文化庁、および芸術文化振興会の基金は、年々細かいことに目をつけるようになっている。1円たりとも狂いが生じないように、といった感じだ。そしてそのために提出書類などが多くなり複雑になっている。芸術を志そうと思う者であっても会計能力などを有しないと申請する資格がないということだ。つまり、この不景気にあっては、規範などから逸脱し破天荒になるような「力」より、社会における常識や規範を守ることの方が重要であるというものだろう。社会的な経済的論理に基づく経理などを知らない愚かな者は会計士を雇えばいいという。それは、会計士などを雇うだけの資金がある団体・個人でなければ、将来性はないので支援はしないというものだ。つまり、社会的経営能力もなく金もない者は申請の資格がないということである。国が「芸術家」として認めるのは、金銭を集めることができる作品を創り出せる者であるということだ。
最近、アニメなどに国が関与するというのも、アニメというものを文化として捉え独自の視点を育てるとかいうものではなく、産業としての価値が出てきたということを基準にしているだけで、基本的な考えは同じだ。言うなれば、個人が創りだす作品を文化(芸術)的価値として評価するのではなく、国にとっての産業として成り立つようになったので評価しようという訳だ。海外で話題になると、それまで国内で評価など何もしていなかったにも関わらず途端に賞などを送るのも同じ視点である。この国の政策に、独自に「文化」を捉える(考える)という視点など欠片もないのである。文化(芸術)的価値など、所詮、経済的視点の下部(隷)であればいいということなのだ。
その考えは、芸術文化振興基金から「先駆的・実験的創造活動」を止め、新たに「トップレベルの創造活動」として打ち出したことでも分かるだろう。本来、芸術にレベルなどを付けること自体がおかしいのに…。
文化庁は何を持って「トップレベル」と言っているのだろうか。その基準は何も示されてはいない。数人の批評家の眼だけを評価の基準にしているのは、なぜなのだろうか。その数人の審査員が、そういった芸術的な眼を持っていて国の代表として何十億円もの税金(芸文だけ、民間の資金も含む)を動かすことに、文化庁も審査員も疑問がないのであろうか。それはおそらく、審査員(批評家など)の偏った選定を見ることで、理由が見えてくる。芸術的価値を重視する人をできるだけ排除し、大衆的志向の他ジャンルの人を繰り返し審査員として選び、演劇というジャンルに拘らない人たちにも分かりやすくて人気が出る(広く金集めができる)能力を見定めようとしているからだ。文化庁は芸術的価値より経済的価値を優先し、芸術=産業として捉えようとしているのである。それは、これまでのいくつかの文化庁のあり方をつなぎ合わせていくと、さらに見えてくるような気がするのだ。
「トップレベルの創造活動」とは、韓国の文化政策で映画を産業として成功させた例などをもとに、思いついたものだろう。そして、それを舞台のジャンルに移しただけで、韓国に後れを取るまいとしているに違いない。だが、そこには何の芸術的意志も思想も感じられない。
演劇やダンスを志す芸術家(あえて、そう呼んでみる)たちは、自分のやろうとしていることを「産業」としての価値と同等に扱われていくことに違和感はないのだろうか。金銭をもらえれば、その辺はクリアーできる問題なのだろうか。自分のやっていることが金銭に回収されていくことに疑問を持つことはないのだろうか。そもそも芸術活動を志した理由は金銭とは別のところにあったはずである。もちろん、初めに志した理由を持ち続けることが正しいなどというつもりはないが、それがいつの間にか、金銭をもらえるならばもらえる方がいいということになり、それがさらに進んで、もらえなければ続けられないといったものに変わってしまったのではないだろうか。
そしてそれらの有様を見て、芸術とはお金になるものであると勘違いをして集まってくる人たち(特に制作者など)が出てきて、芸術の世界がまるで就職活動の一環でもあるかのような程になっているのである。そして芸術活動の金銭(基金)に群がる人が多くなって、「金銭をもらえなければ芸術活動などやってられない」といった声を聴くのが当然のようになってきているのが現状なのである。そして金銭的報酬をより求めて、制作者が観客に媚びへつらうように芸術家にサービスをさせるのである。そして、観客の多くもそのサービスを創りだせない団体(人)を切り捨てる。そのサービスを器用に作りだせる団体こそを才能があると評価をする。そしてその大多数の好みを文化庁も信じ、それが産業としても結び付くことが可能であると考えているのではないだろうか。
