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受賞者の発表
新人賞
オーディエンス賞

審査員による講評
岡見さえ
志賀信夫
藤原央登

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受賞者の発表
ダンスがみたい!「新人シリーズ13」審査員による「新人賞」と観客投票による「オーディエンス賞」は下記作品に決定いたしました。おめでとうございます。お二人は今年夏に行われる「ダンスがみたい!17」で受賞公演を行います。これもご期待ください。

新人賞
黒須育海
「二つの皿」



オーディエンス賞
杉田亜紀「無印」






審査員による講評



第13回ダンス評論賞受賞後、2004年より舞踊評の執筆を開始。現在は新書館『ダンスマガジン』、産経新聞等にコンテンポラリーダンスやバレエの公演評、取材記事を執筆している。 舞踊学会会員、日本ダンスフォーラムメンバー。
 

総論
  今回の新人シリーズは、モダン、コンテンポラリー、舞踏と多様な傾向の32組が出場した。それぞれダンスの質も高く、構成も練られており、荒削りな実験的作品よりも良くまとまった作品が多かった。演劇やサーカスなど他の舞台芸術とは異なり、ダンスを見る喜びは、物語や台詞の論理性とは無関係に脳裏に焼き付いてしまう衝撃的に美しい瞬間に出会うこと、身体に潜む異質性の発見から世界に対する新たな視点を獲得することだと考えている。衣装や道具、物語性は作品世界の構築に必要な道具だが、ダンスの核にあるのはダンサーの身体とムーブメントであることを願っている。 審査は、身体性、構成、新しさ、視覚性の4点に注目して行った。以下、審査会で推薦した3作品、続いて出演順に述べる。

黒須育海
昨年の出品作「夜光列車」も審査会で高い評価を得たが、複数の男性と1人の女性という出演者、音楽と緊密に結びついた振付、暗闇に展開するフィジカルかつ象徴性に富むムーブメントという前作で試みた諸要素をさらに突き詰め、発展させ、成功した。”二つの皿”と共に食卓に向かう男女の姿から発想したという作品は、間歇的なピアノの音から、ボサノヴァ、沈黙を効果的に使い、シンプルな黒のレオタードの女性と男性4人が、男性同士あるいは男性と女性、男女と他の男性たちの対立、融合の多様な関係性を、時にスピーディに時にねっとりと見せ、家庭の営みから遥か遠く、叙事詩的な愛や憎しみの情景を立ち上げた。もう一度見たいと思わせる作品。

石井則仁
客席照明を付けたまま観客を睨みつける挑発的な登場から、蛍光灯の光るシンプルな舞台が身体、ムーヴメントを引き立て 、場面転換ごとに強度のあるダンスが展開する見応えがあるソロ。作品ノートの「現代社会の異常さ」というコンセプトは伝わりづらかったが、コンセプトを意識せずに見てもダンス作品として純粋に美しく成立し、強い存在感を湛えた作品だった。

杉田亜紀
昨年に引き続き、身体のいびつさに宿る美やエロスを静かに浮かび上がらせる作風はそのままに、今回の作品は音響、舞台、衣装の効果的な転換によって、空間の拡張と時間の経過を観客をより明確に共有し、作品世界に引き込むことに成功していた。無音のまま、しゃがんだ状態から、ごく低速の四肢や顔の動きを使って身体の異質性を立ち上げる前半、ノスタルジックな音楽にのせて暗転を使ったパラパラ漫画風の退場シーン、続いて無数のテニスボールが舞台に散らばる舞台でテニス少女の姿で挑発的に観客と向き合う後半。昭和的な懐かしさと時間の枠を外れた違和感を同時に漂わせる彼女ならではの、いくつもの印象的な情景を創り上げた。

1/5

中村理
良く効く身体が現実と異空間のメディウムとして機能し、白昼夢に観客を誘う。 黒電話など小道具と音響を上手く使い、どこかノスタルジックな物語性豊かなソロ。


いそ+
家に留まる女性、外の世界に向かう男性の確執、それを見つめる掃除人がそれぞれの内面世界を示すダンスを展開する。尺八の演奏も効果的だったが、男女の類型化が作品解釈の可能性を狭めたように感じられた。




