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受賞者の発表
新人賞 遠江愛
オーディエンス賞 幅田彩加

審査員による講評
岡見さえ
志賀信夫
藤原央登

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ダンスがみたい!「新人シリーズ12」審査員による「新人賞」と観客投票による「オーディエンス賞」は下記作品に決定いたしました。おめでとうございます。


新人賞
遠江愛  真っ昼間の独り言



オーディエンス賞
幅田彩加


2枚とも(c)前澤秀登









第13回ダンス評論賞受賞後、2004年より舞踊評の執筆を開始。現在は新書館『ダンスマガジン』、産経新聞等にコンテンポラリーダンスやバレエの公演評、取材記事を執筆している。 舞踊学会会員、日本ダンスフォーラムメンバー。
 

総論
  クラシック、モダン、ポストモダン、コンテンポラリーに演劇的作品から即興まで、ソロもあればグループ作品もあり、多様なスタイルの“ダンス”が集まった見ごたえのある「新人シリーズ」だった。そのなかで、新しさ(驚き)、ハイブリッド性(異要素の組み合わせの巧みさ)、ダンスに対する批評的視座の存在を評価の軸とした。以下に挙げるが、審査会で私が推した3組はこの基準で選んだ。
  ダンスは身体の、振付の芸術だ。身体を使って何かを伝えたい、自分の“思い”を共有したいという動機を創作の出発点にするのは、良くあることだろう。だが、抽象性に富み、豊かな解釈の場を立ち上げる可能性を持つムーヴメントを物語や感情の直截な表現に奉仕させたり、言葉や既存の形式、テクニックを批評的距離なしに作品に用いたりすることは、ダンスに潜在する力を生かし切っていないように感じる。説明的な動きや卓越したテクニックが不在でも、日常的な動きや身体をまったく意外な方法で踊り手が繋ぎ合わせ、異なる要素と組み合わせて見せるとき、突如として“ダンス”が観客の心にざわめきや衝撃や熱を生み、舞台と客席の隔たりを一瞬にして消滅させ、言葉では語り得ない強烈な感覚を共有させることがあるのだから(ピナ・バウシュのタンツテアターや“踊る”ことすらしないジェローム・ベルやグザヴィエ・ルロワの作品のように)。

  以下、推薦した3組についてコメントしたい。

パタコーパス
は、グループ名(『ユビュ王』の作者アルフレッド・ジャリに端を発する前衛芸術のキーワード“パタフィジック”と資料体を意味するコーパスの複合語)がすでに過去の芸術への参照を含み、批評的にダンスに対峙する意志を感じるが、作品にも芸術的野心を見た。『reflex』は舞台の2層構造を使い、上段でスーツ姿のエアバンドが勝手に動き回り、下段で木皮成、喜多真奈美、増沢大輝がストリート系のダンスを踊り続ける。2つの異世界が別個に展開するが、徐々に同期し、最後の仕掛けで2つの世界が繋がる構成で、衣装や3人のダンサー、バンドの統一感など視覚的要素へのこだわりも強く、独自の世界を生んでいた。まだ粗削りな部分もあるが、今後に期待している。

遠江愛
のソロ『真っ昼間の独り言』は、明確な構成と個性的、強い表現が光り、審査員一同の支持を集めた。遠江はクリアな舞踊言語と音楽の知的な処理で注目を集める21世紀ゲバゲバ舞踊団のメンバーでもある。強い色彩のメイクとファッション、ざらりとした感触のソウルミュージックが流れる中、ぎりぎりまで身体を後方に反らしたまま静止。噴き出る汗、震え出す筋肉の変容を観客は目の当たりにし、高まる緊張の時間を踊り手と共に生きる。具体的な何かを参照する動きをせずとも、リアルな身体感覚を観客の内部に呼び覚まし、意識を掴んで離さない仕組みが上手く作られていた。

黒須育海
の『夜光列車』は、1人の女性と黒須を含む4人の男性が踊る。冒頭、パーカーのフードで顔を隠した女性が登場して震え出す。この曖昧模糊としたシーンから転換し、鐘の音が響き続ける彼女の悪夢あるいは妄想の世界の中で、男性4人の剥出しの身体が抑えた速度で不可思議な形象を生みだし、ほどけていく。身体造形の視覚的なインパクト、振付のシンクロとずらしの緻密な計算、普段着の少女と妖しい男たちをパラレルに存在させる構成、無機質さと身体の強い存在感とのアンバランス。すべてが観客を刺激し、開かれた解釈の空間を準備した。

以下、出演順。


1/5

安芸純香 
舞台照明の色彩構成が効果的で、前半の細かい動きと、後半のノイズと拮抗する反復的な動きのコントラストが強い印象を残す。
藤井友美 

シンプルな展開のなかで、強さと繊細さを兼ね備え、音を鋭く捕らえる得難いダンスの資質と、飾らないキャラクターの魅力を見せた。
小谷葉月
 
シンプルモダンな和の雰囲気を感じるダンス。キレの良い動き、後半の強い表情や音響、照明が身体を凌駕する。
t.a.i
 
白い衣装の男女が、ピアノ曲にのせ、女性を地面に触れさせないままにリフトや滑らかなコンタクトなど目を見張る高度なダンスを流麗に見せたデュオ。

1/6

田中美佐子 
暗闇の中、空中の鮮やかな南国の鳥の剥製と踊るソロ。伏す、直立するなどのシンプルな動きから、鳥への変容の儀式を思わせる空気的なダンスに展開。独特の詩情を立ち上げた。
ASMR