例えば、ピカソやムンク、ウォーホルのうち、もっともレベルが高いのは誰かと言われても比べることなどできないし、比べてもしようがない。それは、それぞれが単体における価値を独自に持っているからであり、また、見る側によってその価値は異なってくるからである。比べられるのは、経済(商品)的な価値でしかない。観客が何人入ったかという水準を計ることはできても、芸術のレベルというのは深さであるため計ることはできないものだ。その深さとは、個人個々の内にあるものだからである。
また、土方巽の舞台にしても当時は観客が入ってなかったし、彼の価値は(彼の意志はさておき)外に大きくなることを目的にしていなかったに違いない。彼は外とは逆向きの個人の奥深くに潜む「何ものか」に価値を置き、そのために踊る身体と観る身体とを生で伝えることができうる小さなアトリエに死ぬまで拘ったのではないだろうか。
経済的・社会的指標に基づいた価値観や制限を絶ち、個の人間としてどのように存在するのか、その存在のレベルがそのまま芸術のレベルだと言いえる。そういった芸術の価値を消費価値における優劣のヒエラルキーの中で評価することは不毛である。
そういった意味で芸術的価値とは、観客動員数などによって決定される価値とは全く別の次元で評価されるもので、むしろその性質においては反比例するものだ。ゴッホにしても認められたのは死んでからで、作品が彼の手を離れ“モノ”として独り歩きし始めてからである。生きていた当時のゴッホの絵を見て批評家もパトロンも評価しなかった(ゴッホの絵画は認められなかったからこその美しい色使い、独自の筆の運びであるといってもいいだろう)。 そして、ゴッホに誰も「トップレベル」の絵画などと言わなかった。もちろん、ゴッホ自身にしても「トップレベル」と言われても戸惑ったであろうが…。
そもそも芸術とは、外(社会など)と拮抗することで個人の内側に湧き上がる初源的衝動に根幹があり、また、その衝動が湧き上がりそれが持続する時間こそを芸術といってもいいものだ、その時間を過ぎた時、つまり「個」から離れ外に行けば行くほどその衝動は浅くなる宿命を持っている。そして外に表出する寸前にエネルギーが爆発を伴い拡散していく。その爆発こそを芸術であるという人もいるだろうが、どちらにしても外に表出され、広がっていくにつれ芸術的深層から引揚げられてしまうのである。
しかし、多くの人たちは、その存在が芸術的深層に留まりながら同時に広範な流通性(商品的価値)を生じさせるものこそ芸術だと勘違いしているのである。それらは相反するもので、一個の人間の内部で同時に保つことができないものだ。人間の精神において芸術的価値と経済的価値は反比例するものだからである。芸術が外を向いたときにその価値は消滅する。つまり、世間に広がるとは、芸術的価値がなくなり残りカスや残骸になってしまったという証明であり、それは流通可能な単なる「記号」や「型」でしかなくなったことの証明なのである。芸術を志す多くの人の中にもその証明を求めようと勘違いをしている人が大勢いる。文化庁の芸術の考え方も、その勘違いを上塗りしているようにしか見えない。
一九六〇年代に台頭してきた小劇場ブームは、それまでの商業主義的演劇(「新劇」も含む)に対して、自分たちの思想や考え方を優先させることを目指したといってもいい。つまり、「演劇は金銭の価値とは別の位相にある」と主張したといってもいい。
それ以前のいわゆる「新劇」活動も、当初は同じであった。しかし、劇団活動を維持(より快適に)するための金銭的事情が、「自分たちの主張する理由」より優先していったのである。金銭を集めるためにTVに出演し名を売り観客数を集める努力をし、そして、社会的および政治的主張などが薄められていき、何のために公演を行うのかという理由を見失ってしまったのである。そしてそれがさらに進み、「自分たちの主張」は姿を消し、名を売ることを主として金銭の拡大を目的化してしまったのだ。つまり、金銭に操られ、大衆に迎合することを行うことこそが演劇であると取り違えていったのである。
そしてそれは、小劇場運動も同じ轍を踏む。
基金の制度がなかった「新劇」の時代は労働組合の組織による収入、TVなどに出演しスポンサーを得ることなどが主な収入源であった。小劇場演劇の時代になり、バブルがはじけ右肩上がりの経済成長に陰りが出てくると、国主導の基金制度がその代りを果たすようになる。そうなってくると、小劇場運動の政治的主張なども、実際の政治にはあまり関係のない(政治には影響を及ぼさない)ところで展開し、それを考慮し計算して、さらにその主張が基金的(金銭的確保)に有利に働くことを知り、国と芸術家が互いに持ちつ持たれつという関係を築くようになる。そして、現在では「主張」など何もない中で、金銭的欲求を満たすことしか芸術を志す根拠を見出すことができない人ばかりが跋扈する状況になってしまったのである。そして、小劇場運動も実質、終止符を打たれることになっていったのである。言い換えれば、国は危険分子であった小劇場運動を骨抜きにしたのであり、それは国にとっての成功とも言えなくもないのである。