羽太結子
朗読やサティのピアノ、小さな動きからジワジワと展開する前半と人形振りも含め奇妙な動きを見せる後半の対比のなかに、出産にまつわる女性の身体、精神を語る内的なソロ。




大東京舞踊団
パンク的なメイクと衣装の男性9人が、ロックにのせてアナーキーにエネルギッシュにユニゾンで踊り続ける。ビジュアルも面白く、個人的には好きな団体だが、蕩尽するエネルギーを見せるのであれば、残酷なまでの反復とその意志的な断絶を見せるヤン・ファーブルのダダ的作品、物語性の排除と音楽と身体動作の追求を志向するのであれば、ポストモダンダンス以降のダンスの流れを参照すると、今後の展開のヒントになるだろう。




1/6

GRILLED BITCH CONTROL
2人のライバル関係が逆転、崩壊する過程を描く、 女性デュオによるコント的な笑いを取り入れた作品。


藤井友美
照明1個で、壁にぶら下がる。床に伏してゆっくり動く。しゃがんで手を前に出す。飛ぶ、床を叩く。えも言われぬストイックな雰囲気のなか、髪の毛で顔を隠し、声もあげず、性別すら分からないまま踊り続ける。タイトルの「顔」を徹底的に隠すことで、作品の世界を広げた、 強く、潔く、独創的なソロ。




田路紅瑠美
ブルーの色調で統一した衣装で並び、前進して片脚を一斉に上げる印象的なユニゾンから、高いテクニックを持つ5人の女性ダンサーが都会的なダンスを連鎖させて行く。安定感のある作品だが、贅沢を言えば枠をはみ出て観客を驚かせ、引きつける何かが欲しい。




モモ
お揃いの笑顔のかわいらしさアピールと、その裏に隠した2人の関係性の落差を見せる女性デュオ。キャラクター作りが巧く、ダンスも見応えがあり、引き込まれる。ダンスと音楽の関係を工夫すると、さらに作品が広がるだろう。




1/7

吉川千恵
女優による日常を語るテキストの朗読に従って、ダンスが進行する。動きは空間のなかで淡々と背景のように機能し、映像の重なりと相まって静かな世界を創り出した。


すこやかクラブ
バラエティ・ショーのパロディ的な作品。司会者を中心に場面や登場人物がせわしなく切り替わって行くが、さまざまな試みが行われているわりには散漫な印象に終わってしまった。




熊谷理沙
暗闇のなか、長いトレーンを引くアンティーク風ドレスを来た女性が、舞台の上下を使い夢遊病者のように静かに踊るソロ。闇にほんのりと灯る赤いランプ、消えない傷のように顔やドレスに付けられた手型。不思議な余韻のある作品。




1/13

立石裕美
日常的な動作によるタスクを遂行し、時間の経過のなかで振付が創られて行くプロセスも含めて作品として提出する方法がポストモダンダンスへのオマージュとなっている、巧みに構築されたソロパフォーマンス。



まさおか式
有名なポップスが次々と流れるなか、 iPadを装着し舞台に流れる音から耳を塞さぎ、激しく踊り続ける女性ソロ。コンセプトの種明かしが最後にあるのか?と思わせるが、そのまま終わる。




KEKE
内面の意識を空間に作用させていくように、ゆっくりした動きで舞台をめぐる男性ソロ。内省的な作品だが、観客との間に交感を成立させる回路を作る工夫があるとさらなる広がりが生まれるだろう。




仙田麻菜
赤い布で覆面状に頭を覆い、白いトップス、青いスカートという視覚的インパクトで引きつけ、激しくフィジカルなダンスで圧倒する。咥えて左右に振り回したり、床に敷いたりと、布を巧みに使ってソロダンスに多様な表情を与えた。




1/14

小山晶嗣
車椅子と踊るソロダンス。照明、映像も効果的な使用と、車椅子と対峙し自由と制約の境界を問う動きによって、無生物が生命を持つように思えてくる面白さがある。



髙橋和誠
夜光塗料で光る矢印、 ボードヴィル的な表情で遊ぶ導入部で観客の注意を充分に引きつけてから、身体の細部まで制御した緻密な振付と独特の時間感覚で織りなされる彼独特の奥深いダンスの世界に誘っていく、鮮やかな作品。