グループの4人の女性が、妖精的な可憐さから昭和的エロスまで、女子の欲望し得る自己像をすべて実現して詰め込み、爽快。
中西皓子
 
モダン、ポストモダンやクラシックなど多様なダンスの系譜を感じさせる、すらりと恵まれた身体を制御したクリーンなソロ。

1/16

catatsu
作り込んだメイクと、人形的な振付がインパクトのある3人組。次は独特の世界観に潜むという物語を感じてみたい。
幅田彩加
 
視覚の悦びを堪能させる美しいダンス。何かを追い求めているかのような直線的な進行から、観る者にさまざまな感覚が伝わってくる。
高橋和誠

ダンスの高い技術に裏打ちされた緻密で早い動きと内省的な世界観をシンクロさせ、無の空間にじわりとドラマを生んだ。

1/17

A LA CLAIRE 
サイレント映画のように、動きだけで男女のドラマを語るデュオ。フィジカルな振付、ストイックな構成、個性的な音の使い方が印象に残った。
ほいの
 
音楽、照明に頼らず小道具も僅かで、即興的身体で勝負したソロ。
テテルホテル
 
男性のギターソロと生歌と展開する、少女性の強い女性7人のダンス。白いチュールの衣装を使った冒頭のバレエ・ブラン的な演出、回転を多用した振付、奇数を効果的に使ったフォーメーションが巧み。
杉田亜紀

2メートル四方の光の矩形のなかで展開するソロ。前半は地味なワンピース、後半は黒のレオタード。思わせぶりな仕草のずらしが身体の異物性を徐々に明らかにし、湿ったエロスと解剖学的な不気味さが混在する独自の世界を立ち上げる。上半身と下半身を違う方向に折り曲げ、床を超低速で転がっていく動きが印象的。

1/19

李真由子 
腕、脚と影の効果、舞台空間を大きく使い、長くしなやかな肢体と空間の関係性を探るソロ。
C×C 

白い衣装の女性5人、黒い衣装の女性1人、和装の男性1人の演劇的作品。白(=コンテンポラリーダンス)と黒・和風(=伝統)が戦う。対立の単純さ、具体的な台詞が、ダンスから観客が想像を広げる余地を奪ってしまった。
櫻丞亮翔
 
前半は無音で日本舞踊的な振付で踊り、後半は着物を脱ぎロックでコンテンポラリー的な動きを展開。前半の、着物の構造を利用した造形が面白かった。

1/20

クリタマキ
観客をドキッとさせる冒頭の問いかけの言葉から軽やかなダンスへと移行し、“フェティッシュ”な感覚の観客との共有を試みた。
ゆみたろー
前半と後半のコントラスト、鋭い身体性が、静けさのなかに緊迫した内面のドラマを伝えた。
京極朋彦 
1メートル程の木材を効果的に使ったソロ。無機物を相手に、謎の言語で会話し、絶望し、戯れ、人間存在の不条理を浮かび上がらせた、ミニマルであると同時にスケールの大きな作品であり、照明や音響の使い方も巧みで観客を引き込む確かな力量を感じた。
ナナグラム
出産をテーマにし、マシュマロのような巨大クッション、膨らませては宙に放つゴム風船など、ダンス以外に皮膚感覚に訴えかけるさまざまな仕掛けが用意された女性ソロ。


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批評家、編集者。舞踊、文学、美術などについて『TH叢書』『Danceart』『Dancework』『Invitaion』『図書新聞』などに執筆。舞踊学会員、舞踊批評家協会員世話人。テルプシコール「舞踏新人シリーズ」講評者、ディプラッツ「ダンスがみたい」、アサヒアートスクエア、シアターカイ国際舞台芸術祭などの企画・審査、JTAN会員。批評誌『Corpus』(コルプス)責任編集、メールマガジン「maldoror」発行人 。サイト「舞踏批評」主宰。
著書『舞踏家は語る』(近刊、青弓社) 編著『凛として、花として―舞踊の前衛、邦千谷の世界』、『フランス語で広がる世界』、『講談社類語大辞典』



 