現在残っているのは、小さな劇場で行うことを指す「小劇場演劇」という言葉であり、「演劇は金銭の価値とは別の位相にある」のではなく、「演劇は、金銭を得るための手段」となっているのである。そして「小劇場演劇」は、国の経済的支援の助けになることを求められ、それに疑問も感じず邁進していくに違いない。
芸術文化振興基金の話に戻せば、その説明会で「不正が見つかったので、さらに厳しくしていく必要がある」と当然のことのように言っていたが、それはどういうことなのだろう。その説明は少しもなかった。
初めから芸術文化振興基金というのは芸術家のための基金というより、中小企業の助成金制度に近いものであった。つまり、産業として成り立たっていない段階にある会社(団体)に一時的措置として支援するといった制度のことだ。そのために、その基金の性格(法律)上、詳細を記した書類が必要であり、儲かってはいけない(黒字が出た場合は資格を失う)という決まりがあり、その支援の条件に合わなければならないというものである。つまりあくまでも赤字補填であり、将来黒字を出すことを目的として支援するといったものである。そもそも、「演劇は金銭の価値とは別の位相にある」ということを標榜するのでは、基金を得る資格はなかったのだ。しかし、それはその設立当時、「基金」というものの概念に「芸術」を想定していなかったために、それを可能にするには法律自体を作っていかなければならないから時間がかかってしまうので、既存の中小企業などを支援する法律に合わせざるをえないものであるというのが、僕だけではなく多くの演劇人の認識であっただろう。それは、暫定的措置であると。だから、「演劇は金銭の価値とは別の位相にある」という志向の数少ない団体にも、「実験的・先駆的創造活動」という名の下で支援をし続けてきたのであると思っていたのだ。だが、その「実験的・先駆的創造活動」がなくなり、制度自体の基本的性格も変わることはなかったし、法律も作られなかった。というより、その「詳細を記した書類」はより詳細を求められ、厳格を求められるようになってきたのである。
僕が、芸術文化振興基金ができた当初から主張していた「芸術家の最低保証制度 ~Basic Incomeであっても同じではあるが、芸術家を支援するなら、何にいくら使うかを明確にさせる(限度を設ける)ことではなく、(芸術家が創りだしたものに対して)好き勝手にどのように使ってもいい額を(非課税にして)渡す制度に変える必要があると思っていたのである。国は、作品の内容はもとより、金の使い方などについてもこと細かく介入する必要などまったくないし、入ってくるべきではないと。例えば、今の制度のように演出家の人権費の適正額はこの額が限度だからそれ以上は認められないとか、公演の一カ月前以前に稽古した経費は認めない(稽古は一カ月間にするのが適正とする)とか…。本来、芸術に一般論を嵌めようとする方が無理なのは、過去にそんな品行方正な芸術家がほとんどいなかったことを考えれば当然だろう。芸術家は支出に対しても自由であってもいい。演出家が自腹に入れたとしても、それが酒台に変えたとしてもいいのではないか、ということである。そんな中から自由な発想というのは生まれてくる場合が多いのも事実だろう。
上記芸術活動の最低保障制度 ~Basic Incomeのように作品評価・ランク付けを完全に排除するところまで行政が改革に踏み切るに至るのは現時点では難易度が高いかもしれない。ならば現行の制度をベースにしながらでも構わないから、この基金のあり方を今からでも変えることはできないのであろうか。
具体的に言えば、
①基金の要望書から収支計算書をなくす。
②申告書自体をなくす。
③収支報告書と領収書の提出をなくす。
④評価額は過去の作品(と企画書)の評価によって行う。
つまり、金銭的要綱をすべてなくすということである。これは現行の実際のやり方とほとんど変わりはないので、現在から無理なく変えることは可能だと思うのだ。ただ、法律上の問題があるかもしれないが、現行の法体系でも可能な場合もあるだろう。無理な場合、そこに「芸術家の特例基金」みたいなものを設立していけばいいのである。基金の設立当時に、僕はこの「芸術家の特例基金」みたいなものが、当然設立されるものだと思っていた、ということなのだ。