佐々木すーじん
ダンスへの問題提起とダンスが交錯する序盤はジェローム・ベル的な新しいレクチャー・パフォーマンスを予感させたが、その後のダンス・パートが単調かつ長過ぎた。コンセプトに頼らず、独特の捻り、関節の動きを持つ身体性をもっと活かせるのでは。




1/16

ブラバニ
良く鍛えられたバレエ、ジャズ等のテクニックを使い、多様な音源も工夫してインパクトの強い演劇的シーンを重ねて行く女性デュオ。小道具(仮面)を効果的に使い、複数の場面転換もドラマティックにつなげていく、エンターテイメント性の高い楽しい作品。


尾花藍子
コンセプチュアルで演劇的な男女デュオ。白い四角の布の周りを女性が周り、男性がその後に続く。歩行などの日常の動き、四肢の分節的な動き等を組み合わせ、内面の関係性を浮き上がらせた。




ASMR
ミニのセーラー服姿の女性4人が、ローザスの椅子ダンスに始まり、学園ドラマ、サスペンスドラマのパロディ的情景を繰り広げるが、独自の方向性が見えづらかった。




C×C
小柄で可愛らしい印象のデュオ、冒頭、紺色のボディスーツ姿の二人が完全に一つの塊になって床に転がる開幕シーンのインパクトに対し、後半のオレンジを中心に2人が対峙するコント的な展開が軽く感じられてしまった。




1/17

坂田有妃子
ダンス外も含めて出自の異なる4人が舞台上で関係することで何かが生まれることを狙った作品が、彼らの差異とその変容が伝わりづらかった。


山田花乃
ラヴェルの『ボレロ』で踊るソロ。逆立ちで踊るパートなど身体の異質性を暴き面白かったが、先行する振付の多い強力な音楽を選んだ分、振付と音楽の結びつき、衣装や美術が弱い印象を与えてしまった。




二瓶野枝(Nect)
ダサめの下着、赤いソックスの女子3人が、セクシャルな紋切り型で反復的音楽で踊る前半、静かに絡み合う中盤、赤い紐で戯れる後半と、構成は明快で、ダンスも魅せる。女性性と距離を取りパロディ化した前半のように、後半も情動的な展開に帰結させるのではなくもう一工夫欲しかった。




1/18

横田恵
母の死を主題にしたソロ作品。小さな椅子の上から出発し、自らの誕生から母の生命の終わりへ立ち会う物語の進行と身体のリリース、映像も用いた空間の広がりを巧みにシンクロさせ、無理なく観客を作品世界に誘っていく。映像や録音音声による言葉の介入、 ミニマルだが効果的な美術、衣装のこだわりも光り、独白的・感傷的になりがちな主題を、澄んだダンスに仕上げた。


李真由子
観客に陶酔感を与える、なめらかでスピードとテクニックに優れたオリエンタルダンス風の女性デュオ。ダンス技術が目を引く分、意味性が薄れやや単調になってしまった。




後藤かおり+安藤暁子
日舞とコンテンポラリーダンス出身の女性2人のデュオ。同じワンピース姿で踊って身体性の違いを際立たせたり、対立をドラマ仕立てにしたり工夫があったが、想定内の差異の対比に留まったのが残念。異なる身体性を深く突き詰めて、もっと面白い作品ができる2人だと思う。今後に期待したい。




スピロ平太
奇抜なかぶりもの、現代美術家ナム・ジュン・パイクの『ヒューマン・チェロ』の上を行く(?)人間ヴァイオリン、突如エビ反りでCDラジカセを破戒するラストシーンと、笑いと衝撃においては、おそらく今シリーズ最強の作品。




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批評家、編集者。舞踊、文学、美術などについて『TH叢書』『Danceart』『Dancework』『Invitaion』『図書新聞』などに執筆。舞踊学会員、舞踊批評家協会員世話人。テルプシコール「舞踏新人シリーズ」講評者、ディプラッツ「ダンスがみたい」、アサヒアートスクエア、シアターカイ国際舞台芸術祭などの企画・審査、JTAN会員。批評誌『Corpus』(コルプス)責任編集、メールマガジン「maldoror」発行人 。サイト「舞踏批評」主宰。
著書『舞踏家は語る』(近刊、青弓社) 編著『凛として、花として―舞踊の前衛、邦千谷の世界』、『フランス語で広がる世界』、『講談社類語大辞典』



