「他者」の物語です。ハイナーミュラーっていう、共感できない人物の、あるいは、ハムレットという、死なずに生き残った他者、亡霊?、ハムレットが、共感なんか糞食らえの、風景描写と、僕には到底分からない(実感は得られないという意味)自己記述を試みた文章。そして何か受け取るものがあるなら、ハイナーミュラーがこの中で「ハムレット」に対してどのようにか扱ったように、今度は、その時代時代の演出家(などの表現者たち)が、「HM」に対して同じように扱わないでは成立しないような、そういう戯曲だということ。さっき書いた話。演出とはリスペクト。でも、批評性は同居できる。もちろん、険悪でも、拒絶でも、否定でもない。ただ、他者の言葉を、他者が描かれた風景を、共感を手掛かりにはしないまま扱う一つの演劇的な手腕は、優れた演出家にはやっぱ必要だと思うのです。書かれたものの中に、何か、自分に共感できるところを探して、時には無理して探して、あるいはその時に誤読までして、そんなものを手掛かりにしか演出できないとしたら、そこには限界がある。

 他者を描く、ということ。

 あともう一個、ある時代におけるシェイクスピア、そして「ハムレット」における権威という言葉に代表されるある種の価値観や、何より、それを信奉する人々の有り様が、もしハイナーミュラーにとって「気持ちが悪い」と目に映ったなら、あるいは、事実はどうであれ、そういう解釈で読み解くのなら、これは僕の目には、ちょうど今、あるいはけっこう前から、「HM」に対する何か、変な、特別みたいなイデオロギー、ちょっと宗教的に見えるくらいで、ぶっちゃけ「気持ち悪く」て、要するに同じで、同質で、それが、それが、ここで話が終わりじゃないよ、ひるがえって、この戯曲をどう上演するかのヒントになるような、積極的に受け取って、ね、文章がアレですが、そう思うのだけど、どうでしょうか? どう扱うのが本当はいいのか? えっと、でもまあこれは、僕にはあまり価値のない話で、僕にとってはそうじゃないので、ある意味、親切心から書いたのですが、何かの手掛かりにしてくれたらいいと思います。きっと共感できない「他者」からの意見でしょうから、それが逆に役に立つって、ここまで自説を書いてきたので。

 でも、とにかく、上記してきた流れと、支離滅裂な、それは書き方ね、でもその全部が、文章化した一応の演出プランです。それは間違いないです。五十も過ぎて、ルール違反って言われないように、怒られないように、ビクビクビクもねーなって思いますが、本当、嘘じゃないです。

 (追加)3月14日、本番まで1ヶ月を切ってるこの時期だが、d-倉庫で行なわれた村瀬先生のレクチャーを聞き、それまでに認識していたことの修正を迫られた。不勉強を恥じて書き直すのではなく、追加で少し書きたい。修正の一番大きなところとして、ハイナーミュラーの家庭が裕福ではなかった、というものがある、が、それを含め、世界観の認識の差、と考えていいように思った。今は「自由化がだんだん進んできている社会主義国の東ドイツ」というもの、「東ベルリン」という場が、それまで考えているより大きく見えてきている。そして、ベルリンへの2回の訪問の経験が何か参考になるかとように考えていたのが瓦解し、もしかしたら、肌感覚としては、演劇人会議の研修で訪れたロシアのモスクワや、OM-2のスタッフとして訪れた地としては上海、また、キエフなどの幾つかのロシアのバレエ団の日本ツアースタッフでの経験が、感覚的には近いように思えた。一つ書くと、「自ら特権を持ちながら特権を嫌悪する」というハムレットマシーンの中の部分、まず、2つ考えられるのが、ハムレット=ハイナーミュラー自身、という考えを改めるべき、という方向。社会主義国での、けっこうどこの国でも似た状況の、演劇が国家あげての文化的な価値を持つ、ということが大きい。ドイツにおいて、ハムレットに至っては、常識とも呼べるような、教科書的な作品であったということ。それはきっと想像以上で。また、ハムレットマシーンが書かれた背景の、ハイナーミュラーの仕事としての、ハムレットのドイツ語訳への翻訳を経て、書かれたという、当時のハムレット作品への造詣、ある種の傾倒。ハムレットはまさにハムレットだった、と考えてもいいようにも感じた。ただ、もう一つ、特権というものを、自分が公務員的な立場だった、ということで考えることが出来るなら、それならやはり、=ハイナーミュラー自身という考えも出来なくはない。多くの社会主義国では、すでに知っていたことであったが、演劇に携わることは公務員として国家に雇われる、ということである。東ドイツにおいてもそうであったというのだ。出会う機会のあった中国やロシアの演劇人にもそのような立場の人が多かった。…そして、ここからどう解釈するにしても、ハムレットマシーンで描かれる風景が、一気にベルリンでの印象から、知っている範囲内ならモスクワや上海のそれに変貌した。ただ、実は、修正を迫られた点よりも、思っていた通りだった点も多い。だから、ここから又、どう考えていくかには自分自身定まっていないが、現状こう追加したい。