僕がこの基金の簡素化を提案するのは、ひとつには芸術家が金銭を自由に使えることによって自由な発想が生まれるだろうといったこともあるが、本当は芸術家を犯罪者にしないためでもある。現行制度のままでは、どこかに歪みが出てきてしまうからだ。それは基金を受け取った人ならば分かるだろう。
また、そうすれば、文化庁なりは基本的には、その芸術団体(家)からその額の領収書をもらえばいいだけで済むのである。そこには不正事件は生まれない。文化庁としては、要望書などの細かい精査作業をしなくてもよくなるし、そのための膨大であるだろう人件費などが丸ごと浮くことになるのである。文化庁は、基金の申請が厳格になっていく理由を「芸術家が不正事件を起こしたから」と責任転嫁しているが、本当は、自分たちが不正事件を産ませないシステムを作っていくことを怠ってきたためであり、自分たちの権限を広げることや天下り先の確保を優先させてきたためではないかと思えるのだ。
現在、文化庁は基金の下部組織として独立行政法人「芸術文化振興会」と、去年からさらに民間機関に仕事を委託するようになっている。僕の提案で行けば、文化庁内だけでも充分収まる仕事量になるのではないかと考える。際限なく増えていく人件費やオフィス費などに歯止めをかけることになる。もちろんそれは税金の無駄遣いを止めることであり、それらのすべての人件費を含む経費を無駄に垂れ流すより、その額を芸術家に渡す額としてプラスした方が有意義だろう。また、先進諸国の中で著しく低い日本の文化予算の底上げにもつながるだろう。
国家予算の赤字累計は一〇〇〇兆円を超えた。最近の日本の一般会計歳費は大雑把に言って約九〇兆円、税収は約四〇兆円(特別会計などのことは経済音痴の僕には良く分からないが…。実際には国の借金返済だけでも毎年約一〇〇兆円、年金支出だけでも約三五兆円もあるということらしい。これはどういうことなのかは省いたとしても)。まともに考えれば、毎年五〇兆円の赤字になる。
この赤字を埋めていくには、もちろん消費税に頼らざる事態に陥っていることも分からないでもない。ただ、五%を上げただけでは約一〇兆円の増税だ。消費税率をどこまで上げればいいのか。四〇%くらいにしなければ借金を返していくことはできないとも言われている。生産年齢人口が減っていく中、この借金をどう返していくつもりなのだろうか。その道筋はまったく見えていない。そんな中で芸術家だけが、いつまでも施しを受けるのは当然だとは言っていられないだろう。
このことと、基金の問題と「劇場法」も無関係ではない。
文化庁における基金と芸術文化振興会の基金にまつわる歳費だけでも、設立当時からどれだけの費用が拡大しているのだろうか。芸術家を支援する基金自体の額はたいして変わりはないのに。つまり、基金が細かいことに目をつけ厳しくなっていくのは、本当は芸術団体の不正のせいではなく自分たちの仕事量を増やし既得権益の拡大が目的なのではないだろうか。二三年度からはアーツカウンシルとしてPO、PD制度が加わった。その人たちの仕事も良く分からないが、ただただ役人(準役人)の人数が増えていくのだ。今までもそうやって、各省庁は人数を増やしてきたに違いない。去年からの民間に委託した費用はどこの省庁が出しているものなのかも分からないが、拡大していることだけは分かる。
その拡大を止めなければならないと思うのは、一個人としても芸術を志す団体にとっても当然だろう。自分たちだけが良い思いができればいいという問題ではないだろう、ということだ。
そして、次はその対象となっているのは「劇場法」(もともとは地方公共ホールの老朽化の措置、救済のための法)なのである。この法律を制定することは、まさに公務員の拡大に都合のいい機会なのである。国は地方のホールなどにあえて首を出す必要もないのに、首を出す理由は何なのだろうか。その目的は、国の力を地方に誇示し自分たちの既得権益を拡大させようとしているだけではないだろうか。民主党がその公務員の口車に乗せられ罠に嵌って、「劇場法」なるものを制定させられようとなっているように見えるのは、僕だけではないだろう。国の借金を減らしていかなければならない時に、なぜ、新たに国の仕事を増やす必要があるのだろうか。そのために増やす経費はいくらになるのだろうか。法律が細かく、多くなればなるほど、経費がかかってくるのは自明の理だ。税金にしても複雑にするから税務署の人間が増えていくのであり、簡素化すればするほど少なくて済むのは言うまでもない。