総論
  今回、応募は70以上、出演したのは24組なので、狭き門だったといえる。ちなみにこの3人の審査員(批評家)は事前審査には関わっていない。観客と同じように、舞台だけを見て判断する。過去の公演や情報に影響されることはあるが、僕個人としては、なるべくそれぞれの舞台に新鮮に向き合いたいと思っている。
 というのも、これまでの講評会でも何度か話しており、今回、いみじくも岡見さえさんが同様の発言をされたが、「見たことのない舞台」が見たいからだ。それは奇抜なことをやるという意味ではない。もちろん斬新な発想で驚かせてくれるのもいい。だが、シンプルにバッハで踊っていても、見たことのない、と思えることは、たびたび起こるのだ。今回の舞台でも、そういった瞬間に何度か遭遇した。それは、この新人シリーズに関わっていて、よかったと思える瞬間だ。
 今回の舞台で目にとまったのは、身長の高い女性のソロだ。バレエやダンスでは必ずしも利点にならないが、それを生かしたソロを展開しようとした。全体にソロダンスは自分を探り、身体に問うという意識が感じられるものが多かった。群舞やチームの作品には、「見せる」ことを意識しているものが多かったように思えた。そのためには、「見る」、「見られる」、「見せる」ことについて、しっかりと考えてみる必要があるだろう。それは舞台表現の根底となることだと思う。
 今回の舞台のなかで、自らに負荷をかけ続けた遠江愛と、横になって踊ることに徹底した幅田彩加が、それぞれ賞を得たのは妥当だった。一つのこだわりをどこまで自分に徹底的に課すかということが、批評家、オーディエンス、どちらも惹きつけたのだ。ほかにも、田中美沙子と杉田亜紀の挑戦、黒須育海の男性群の動き、クリタマキのフェティッシュ、ナナグラムのオブジェとの絡みを特に評価したい。
 また日本舞踊家のソロ、日舞を入れた群舞作品、エアバンドとのコラボレーションなど、新たな挑戦を見ることができた。舞踏がなかったのは少々寂しいが、ソロダンサーたちは舞踏に近い身体への意識を見せる者もあり、それも含めて、現在のコンテンポラリーダンスの一端、あるいは先端というか、新たな「芽」がここにあるといってもいい。
 講評会の後に、踊った方々と話し合う機会も貴重だった。そして、たびたび挑戦を行う人・グループもある。それぞれの方たちが、ほかの舞台を含めて、どう変わるか、今後も楽しみにしている。

1/5

安芸純香
オレンジの衣装で、場面場面を照明で効果的に切り替えて、身体を浮かび上がらせようとしていた。とても美しくまとまっていた。ただ、その表現が、身体の内実から出てくるもののようには見えなかったのが少し残念だ。また、これは石井則仁の舞台づくりの影響があるように思えた。
藤井友美
リュックを背負って倒れるところから、いまのコンテンポラリーダンスのソロのモードを示しており、テクニックや表現も申し分なく楽しめた。どちらかというと、コンテンポラリーの典型とも思えてしまい、「見たことがない」という鮮度は感じられないように思えた
小谷葉月
長身という身体性を生かし、冒頭顔を見せない部分、さらに手だけの表現など、それぞれの景と展開が見事だった。最後にノイズとストロボライトの中でじっと動かないのも、とても好ましいのだが、若干意図的という印象が残ったかもしれない。
t.a.i.
大きい男性と小さい女性の組合せで、一度女性が男性の足の上に乗ってからは、床につかずに、絡んだまま踊り続けるという構成と展開は、目が離せない。そして2人の感覚的なつながりもよく感じられる。ただ、その一種アクロバティックな技術のみが、強く残った印象で、なぜこのように踊るのか、男女というテーマにすぎないのか、という問いが残った。

1/6

田中美沙子
下手中央に吊るしたインコのオブジェと無関係に、踊るというか、顔を隠して動きうごめくところから、徐々に自分の世界を構築しようとする。所属するBATIK、つまり黒田育世由来の動きを極力廃した潔さはすごい。ただ、この挑戦を人にしっかり伝えるのは、なかなか難しいとも思った。
遠江愛
反り返ったポーズを維持し続けながら、同じ動き、リフレインから踊りを導き出すが、最初のポーズの肉体的負荷から踊りは徐々に高まっていき、そのテクニックと身体そのものが合わせて観客に激しく伝わった。
ASMR
照明を丁寧に使い、ダンサーたちの踊りを丁寧に見せて、展開もおもしろく、新鮮な場面もある。ただ、全体としては、一つの枠に収まった印象もある。
パタコーパス
舞台の上で、バンドがエアバンド(演奏の真似だけ)する一方、下の舞台ではしっかりとストリート系の踊りが展開し、その二つが混じりあう。最後は、中央で女性がバレエ、黒鳥のグランフェッテアントゥールナン(32回転)と同じ踊りを見えて、ここはバレエ関係者も大拍手という収め方だった。。

1/16

中西皓子
黒にカラフルなパンツの姿で踊り、踊りはしっかりと安定しているのが、衣装の遊びが、ダンスの本質的な遊びにならなかった。例えば、コケットリーを出すというのもいいのではないだろうか。
catatsu
ポップな衣装の男女人が当初動かないポーズから、次第に動き、絡んでいく。ダンス的動きを排除して、かつマイムでもない微妙な動きはちょっとおもしろい。ただ同じ感触が続いて単調になるので、違う動きをどう加えるかが課題だろう。中盤からのヴォイスとピアノの音もパパタラフマラのような印象をもたらした。
幅田彩加
照明を抑えて床の上だけで踊る。ともかくそれが圧倒的に素晴らしい。非常なテクニックがあるのが、回転などの足の動きやそのシャープさに見てとれる。次々繰り出される動きは飽きさせないが、最後も同様の動きになるので、全体としては平板な印象を持った人もいるかもしれない。中盤に動かない場面など、破綻をつくるといいのではないか。
高橋和誠
逆光などの照明を見事に使い、ヒップホップ系ロボットダンスの動きをベースに、ねっとりした動きを作りだす。中盤のヴォイスはあまり必要なく、全体としては、やりたいことを盛り込みすぎだが、自分の身体性を伝えるすべに長けているため、期待できる。