 

総論
  コンテンポラリーダンスのレベルは確実に上がっており、日舞、バレエからの挑戦も、以前のようにとってつけたものではなく、十分混ざり合った意味のある作品だった。全体としてオリジナルな発想で見たことのないものを作ろうとする意欲が感じられた。
  今回、男性の参加者が多く、32組中9組、28%という状態。舞踏系はそのうち2人だから、男性のコンテンポラリーダンス志向は強まっているといえる。もはや、女子中心だった「コドモ身体」といわれた時代ではない。この舞台の女性デュオも徐々に変わり、しっかり体を絡ませて一体となったフォルムを生んだり、日舞とコンテンポラリーが合体したり、挑戦を続けている。
  そんななか、個人的に出色と思われたのが、5日の羽太結子、13日のまさおか式、14日の黒須育海、17日の杉田亜紀だ。詳細は個別評に書いたが、特に黒須は男性中心のグループとして今後が楽しみであり、羽太、まさおか、杉田のソロはさらに新作を見たいし、ぜひみなさんにも見ていただきたいと思う。
  舞台のアイデアはちょっとした思いつきから始まる。それが一見、奇妙なものに思えても、本気になってこだわれば実現し、観客に「見たことのない世界」を与えることができる。もちろんその過程でブラッシュアップ、作っては壊す作業の繰り返しが必要だ。ともあれ執念を持って作った作品には、人に何かを感じさせるエネルギーがある。これからも、そういう舞台を楽しみにしている。

1/5

中村理
黒電話を持って立ち、ベルが鳴って受話器を取ると、音楽が流れるという形。時にその音楽に反応して踊る。おそらくかなり以前、モダンダンス初期にも、だれかがやったのではというアイデアだが、緊張と集中感に抑えた照明で、男一人のソロがくっきりと浮かび上がった



いそ+
昨年も出たゆみたろうと2人の女性。女たちが緩い踊りを踊り、下手手前で尺八を吹く男。ゆみたろうも含めて自然体の踊りということなのだろうが、訓練を積んだダンサーでも、コンセプトや貫くべき強い意識がないままでは、単に普通の体がそこにあるだけにしか見えず、尺八の技術があるだけに、それが生きずに残念だった 




羽太結子
緩い衣装から体を出すという行為をゆっくりと行う場面はとても引きつけたが、次の景でサティのピアノに朗読が流れたときには、ああ、定型と思った。それでも動きに密度と存在感があり、かつ台詞の最後は凡庸ではなかった。それからキーボード系の多重録音の音で人形的、関節的な動きで踊るのだが、その技術と体そのものが目に残り、印象的な舞台となった。




大東京舞踊団
黒のアクセントでゾンビ的ともいえるおもしろい化粧をした男が十数人、激しいロックで踊る。体操とダンスの間といえるシンプルな動きで、オタ芸とか一世風靡のようなノリだが、時に曲に合わせて歌をわめくなかで、奇妙にそのエネルギーは感じられた




1/6

GRILLED BITCH CONTROL
昨年も出たが、女性性を強調したダンサーと冴えない感じの女性ダンサーが組み合わさり、ショー的パフォーマンスとともに、その差異を強調して踊る。こういうコンセプトの場合は、徹底して笑えるとか、ダンスがメチャ凄いとか、特徴がほしい



藤井友美
脚立でホリゾントの黒い壁に照明を付けて、その下にぶら下がる行為を数回繰り返し、その後、半分闇の中で暴れるように踊る。その激しいリフレインは後半明るみに出るが、同じ動きを執拗に行うことで、空間を変えようとしていた。それが成功したかどうかはわからないが、何かを感じさせる舞台だった