国は、地方自治をその自治体になるべく任せるという方向に向かうべきだ。そしてその失敗をその自治体が負うという構造に変えていくべきなのである。地方に劇場などの箱モノを作らせてきたのも国である。国が地方に首を出すより、地方に地域独自のものを生み出していくための継続的資金を国と地方の税率の比率などを変えて、地方自治体の収入を増やし自由に使える金を増やせばいいのだ。そして地方の劇場やホールが維持できなくなったら、自治体はホール自体を閉館させればいいのである。
国は、国の管轄である国立劇場と新国立劇場などを活性化させればいいのだ。天下りや芸術に興味のない役人を排除し、無駄を排し芸術家を中心とした自治を進め、優れた演劇を創造していくことに力を注げばいいのである。タレントを呼んで客寄せをする前に、演劇の力を活性化することに知恵を絞り邁進すればいいのである。自分のところもキチンとできていないのに、地方のホールにまで首を出すなど持っての外だ。指定管理者制度(*これについても今は書かない)がうまくいかなかった(そもそも指定管理者制度を作って、今の公共ホールの改善ができない理由は何なのだろうか)のなら、その原因は何なのかを究明していくことから始めるべきであり、そしてその失策の反省をするべきだ。
今回の「劇場法」も、指定管理者制度の導入時と同じく、先は見えているのではないだろうか。つまり、国の政策は失策をしても責任を取らなくてもいいために、また役人はそれを上手く利用し自分たちの利益を守ろうとするのだ。そのあり方は、ずうっと一緒である。民主党が政治主導と口で言ってはみせても、実際は役人の言うことを見極める力さえないということを露呈しているだけなのである。
政治家も公務員も、自分たちの権益を拡大していこうとする構造を変えない限り、何も変わっていかない。また、今回の「劇場法」制定、および基金における経費の増大によって、借金を増やすことに芸術家も賛同させられようとしているようなものだ。国はもう破綻寸前まで来ているのに、まだ懲りずにこれまでのやり方を続けようとするのは犯罪にも近いのではないだろうか。また、地方の財政難に付け込んで、金をチラつかせるやり方も相変わらずである。
地方には約一〇〇〇人の集客規模のホールが多いのかもしれないが、中には演劇に向いている二〇〇~四〇〇人集客収容規模のホールもある。現在、地方自治体を悩ませている箱モノの大きな問題は維持費だろう。それならばそのホール自体を地方の複数の芸術団体に丸ごと運営を任せてみたらいいのではないかと思うのだ。多くのホールに縛りとしてある「市民のために1/3は開放する」というシステムは残しておいてもいいだろう。しかし、1/3も使われていない場合が多いのが実情だろう。その場合、すべての空いた時間を含め、丸ごと地元の芸術団体に任せればいい。そうすれば24時間、使える劇場が増えるだろう。維持費も基本的には自分たちで試行錯誤しながら捻出していく(初めは最低限の運営費などを渡すこともいいだろう)。清掃やメンテナンスは芸術団体の中の芸術家みずからが行えば、それが芸術家の個人の収入になる。自治体が民間業者に頼むよりはるかに安く済むだろう。
それはもしかしたらホール自体がボロボロになっていく可能性もある。ただそれでもいい。どうせ閉館しなければならないならば…。しかし、そのボロボロになっていくあり様や足跡が金太郎飴のようなホールの考え方から脱却していく可能性があるのだ。言い換えれば、そのボロボロの中にこそ文化が芽生えていくのではないだろうか。すべてが厳格に管理されている中から何が生み出されていくというのだろうか。現在、地方自治体の財政難は年を重ねるごとに一層厳しいものになっているのが実情だろう。本音を言えば、箱モノがなくなればいいと思っているところも多いだろう。それを助けるためにも、芸術団体に開放する提案は悪くないと思うのだ。
僕たちが以前、よく公演で行っていたスイスのベルンにある市民ホールは芸術団体が集まって自治していく方式だ。約二〇〇人規模の劇場とミニ映画館、ウィメンズ多目的ホール(フラットスペース)、大ホール(客席はなくフラットスペース、元競馬場)、レストラン、バー、クラブ、宿泊施設、事務所、中庭などがある総合施設である。こう言うと、さぞ立派なものを想像するかもしれないが実際は世界遺産の古い木造建物を改装して作ったボロボロなものである。地元のいくつかの音楽や演劇、ダンスなどの芸術団体による自治である。その団体の力や考え方によってその施設の活性化は変化する。バーやレストランの収入もその自治団体の収益となる。バーで働く人も芸術家である。その自治の中に役人はいない。