1/17

A LA CLAIRE
男女二人で「ずらし」をコンセプトにした、コンタクトインプロとコンテンポラリーという感覚の作品。触れない、離れたところといったイメージづくりが面白い。ただ、音との関係が合いすぎて、意図的すぎるようにも感じられた。
ほいの
一人で声を出したり動いたりしているが、自己完結しすぎている。高校の昼休みに受けた人がそのまま戯れているという感じで、究極の自慰ともいえ、これが敢えて出てくることが、この新人シリーズの凄さかもしれない。
テテルホテル
上手上にいる生ギター演奏で、チュチュ系バレエドレスの女子7人が踊りまくる。黒田育世と松本じろ、Batikへのオマージュ作品と見えるが、冒頭のギターがいま一つ。歌声はいいのだが、松本ジロは中東エスニックが入った音調で見せるために、Batikや黒田の旋回が意味を持っていたのだが、素朴なフォークになると、ちょっと違う。
杉田亜紀
舞台中央に2m×1mくらいの長方形の光があたり、主にその中で踊る。四隅にマイクを置き体が床に擦れる音などを増幅して流すのだが、極力自然な音と聞こえるように設定してある。そこで主に這いながら、両足を揃えて上に上げて両手で抑えて、腰のみで立っている形で、終わっていく。シンプルすぎる構造と音との関係のストイシズムは極まりすぎて、観客にとどかないかもしれない。

1/19

李真由子
長身を生かした丁寧なダンスで、見せる演出も十分ではあって美しかった。ただインパクトが一つ弱いようにも思った。前半の密度から後半も同様の感じで、もう少し変化がほしい。
C×C
群舞と銃を撃つ女子と日舞という組合せは、混沌というよりも意味のない戯れととれた。これで「受け」を狙うとすれば、それはちょっと無理があるし、それ以上のものを生み出すには、もっと練り込まないと難しい。異種混交の困難さを顕著に示したともいえる。
櫻丞亮翔
日舞の前半とコンテンポラリー的な後半に分かれているが、ずっと後半も和服で踊ればインパクトもあり、「踊れない踊り」も出てきたのではないか。「和服は拘束具だ」といった劇団主宰者がいるが、その拘束を生かした和服のままの激しいコンテンポラリーは、おそらく「見たことのない」ものになるだろう。
黒須育海
裸の男性群の動きが、実に綿密かつ面白く、「見たことのない」世界に入りかけている。さらにそこに意味のない一人女子の関わり方が微妙で、人によっては、かなり「はまる」感覚だろう。女子がいる意味はないようなところが面白い。

1/20

クリタマキ
「人にはだれでもフェチがある」といって、親指の付け根をかじることとともに、ミニレコードプレーヤーの音から、次第に踊りになっていくところは、巧みかつ惹きつける。その冒頭はいいのだが、展開していくと、最初のインパクトが薄れたままなので、さらに次の一手がほしい。
ゆみたろー
冒頭から腰を落としてじっとりと動くので、それはストイックでいい。ただ、ストリート的なのか、むしろ体操的で、そこから踊りらしさが立ちあがらないように思えた。
京極朋彦
丸太を1本運んできて、その周囲を踊る。技術とコンセプトともあって巧みに見せるが、丸太がオブジェのままだった。もっと丸太に対する愛情というか、モノではないという意識で接すれば、リアリティが増すだろう。ただ、「見たことのない」という部分が垣間見えて、流石と思った。
ナナグラム
白いねっとりとした輪の中で踊る動きは、独自の雰囲気を立ち上げて、面白い。その輪自体が奇妙な感触というか、触感が伝わることに惹かれた。出産と胎児などをイメージさせるのはシンプルすぎるが、ちゃんと語りでそれを裏手にとろうとする。風船はすべてコンドームのほうがふさわしいだろうが、最後の光が変わる風船はしんみりさせ、かつ美しかった。

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1983年大阪府出身。劇評ブログ『現在形の批評』主宰。演劇批評誌『シアターアーツ』(晩成書房)の編集&小劇場時評を連載。国際演劇評論家協会(AICT)日本センター会員。

 