田路紅瑠美
女性が五人、下手奥から観客席に向かって揃って歩いてくる繰り返し、そのなかで、1人ずつ倒れたり、別の動きをしたりするバリエーション。さらに横に向かい同様の隊列ダンスのヴァリアントが、強い現代音楽に乗っていくリフレインは魅力的。そのヴァリアントはしっかり振り付け構成されており、なかなか見応えがあるが、揃い方などは、より訓練を積むともっとかっこいい。中盤で町の騒音の緩い踊りの場面から、再び元の音楽とともに終わりに向かうが、緩い部分はもっと異化するコンセプトが必要だ。全体としてはなかなかの完成度で、もう少し詰めるとレパートリー化できる作品だ




モモ
女性2人がモダンダンス的かつ緩めの衣装で、とても構成された動きだが、全体としてその緩さ、シンプルさ、2人の共感などを強調した踊りで、しっかりと見せた。2人のキャラクター、存在感などもあり、魅力的だった




1/7

石井則仁
白シャツにズボンでうろつくように歩き、時折観客席に向かい、そして暗くなった中で暴れるように踊る。ホリゾント床の蛍光灯がチラチラ点滅して身体は時折見えるのみ。やがて上手手前から下手奥に這っていくなどの動き。上手壁、下手壁下の蛍光灯も同様に点滅して、光で惑わせる。動きはシンプルだが密度もあり、かつ見せ方がうまい。ただ、ホリゾントの蛍光灯はまぶしくて疲労感を感じた



吉川千恵
女性2人、1人は朗読し、横たわったりしながら、時々踊り、もう1はそれをBGMのようにして踊る。このコントラストと緩さを生かしたダンスで、後半揃って踊る部分などで、テクニックはしっかり感じられ、コンセプトも今時だが、中に一つ事件がほしい




すこやかクラブ
オーバーオールの男女と司会者のような長身の男性。男女は元気に踊り、司会者は躁状態のノリで問題を出したりギャグらしき行為。司会の男が女装すると女も赤いドレスで揃ってお色気ダンス。男は脱がされ消えて、女のソロ。それも消えて再びオーバーオールのダンス。たぶんヴォードヴィルをイメージしたような作品だが、古っぽいギャグの重なりは色あせた印象がぬぐえない




熊谷理沙
上手奥から長い白い衣装を引きずり下手手前へ。その衣装で体を隠しながら動く。感情を表現するような激しさを見せ、最後はホリゾント上の空間で1人立つ。シンプルでコンセプトもいいが、そこに身体を強く感じられたかというと、いま一つ。何らかの内包する葛藤が感じられると、もっとよかったかもしれない




1/13

立石裕美
舞台中央に白い巻紙、上手にプロジェクター、下手に携帯とノートパソコンを配置することから始まる舞台。巻紙を広げて横たわり、既にある線の上に自分の身体をマジックで型どり、横たわったまま手を伸ばす、足を上げるなどの動作。携帯を開き歩きながら動作し、アラーム音とともに動く。パソコンを開き震災の場面を流す。紙をセンター奥のポール2本の間に張り、そこに自分の姿のデッサンを投影し、そのポーズを上手で行う。細身の整った身体ゆえに抽象化された動きがよく似合い、パフォーマンスとして見せるが、これはダンサー自身の持つ独特の魅力で見せているようにも思えた



まさおか式
iPodを腕に貼り付けてイヤホンをして、音楽を聴きながら激しく、時には情緒的に踊る。その動きが半端なくエネルギッシュで見せる。かつ背景に流れるプレスリー、モンローなどとは異なる音を聴き踊っており、当然合わないのだけど、時に合いそうにもなる偶然性による微妙な感覚、その差異を浮き彫りにするというアイデアがおもしろい。ダンスの熱が感じられる舞台だ




KEKE
下手奥から両手を上にのばし拝むようなポーズから、片手を上にのばして体を開く。ゆっくりと無音か僅かなノイズのなかで踊る姿は、フォトジェニックに美しい。途中繰り返し倒れるところ、上手で暴れるところがあるが、これらがもっと徹底すると、舞台にアクセントがついたはずだ




仙田麻菜
赤い布で顔を隠して登場し、外すとそれを口にくわえたまま激しく踊る。この場面がとても魅力的。以降も赤い布をモチーフとしながら、いろいろ場面をつくるのだが、ちょっと盛り込みすぎた感がある