大事なことはボロボロになっても、基本的には国や自治体は関与しないことである。自治体は、それらを自由に使えるように協力することなのである。例えば、ベルンのような常設客席のないフラットスペースの大空間で公演を行う場合、日本なら消防法などの問題が立ちはだかり、建築士の構造計算書などを提出しなければならないとか客席を固定しなければならないとか…さまざまな問題が生じる。それは、劇場ではない場所で公演を行う場合でも同じように許可を得なければならない。ベルンにある中庭やレストランで公演を行う場合でも同じような許可がいる。また、劇場や大ホールで公演を行う場合でも、演劇の内容によっては間仕切りなどを自由にすることができないし、いちいち細かい許可がいる。だが、ベルンの場合は、そういったことがほとんど自由に行える。日本の場合、そういったことを試みようとした場合、消防署と保健所、役所の建築課に許可を得なければならない。そしてそれらの許可を得る場合にも時間がかかるし(建築家、消防設備員などの)費用もかかるのが実情である。あまりにも厳しい規制のために自由な発想を奪われているという感じだ。自治体はこれらの規制を撤廃し、または自由に行える特例などを設けることを推し進めるべきなのである。それこそが地方自治体の力なのである。ただひたすら法の厳守を行使するのではなく、人間にとっての自由を考える(与える)ために自治体というものが必要なのであることを忘れてはならない。また「法律」とは強者から弱者を守るためにあるということも。(*本当は、細かい法律で縛り事前規制を敷くのではなく、事後責任を負う制度に変えることが望ましい。これも国の歳費の削減につながる。大きい法律以外は削っていくことで、新しいものが生まれる余地が増えてくる。今の日本は、法律によってガチガチに縛られて身動きとれないでいるのだ。)
一〇〇〇人規模のホールの場合、その地方自治体が音楽に特化し力を注ぎたいなら音楽団体を主にした自治をさせるのもいいだろう。だが、できれば複数ジャンルの複数の団体が参加することが望ましい。なぜなら、地方の場合、それだけのジャンルをカバーできうるホール数がないし、一ジャンルで公演を長く打つことには現実的には無理があるからだ。また、ホールが稽古場になってしまう危険性があるからである。それでは本末転倒してしまう。ホールは公演で収益をあげていくことを基本にするべきだ。また、自治体の協力によって、自由に改装をし、間仕切りや、舞台の上だけで公演を行うことなどが容易にできるようになれれば、演劇やダンス団体と共に自治を行うこともできるだろう。そして、その複数の団体が、収益性を高めるために独自のプロデュース能力を有することも必要になってくる。その能力こそ、身内が来て満足している現在の小劇場のあり方を変えていくものとなるだろう。また、貸劇場の収益だけではなく、近くに空いた土地や空き店舗、無駄なホール事務所などがあれば、収益性を高めるためにホールと連動したレストランなどに変えていくことも容易に可能にさせていく。稽古場や芸術家のための宿泊施設に変えていくのもいいだろう。積極的に地域のスポンサーに支援してもらってもいい。だが、個別的な利益を生み出さないためにも複数の団体の自治が重要だ。NPOにしてもいいだろう。だが、そこには出入りを自由にする必要があり、個別の団体に偏って利益がいかないようにすることも必要である。
つまり国は、法律から劇場を解放し独立した空間(イメージしにくいだろうが、西欧の独立した教会のようなもの)と認めるべきなのである。自治体は、複数の芸術団体に任せることで地域独自のものが生まれてくる可能性を促す(手助けする)だけでいい。国は、芸術家から芸術的価値(主張)を失わせようと意図するものでなければ、その独自性こそを歓迎するべきであって、地方も個人も開放し、手を引くべきなのである。
これ以上、国に何かをやらせることを阻止していかなければいけない。これまでも国による失敗を繰り返し行ってきた結果の1000兆円を超える莫大な借金があるのだから。公共ホールは箱モノ行政といわれた時代の失策の遺物である。何のためにホールを造ってきたのか。本音は自民党が政権維持のために市町村に金を配るという選挙対策のために造られたといってもいいだろう。他に、それ以上の理由を示さず、「芸術とは何か」ということも問題にせずに高度成長の名のもとに増やしていった代物だ。そのために時代遅れとなり、ホールという記号だけが残り、税金を蝕んできたのが実情である。それが老朽化してきて機能しなくなった(実情は、造った数年後から機能していなかったらしい)からと言って、再び、国主導のやり方(借金の増大の加速)を継続するべきではなく、その失策を蘇らせる必要などない。今回の「劇場法」の設立は、国による失策を恥の上塗りの如く手法で修復するためのものなのだ。