演劇とダンスの交叉点と分岐点
ダンスを観るという態度について

 ダンスを評する際にまず言及すべきなのは、舞台上に在るダンサーの身体であるということ。「ダンスが見たい! 新人シリーズ12」の審査を通して、当然といって良い事柄に改めて突き当たった。日常、演劇を中心に観ている私にとって、ダンサーの身体を見つめることは普段の眼差しとは異なるチャンネルを要するものであった。演劇はとかく、戯曲の台詞が紡ぎだす物語に注視しがちだ。明確な物語がない実験/前衛劇であれば、今度は演出家が用意したコンセプトを追いがちになる。ここで断っておくと、物語やコンセプトに重点を置いて観るといっても、それは創り手から観客へと上意下達に伝達されるあらすじの享受を意味しない。劇作家や演出家が現代をいかように読んでいるのか。加えて、把握した世界を演劇という芸術表現でもってどのように対応しうると考えているのか。現状変革への可能性を観たいのだ。つまり、ある物語やコンセプトという結果へ至らしめるまでの、創作の根拠=思想にこそ触れたいと思う。観客に気付きを与えることがあるとすれば、思想の提示に他ならない。あるいは、創り手の思想の甘さや決定的な齟齬を抱き、否定的な意見を持つこともあろう。いずれにせよ、舞台芸術の土台に、創り手の思想がどれだけ仮託されているのか。それがあってはじめて、創り手と観客とのコミュニケーションが始まる。それをもたらす場が劇空間なのだ。物語やコンセプトに重きを置きがちになるのは、対話のとっかかりとして踏み込みやすいからである。
  もちろん、現代演劇における変革の歴史の末に見出された、「演劇は役者のもの」というひとつのテーゼは無視してならないものだ。作品によっては、役者を語ることで作品を十全に評することができる舞台もある。その場合、役者の存在価値は演技の巧緻のレベルに留まってはいない。劇作家や演出家の世界観を補うばかりか、増幅し乗り越えるほどの存在感を身体で示し得ている時に限られる。その時、役者の身体はいかに言葉を伝えるかという卑近な役割から離れる。身体が言葉を発し、その軌跡が詩となる自立した表現者へと変貌するのだ。
  一方ダンスは、肉体でもって舞台上に言葉を書き付けることをすでに常に背負っている。ここが演劇との差異でもある。演劇では劇作や演出だけに言及することはできる。しかしダンスではそれに近似的な振付に言及するにせよ、それらが積み重なって出来する世界観=コンセプトを追うにしても、それだけを身体から切り離して記述することはできない。身体の軌跡と共に振付やコンセプトがある以上、それらについて述べることはすなわちダンサーを語ることにしかならないのだ。
  本企画に参加した当初、私は演劇を観る時と同じ格好で望んでいた。すなわち、物語や演出が形成する世界観=コンセプトから透けて見える創り手の思想の深さを負っていた。だが、本数を重ねるごとに、ダンサーの身体が常にすでにそれらを担っていること。それゆえに身体とコンセプトを切り離して考えることができないことを痛感させられた。したがって、当初の私が持っていた態度は固持できるものではなくなった。観るべきなのは、世界観=コンセプトをダンサーの身体から直接感じ取るり、読み解くこと。そこから、なぜダンスを志向しているのかという表現欲求の源泉を探るようにした。演劇を観る際の態度からの変節。これこそ、本企画に参加して私が発見したものであった。
  そんなことは自明であるかもしれない。とはいえ、「ポストドラマ」という名において、舞台芸術のボーダーレス化が進みつつあるのが現状である。パフォーマーと名を変えた役者やダンサーが紡ぎだすものは、パフォーマンスと称される。ジャンルの越境が前提となり、もはや「何でもあり」なアート全盛の中においては、改めて演劇とダンスの差異を確認すること必要があるだろう。そもそも自身が依拠する分野を再検証するために、コラボレーションやジャンルの越境が要請されるものではないのか。そこで突き当たる齟齬と同質性を確認し、それを共同作業によって互いに乗り越えようとする。演劇やダンスの枠組みを拡張する高次の「舞台芸術」を見出すには、各ジャンルに内在する限界を一度受容する態度からしか生まれないはずだ。もともとの土台である演劇やダンスへの内省が無視され、コラボレーションが無自覚に要請された作品は、土台なき砂上の楼閣に等しいものでしかないのだ。
  17日(金)に登場した ほいの『ピキニッコ』を評価できなかったのは、「何でもあり」なパフォーマンスの一種としか映らなかったからだ。ほしのは、言葉以前の発語とだらけた身体で、観客を挑発し肩透かしを食わせる態度を貫いた。それでいて、時折オペラ風歌唱やホーミーを披露する。それを支えるのは通りが良いハリのある声だ。でたらめさと確かな技術に根ざしていると思わせる声。両者の振れ幅がこの作品の特徴であることは伝わる。しかし、それは仄見えただけで留まり、その方法が可能にする表現を見せるまでには至らなかった。むしろ技術的な巧緻をこらした歌やホーミーを強調し、もっと高度な技を見せるべきではないか。そうすれば、ほいのが体現しうる人間的な幅を屹立させることできる。魅力的な人間として舞台に存在することになっただろう。本品では、ただヘンなことをする次元で終わってしまった。終始客席の空気が重かったのはそれ故である。もし、ほいのが振幅の大きさを身体で示すことができたなら、客席は一気に注視させられ、空気は流動性的になったはずだ。 
  一本先走って述べてしまったが、いくつかの作品について以下で言及してゆく。特にソロ作品は、演劇の見方から変節を余儀なくされた中で、特筆しておきたいと思わせた作品になることだろう。