1/14

小山晶嗣
車いすを持ってきて踊るという発想は悪くないのだが、そういうモノを登場させるときには、しっかり考えなければいけない。例えば英国にはカンドゥーコという車いす障害者のダンスがあり、コンドルズの近藤良平とも一緒にやっている。車いすを使うことにあらゆる可能性を追求して行わないと、中途半端にしからならない。ただ自分の影絵と踊る場面には、惹かれるところがあった



髙橋和誠
緩い始まりから、照明の中に身体を置くということに徹した舞台。ただ、力あるダンサーが動かないからといって、置いた以上のものになったかは、疑問。意志と意識が徹底しているようには思えなかった




佐々木すーじん
 「ダンスが見たくない・というアンチテーゼを冒頭で述べ、「踊らない」といって始めるのだが、その後、「結局踊ってしまいました」というのは、コンセプトとしてお粗末。ただ、彼の動きには魅力があるので、ホリゾントから前面まで繰り返し踊る、ソウルトレイン構造のみを取り出して、両側に動く人形などを多数配置すれば、おもしろいダンスになるのではないか




黒須育海
男性中心、女性が1人混じる群舞が中心の構成で、大の字に横たわったところから始まるが、個々の動きの展開、それぞれの動きが、絡むとなく関わっていくと、その関係性が際立って、見たことのない群舞の世界を作り出しつつある。踊りのコンセプト、動きもそれぞれ考えられており、見せる魅力と新しい世界を感じさせる。個別の力の向上や訓練を重ねるといいカンパニーになるはずだ




1/16

ブラバニ
女性のデュオで主人と奴隷のような構造のなかで、衣装を変えて見せるダンス。トゥで踊る場面もあり、バレエテクニックをそのままでなく、コンテンポラリーな感覚とともに見せる。ただ、最後はエンターテイメントで終わるので、その領域を超えて、もう一つ、強いコンセプトがほしい



尾花藍子
四角く照明の当たった空間の周囲を歩く女性と男性。ノンダンス的なコンセプトで作られており、キャラクター、つまりダンサーの存在感で十分見せるのだが、行われるそれぞれの行為には、形としてのコンセプトとその指示以上の魅力は感じられなかった




ASMR
四つ向かい合わせの椅子にミニのセーラー服で登場して動く。1人を排除して殺し、さらにもう1人も殺すという展開は、なかなかおもしろい。4人のうち2人いなくなるという発想はいいのだが、全体としては何とも弱い。このアイデアからさらに突っ込んだ思考が必要だろう




C×C
冒頭の場面、1人が丸くなっているのかと思わせる、身体のオブジェ化が非常に成功している。そこから2人が絡みつつ踊る展開も悪くはないが、やはり冒頭のインパクトを超えるものではなく、もうひとつ新たな強いポイントがほしかった。




1/17

坂田有妃子
男女4人の群舞で、動きとそれを外す意識とコンセプト、そして書きつける文字など、複雑なものを作りたいという意図は見えており、個別の動きと組合せはおもしろいのだが、しかし、いまひとつ引き込まれなかったのは、個々の表現への徹底の弱さかもしれない



山田花乃
倒立状態から倒立のままの開脚などのコンセプトと場面はとてもインパクトがあり、できればそこをもっと強調して、普通に立つ場面を極力排除すれば、非常に魅力的なダンスになったのではないか。使われる音楽、ボレロも倒立のままで徹底してほしかった。またボレロのラストの破壊的な音楽を敢えて外したのだが、やはりあれを効果的に使わないと、ボレロを使う意味が弱まるのではないか




二瓶野枝(Nect)
女性3人が絡み合うところが多かったが、前日のC×Cの2人の徹底した絡みのイメージが残っていて、ちょっと弱く感じた。ただ赤い靴下が印象的で、後半、胸元から赤い紐を出してまさにからめ取られていくところは、なかなかおもしろかった。