国が地方に条件を付けて、必要以上に金を分配する構造自体をもう止めなければならないのだ。日本中どこへいっても金太郎飴のようにミニ東京ばかりになっているのもその弊害によるためだ。どこへいっても同じ物が手に入り、取り立てて地方に出向いて行く理由もなくなってしまった。演劇も、東京の演劇の価値を真似ようとするものがほとんどである。街の風景も文化も演劇も地域独自のものが出てこないのは、すべてを一律化しようとする国の在り方に則っているからである。国は地方自治体で行えるものは自治体に任せ、下手に介入するべきではなべきではないのだ。そのために、国と地方の税の比率を見直し、国の力(歳費)を減らすことが必要なのである。そうすることで地方は地域の個別(独自)性を見直していけるようになるのではないだろうか。その個別性を打ち出せない地方自治体は衰えていき、責任を自分たち自らが取ればいいのである。
「劇場法」なるものがいかなるものなのか、その中身を詳しく調べてはいないが、再び、国が地方を牛耳る仕組みを作ろうとしているのではないだろうか。「これをやれば、これだけの分配をする」という、あくまでも地方を国の監視下に置くことを前提とする法律を再び作るものではないのだろうか。
国は、地方のホールに『作る劇場」『見る劇場』『交流施設』などと示唆するべきではない。そういったこともその施設の形態や地域性を含め、地方自治体に任せればいいのである。また金太郎飴が増えるだけだ。
国が経済成長過程にあるならば別かもしれないが、ひたすら経済が落ちるしかない現在においては、国は最低限のやるべきことをやればいいのであって、国の権限を減らしていくことを優先させていくべきなのだ。成長時代から下落していく時代へと考えを変えて、その方向に対処するような政策作りへと移行させていかなければならないのだ。いつまでも経済成長時の価値をそのまま永らようとするのは止めていかなければならない。永らえようとすればするほど、後に負担が圧し掛かってくる。そうやって自民党政権はずっと永らえてきたのである。それをどこかで断ち切らなければならない。現在の民主党の野田政権も自民党のやり方をそのまま踏襲する方向に切り替えた。それでは、何も変わらない。消費税を上げるという考えなど容易に誰でもが思いつく方法である。それしか方策がないとするならば、政治家ではなく素人となんら変わりがない。(まずは、この借金を作ることで私腹を肥やしてきた直接的な団体や個人に責任を問うべきであり、役人個人にも失策の責任を取らすべきなのだ。政治家も身を切ると言うならば、政党助成金など真っ先に廃止すべきなのは言うまでもない。)
国家公務員も議員の定数も減らすこともできない。それはどうしてできないかと言えば、ただ減らすというスローガンを掲げているだけだからである。そのスローガンの前に、公務員の総体として仕事量を減らさなければ、一人あたりの仕事量が増えるだけだからだ。原発などのエネルギー政策についても言えることだが、ここにきて根本的な資本主義自体のあり方を考え直し、方向転換しなければならないということである。つまり、経済成長だけを希求することは諦めるということである。そしてその方向を向くために事業仕分けをして無駄を省くことはもちろんだが、基金の項で言ったが、公務員自身に必要のない仕事を減らしていく(自分たちの既得権益の増大を捨てる)方向に考えを改めさせることが必要なのである。公務員の改革のシステムを生み出ださなければ、対症的処置を延々と繰り返さなければならず、日本も破綻したギリシアと同じ運命になるだろう。公務員の反対を押し切り、今こそ歯止めをかけなければならない。それは、同時に国が行うすべての方向を小さくしていくということである。いわゆる小さな政府のことだ。もちろんそれには、規制緩和だけではなく法律自体を縮小していくことも必要である。必要のない、こと細かい法律を廃止し、改正し、身の丈(歳入)にあった政治をしていくべきなのだ。これまで行ってきた国の政策である地方を管理しようとしてきたあり方を限りなく捨てるということである。
歳費を減らせば景気が悪くなるという人もいるだろうが、これまで約20年そう言って金を際限なくつぎ込んできたのである。それでも景気は一向に良くならないし、借金だけが膨大に膨れ上がってきただけだったのは事実だ。
「劇場法」やこれまでの基金による公務員の拡大も、この国家の借金を肥大させてきたこれまでのやり方とまるで同じだ。「劇場法」に賛同する人たちだけを集め、反対するだろう人たちを排除するやり方も。それは、原子力安全委員に推進派の人しかいなかったように…。