ソロ作品―若手女性演劇人の作品にはない野生的な身体性

 ダンサーの身体から滲み出るコンセプトや表現欲求を体感する。この態度変節を促したのは、7日(火)に出演した遠江愛『真っ昼間の独り事』だった。ここでの遠江の魅力は、観客の視線を自らの身体に引き込むという意味での良さではない。むしろ、遠江が客席を食ってしまうほどの肉食的な野生を発揮したことによる。舞台が始まってすぐ、スクワットの体勢になった遠江は、ゆっくりと前かがみの姿勢から後ろいっぱいに反る体勢をとる。身体を起こす際は、体内の気を吐き出すように大きく呼吸を行いながら、腕でそれを胸の前で集める仕草を行う。この動作をゆっくりとしたスピードで繰り返す。時には、キッと目を見開いて観客席を見返す。本作でもっとも印象的なのは、この一連の動作が放つ野獣的な力だ。スクワットの体勢を維持しながらの動作は当然、身体に大きな負荷をかける。その負荷をあえて累乗的に蓄積させるような動作と、耐える身体。動作が執拗に繰り返される内に、背中にはじんわりと玉の汗が浮かぶ。そして、筋肉を一筋ずつ動かすことができるのでは、と思うくらい背中がウネウネと動く。観客をはっきりと見返す視線とあいまって、遠江の身体からは肉感的なフェロモンが匂い立っているように感じた。
  演者は必然的に多くの観客の視線に晒される。そのことによって、観客に見せるのではなく、視線の欲望に消費されているにすぎない者がままいる。遠江はそこへ落ち込むことを回避し、能動的に自身の魅力に観客の視線を向けさせた。一対多の状況の中、視線の暴力に打ち負けまいとする野獣の如きパワーで客の欲望をねじ伏せたのだ。その力の源泉は、身一つで何ができるのかを真摯に問うた結果、生まれたものだろう。このプロセスを経て見出されたものこそ、他の者には還元できない個性と言うのだ。私は、遠江の肉食的な身体が放つ個性に心動かされてしまった。
  若い女性演劇作家は、自身が抱える自意識を開陳し、他者からの承認を得ようとする作風が目立つ。そのようなナイーブな作風が横溢する中、遠江の身体の強さはやはり特異なものだ。遠江を新人賞に推したのは、彼女の身体を上書きする存在に出会えなかったからである。では、他の女性ダンサーの身体はいかなるものだったのか。おおむね、若手女性演劇人と変わらない領域で留まっていた。端的な例は、20日(月)のナナグラム『セミ(蝉)』。林七重は、美しく鍛えられた細身のボディビルダーのような身体である。動きのキレや重心の安定した高速のスピンは、鍛錬された肉体のたまものだろう。とりわけ、白いドーナツ状のクッションにくるまっての動きは、それ自体で強い印象を残す。やがて、このクッションは女性を優しく守る繭であり胎内の謂いであることが了解される。数年の幼虫時代を経てようやく地上へ出ても、短い成虫としての命を辿るしかない蝉。そんな蝉に、現実世界の苛烈な場面に直面する女性性が仮託されているかのような仕上がりだった。
膨らませきれない風船と抱えようとする風船が割れるあたりには、成熟した大人=母になりきれない堕胎のメタファーを感じさせる。それが、長くて1ヶ月と言われる蝉の儚さに重なる。だからこそ、
  地上へと飛び出た一瞬間の生命力に溢れる身体の軌跡は瑞々しく映る。ラスト、林は再びクッションに戻る。そこで彼女が抱えた風船は七色に発光する。個別の蝉は死んだとしても、新たな生命の胎動は今もどこかで始まっている。脈々と受け渡される種の命の称揚。
  この過程の描写はとても美しいイメージを与える。が問題は、イメージから何が透けて見えるかだ。蝉の一生を借りて、胎内から生まれ出た少女が母になりきれず再度子宮へと戻るヒロイズムに陥ってはいないか。加えて、それでも命が紡がれてゆくというある種の楽観的な諦念へ落ち込むことで、根本的な問題を先送りにしてはいないか。問われるべきは、個人に収斂される儚い女性の物語ではなく、少なくとも同世代の女性の生き難さを見つめ、この時代における生き方とは何かを探ることであろう。明確な答えは見出せなくとも、それを示そうとする気概が見えれば、表現の射程はかなり広がったことだろう。本作は子供と大人の間でゆり動く、ナイーブな私性を発露することだけで終わっているのだ。その点において、負荷を受容し客席へと突き返す強度を示した遠江とは正反対の作品であった。
  その他、気になった女性ダンサーの作品に言及していこう。遠江に次いで印象的だったのは、19日(日)の李真由子『sakda』。高身長で舞台栄えのする彼女は、ダンスが成立する条件を問うた。舞台上手と下手面に据えた照明によって、明暗が区画された空間。照明が放つ光に誘惑され、舞台面へと引き寄せられる。そのテンションが高まった時、空間が地明かりになる。そこで我に返り、自分が何をしていたのか、そして何をすれば良いか戸惑うしぐさを見せる。舞台を装飾する音響・照明は、ダンサーを引き立てる麻薬のようなものだ。それがあれば、なるほど舞台芸術らしくは見える。しかし、空間にコントラストをつけ、ダンサーの身体を際立たせる照明がなくなればどうなるか。ごまかしは通用せず、身ひとつで何ができるのかを見つめねばならない状況に追いやられてしまう。私性に軸がある点ではナナグラムと同じだが、そこに留まらない、ダンス一般を視野に含め再考しようとする意思が感じられた。
  17日(金)に登場した杉田亜紀『知覚』。杉田は昨年の本企画にも出演。強い印象を残した。今年の作品も、志向するところは昨年に通じるものだった。空間を四角に区切る照明。四つの頂点にマイクが据えられている。杉田はその中心に陣取り、自身の身体が発する様々な音を増幅させ、観客に伝える。激しい動きはない。ほぼ、区画されたエリア内で留まりながら、微細に身体を動かす。その姿からは、ある種の余裕すら感じさせる。どのようにすれば自身の身体に注目を集めさせることができるか。杉田は自身の身体をよく理解していると思わされる。惜しむ点は、マイクを使用する趣向が昨年以上の効果を発揮しなかったことだ。確かに、口腔内のくちゃくちゃとした音をマイクで拾う場面では、生理感覚に直截訴えかけてくるものがある。しかし前回は、太田省吾の沈黙劇のように、数メートルをたっぷり時間をかけて移動することとセットになっていた。つまり、作品全体を通し、身体を逐次探求する意図が感じられたのだ。マイクを使った趣向が身体を解剖的に確認すること一体となっていたからこそ、手法に必然性を感じさせたし、それがまた杉田亜紀というダンサーの魅力へとつながっていた。今年の作品には、そういった核に触れる様を見せることがなかった。
   6日(月)の安芸純香『well』にも触れておく。小柄な安芸が創る作品は、非常にスタティックな動きを基調にしたものだった。動きがほぼ天井からのピンスポットの中で終始し、大きく舞台を使わない。動きも手足が中心である。この静けさは、ラストで身体全体を激しく動かせるシーンを強調させるものだったのだろうか。工事現場を思わせるノイズ音が流れる中、執拗に同じ振付を激しく繰り返す。それを見つめる内に、インフラを整え人々の生活環境を整える工事の音は、資本主義の開発主義の謂いに聞こえてくる。その中で同じ動きを繰り返す安芸は、ベルトコンベアー式に単調作業をひたすら繰り返す者ということになろうか。するとこの光景は、搾取され使い捨てにされる、不遇な就労環境に置かれた若者の存在へと集約された。機械的に同じ作業を繰り返す単純労働には、もはや主体性はない。確かに、社会システムに動かされているという実感はよく分かる。それが、自動人形のように動く安芸の身体が喚起するイメージだ。そのことはまた、ダンス=表現の主体性はどこに、そして本当にあるのかということにまで直結する問題だ。現代社会に通じる批評的な在り処が垣間見えたのは、唯一安芸の作品だった。自身の生活実感の中から表現と社会を思考する作品作りを、今後も続けてほしいと願う。
  変わって、男性ダンサーで強い印象を残したのは、20日(月)の京極朋彦『幽霊の技法』であった。京極自身が運んできた四角柱の木との関係性を巡る作品だ。舞台中央にドンと置かれた、100数十センチあるかと思われる木。照明の当たる角度によって、その影の方向と大きさが変化する。そのことに応じて、寝転がった京極が木の周囲を転がりながら回る。ここでの木と身体の関係性は、日時計を思わせる。日時計は太陽がなければ成立しない。照明の光を太陽とするなら、ここに出来する風景は劇空間をはるかに越えた広大なフィールドを喚起させる。なによりも、舞台中央の木の存在感は特筆すべきだ。サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』の一本の木、あるいは別役実作品に登場する電信柱のような象徴性を帯びる。書割のような舞台美術は、水平軸のベクトルしか持たない。だが、舞台中心に置かれた一本の木は垂直軸のベクトルを放ちながら、そこを基点として同心円状にどこまでも広がる力の向きを及ぼす。これは別役がベケット作品を分析した際の論述であるが、京極はこのような演劇史を踏まえ、舞台空間に垂直と水平の無限の広がりをもたらしたのだ。
  舞台後半は、京極が木に触れないようにさまざまなアクションを起こす。前半は木と一緒に何ができるかという意味で一体的だったのに対し、ここではいかに対峙し拮抗するかが模索される。しかし、木はただそこにあるだけなのに明確な存在感を示す。京極がいくらアプローチしても、当然ながら一切反応しない。かえって京極が懸命にアプローチすればするほど、ますます木の存在感が増してゆくという逆説が生まれる。生命がないのに明確にそこにあるということ。このような木と京極との、静と動の対比的な関係性が興味深かった。これは表現全般、例えばフィクショナルな役柄を立ち上げようとする役者の存在、そなわち演技論にも通じる。表現者が舞台上に立つとは一体どういうことなのか。舞台に誰かが登場すれば、演者も観客もそこに居ると思ってしまう。ところがそれは単なる思い込みにすぎないのではないか。木の存在は、舞台上における生身の身体の存在理由を根底から問い直す。京極による物質との関係性を巡る試行は、今後も続けられてしかるべきだ。