「劇場法」には、当初、照明家や音響家も許可制にするというのが当初の「劇場法」に盛り込まれていた。これまでの国のやり方は公共事業などに費やしてきたこととは別に、今回の「劇場法」と同じく、国が「安全」なるもののために様々な「資格」や「規制」なるものを増やし、結果、天下り役人の雇用の場を増大させられてきたのである。これ以上に資格なるものを増やして、天下りを増やす構造自体を断ち切らなければならない。
たとえば僕もいくつか資格なるものを持っているが、その実態は資格取得のための講義など全く必要もないものばかりだった。受講者の大半は居眠りをしていてその受講が終われば、誰でも資格が取れる。そんなもののためにどうして多くの税金が使わなければならないのだろうか。くだらない指導者の講義のギャラ、面倒な受付作業の要員代、他に会場費やら教材費、宣伝費など…。そしてその受講が終われば、ほとんどの人が何も覚えていないのが現状である。資格も本当に必要なものに限っていくべきなのに、今回も「劇場法」の名のもとに資格制度を拡大しようと試みたものなのだろう。
日本の舞台スタッフは、実力によってある程度成り立つ構造を持ってきた。照明家であると自称しても実力がなければ次に繋がって仕事として成り立ってこないシステムである。もちろん、中には酷い照明家もいるだろう。ただ、それはその酷さを見抜けない劇団側の問題でもあるのだ。舞台というのは、使う側の実力と使われる側の実力とが重なっていくことで優れた舞台が生まれる。それが重要なのだ。それが紙切れ一枚の資格などで測れてしまう制度を、舞台の世界にまで持ち込む必要はない。
どうしてその紙切れが必要になるかといえば、スタッフを使う側にそのスッタッフの実力を見る目がないからである。つまり公共ホールは役所の人間であるため、演劇などの舞台のことなど分かっているはずもなく、その分かってない(分かろうと努力しようとしない)人でも「安心」して使えるように、ということなのである。つまり劇場に資格制度を持ち込む(常識などを破り型破れなスタッフに仕事を回さないように…)という考え方は、天下りを含め国の怠慢なあり方を好しとするものである。破天荒なスタッフを封じ込め、演劇自体の自由さの幅を狭めるものなのである。そうなった場合、俳優や演出家にも資格が必要になってくる。それが欧米的なユニオン制度である。
芸術というものを国の支配から解放し、芸術団体が公共ホールを自分たちの自治と芸術創造の拠点にすることで、公共(社会)性と芸術性を取り戻すことができるに違いない。そうなれば、観客にサービスをすることが芸術ではないことも見えてくるだろうし、芸術自体に力を与え、国や政治に影響を及ぼすことができるようになるかもしれない。地域性と結びついた独自な作品が生まれてくるかもしれない。「劇場法」のまとめである「劇場やホールを心豊かな生活や活力のある社会を構築する『機関』」などと定義する必要もなく、それぞれのホールに独自性を促せばいいのである。国は、何を持って「心豊か」と言っているのであろうか。「活力のある社会の構築」とはまさしく産業としての成立を言っているのであろう。芸術は様々な主張を持ったものがあり、ぶつかり合うからいいのである。「心豊か」にさせない演劇があってもいいし、「活力のある社会の構築」に反対する演劇があってもいい。それをひとつの方向に向かわせ、芸術をそこに押し込めようとする国のあり方は、芸術家を冒涜するものでしかない。また、その一つの方向に向かわせるための「人材育成」など、もっての外であることは言うまでもない。
劇場やホールは、国や自治体、資本に物言う芸術家を守る機関であるべきなのだ。国の景気(経済)を下支えする機関である必要などまったくない。国や資本などから独立することで芸術活動は活性化し、芸術家が自由とは何かを考え始めるのである。「劇場法」をよりいいものにしていこうとするなら、芸術団体に劇場を無条件に容易に手渡すことを可能にし、劇場が地方自治体、資本などからの介入を阻止し、劇場の独立性を高めていくことなのである。
日本の演劇界は世界の中でも特殊だ。関東だけでも約三五〇〇もの劇団があるらしい。これは決してマイナスなことではない。この特殊性こそを生かすべきであって、西欧の猿真似をして劇場主体などに変えていく理由などないのだ。芸術のことなど少しも考えもしない役人に、芸術家は頭を下げ、顔色を伺い屈する必要などないのだ。
今こそ芸術家は、芸術家にホールや劇場の開放を叫ぶべきなのである。そして劇場自体の独立性を確立し、表現の自由を、演劇の自由を、人間の自由を獲得していくべきなのである。