群舞―用いられたコンセプトの根拠は何だったのか

 では、グループ作品はどうだったのか。群舞だとやはりコンセプトが前景化してくる。その点において最も期待感を煽られたのが、19日(日)のC×C『冥土で語ってろ』。「構成・演出」がクレジットされていることから分かるように、演劇的な作品である。三角形の隊列となったダンサーが、魂と身体を高潔なものにし、極楽へ至ろうとするならば舞踊をしなさい、という旨の説法を唱える。ダンス、特に土着的なイメージを伴う舞踏には、確かに宗教性を抱きがちだ。そのことをダンサー自らがあえて強調する。では、彼らはダンスというものをいかように思考しているのか。期待感とは、自らにも突きつけた高いハードルへ挑もうとする意志が感じられたからである。「劇内容」は、日本舞踊家によるコンテンポラリーダンサーの殺害。その実務を、同じ領域で活動する一人のコンテンポラリーダンサーが担う。彼女は日本舞踊家にスパイとして送り込まれたのだ。伝統芸能によるコンテンポラリーアートの否定。新しいものを認めない、権威主義がはびこる狭域な世界。世俗と隔絶し内向きになった業界をどのように描き、突破しようと考えているのか。そのことが描かれると思わせた。が結局、日本舞踊とコンテンポラリーダンスを一つの舞台に併置するための手段としての「物語」でしかなかった。きれいに揃い、動ける女性ダンサーたちの群舞は見所ではあったが、演劇へのジャンル越境としは踏み込みが足りなかった。
  16日(木)catatu『カルミア』も、ドラマトゥルクに鮭スペアレを主宰する中込遊里を迎えた物語性の強い作品。ハンディキャップを背負ったような、言語未満の発語と不自由な動きのダンサー。彼女たちは互いに邂逅することで変化が起きる。枷が外れたように雄弁に言葉を語り、動きが大きく開放されるからだ。この開放するシーンに、他者との出会いと喜びが希望として込められている。こちらについても、作品の内容をダンサーの動きと魅力に十分表象させきることができれば、より説得力を持ったのではと思わされた。
  さらに、7日(火)のパタコーパス『reflex(仮)』に出演した木皮成。彼も、大池容子率いるうさぎストライプのダンストゥルクを担当し、演劇の領域でも活動している。『reflex(仮)』では、俳優に振付けるダンスとは違い、ヒップホップを基調としたものだった。この作品で目を惹くのは、二層構造となった趣向だろう。舞台後景の壇上に横一列で並んだタキシード姿の男たち。彼らは口パクで歌唱とエア楽器演奏を行う。その下でダンサーが踊る。まったく別々の光景が同時に行なわれるのだ。それぞれの光景を単独で注目しても、さして有意義なパフォーマンスに見えてこない。さすれば、両者がどういった形で関係し合うのかに焦点が定まる。
  その兆しはラスト近く、3人の内、2人のダンサーの背中に音響のプラグが差し込まれる点に尽きるだろう。プラグが繋がれたことで、壇上とのつながりが示唆される。では、そのつながりとは一体何なのか。安芸のラストシーンのように、壇上の男たちがダンサーを操っているということなのか。ダンスが生まれる主体性、近代的な個人を批評しようとしているのか。はたまた、音響設備がマザーコンピューターの謂いだと考えよう。すると空間のパフォーマンス自体が、得たいの知れないシステムに支配されていると見ることも可能だ。となれば、その中で女性ダンサーにだけプラグがつながっていないのはどういうことなのか? 例えば、二画面テレビで偶然同じCMが流れれば興味を持つ。果たして、本作はそういった意味での面白さだけで片付けて良いのか。当然、まったくつながりがなくても良いという意見もあろう。その場合でも、個別のパフォーマンスから滲み出てくる創作の根拠が共鳴合っているという作り方もできるはずだ。そのようにして高次へと作品全体を昇華させていたならば評価できる。しかし、そのような企みの萌芽も見えてこなかった。
  二層を単純につなげるかつなげないかの話ではない。別々のものを同時に存在させたことは、それ相応の必然性があってしかるべきだということだ。そこにこそ、単なる新奇さや深淵さのほのめかしを越える、創り手独自の芸術にかけるこだわりが宿る。そこに触れた時、観客との有機的なコミュニケーションが可能になるのだ。創り手には、その辺のことにもっと自覚的であってほしいと感じた。
  以上のように、コンセプトが肥大化するグループ作品では、それによって世界をどのように考え表現として対応しようとしているのかを見てしまう。そのような観方でなく、身体の魅力を感じさs田のは、17日(金)のテテルホテル『ユートピア』だ。一人ひとりが携行した、小さな懐中電灯の光だけでの動きが印象的。激しい動きのほとんどは、中心的存在である一人のダンサーが担う。同じ衣装をまとった他の女性ダンサーは、その彼女の周りを舞う。鏡迷路に入り込んだ女性の内面世界を発露しているような偏狭さはある。ユニゾンも不ぞろいだ。途中、効果的に使われた懐中電灯を蹴飛ばしたり、ほどけ落ちたリボンに滑るダンサーがいたりと、なるほど未成熟さを感じさせる。けれど、そうまでがむしゃらにならざるを得ない、無垢で懸命な踊りへの意志が伝わってくる。繊細でナイーブな世界を突き破ろうとする力強さを、まさに身体で表現したのだ。その点さえ感得できれば、むしろ不備はその間で激しく揺れ動くアンバランスな魅力へ変換する。
  24組全体を俯瞰して私に見えた一本の軸は、ナナグラムを中間にして、両側に遠江愛とナナグラムを置くというものだ。そこから見えてくるのは、少女特有の心性に留まる領域(ナナグラム)を乗り越えようと煩悶/懊悩(テテルホテル)。その果てに、他者を飲み込んでしまうほどの強度(遠江愛)を獲得するに至ったというグラデーションである。このプロセス自体、同世代の人間として非常に共感を覚える。とまれ、芸術は私の問題から入らざるを得ない。そこを出発点に思索を続ける中で、固定的だと思われた「私」そのものの問いが要請される。「私」を対象化するのは他者や社会からの照り返しの中でしか見極められない。その点に十分自覚的であり、また客席への侵犯という意味で介入してきたのが遠江愛だった。そんな彼女に託してみたい、私はそう思ったのである。




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