杉田亜紀
正面にしゃがんで観客席に視線を強く向けて、無音で長く動かず、そこから徐々に動くところから、型にはまらない動きをよく考え展開して、ずっと観客の視線を引きつける。去っていくポーズを照明で浮き上がらせて見せるところもカッコイイ。その後のテニスボールと「キャッチして!」という女の子的声やスクール水着に近い衣装は、これまでのコンテンポラリーダンスの「コドモ身体」、少女モードの踏襲だが、それを超えて目に残るものだったのは、しっかりとしたテクニックに加えて、冒頭からの堂々とした存在感と意識ゆえだろう




1/18

横田恵
椅子に体を預けた老婆のようなモードから、文字と自分の言葉を含めて、老いた母とその死を描き出す。とても丁寧で優しい美しさの作品で、特に映し出される青空の写真の中で踊る姿は心にしみる。だが、例えば前半、音はヘビメタにするとか、異なる音で空間をつくると、ストレートな読みを崩すと、その対比によって、切なさ、青い空ももっと生きたのではないか



李真由子
その音楽によって、インド舞踊、ベリーダンスとも見えるような、ちょっとくねった動きで、大きい李とのコントラストをもう1人が出す。ユニゾンや絡みを含めて、テクニックも高く、動きも見たことがない、と思わせるところがしばしばあるのだが、全体的にまとまりすぎた感がある




後藤かおり+安藤暁子
カフェのウェイトレスの白黒衣装のような姿で、1人が日舞の振りを踊り続けて、もう1人がかなり崩したコンテンポラリーの動き。そのコントラストと、2人の戦い、絡みなどがおもしろい。こんな風に日舞の動きを使えるというのは、いい発想だった。さらなる展開に期待したい




スピロ平太
スピロの肛門三部作完結編で、得意のかぶりもので、頭が肛門、股間に人形の頭という逆人間が張り付いた形。冒頭、うんこを口から吐き、生演奏のパーカッションとともに怪しさ抜群。特に、CDでかけるアベマリアのバイオリンとともに、背中に絵とオブジェで全身がバイオリンになった裸の女性が登場して、それを首に抱えて、この逆人間が弾くというパフォーマンスは圧巻。さらに最後は、アベマリアの鳴るCDラジカセを、逆さにブリッジで倒れて頭で壊す!という衝撃的な場面を演出し、喝采を受けた




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1983年大阪府出身。劇評ブログ『現在形の批評』主宰。演劇批評誌『シアターアーツ』編 集部。国際演劇評論家協会(AICT)日本センター会員。

 

資質を開花させたダンサー/問題・挑発作品の不在

  作品を意味づけるコンセプトや物語。今年はそれらをダンサーから遊離したものではなく、踊る主体と不即不離なものとして捉えようとした。すなわち、空間を行き来して描かれる軌跡を取り出して考察するのではなく、ダンサーの存在との関係によって生み出される全体を受け取ること。そのような態度をより強めて観ることに務めたということである。小劇場を中心とする現代演劇の批評をする私が、ダンスを観るとはどういうことか。昨年は演劇の見方をダンスにパラフレーズすると何が見えるのか、という実験をしたといえよう。そのことで改めて見えてきたのは、ダンサーの身体の重要性であった。だからこそ、今回はあらかじめ枠を取り外して観ることが要請された。それが、昨年に引き続き審査を担当した私の設定した課題である。

  全日程をそのような態度で観る中で強く印象に残ったのは、14日(火)の4組目に登場した黒須育海『二つの皿』であった。男性ダンサー5人に1人の女性ダンサー。筋骨隆々の男性ダンサーの世界に放り込まれた女性という構図は、昨年のエントリー作品と同じだ。だが、今回は男性対女性という分かりやすいコンセプト以上のものが持ち込まれている。それは、生物のうごめきとその生々しさである。舞台中央に照明で丸く区切られた空間。そこに2人のダンサーが向かい合って構える。ぶつかった2人が互いに枠外に追い出そうと格闘する。相撲のような格好で交わされる様子は、動物の鳴き声のSEとあいまって生物のなわばり争いのように見えてくる。女性ダンサーは、男性ダンサーと一対一で格闘したり、5人の男性ダンサーに迫られて倒れる。レイプをも想起させるシーンが不気味さを生み出す。動物的な本能に基づいた、欲求や衝動に突き動かされる行動。それを、肉体と肉体が激しくぶつかり合う文字通りの格闘として見せるのではなく、抽象性と相まって描かれている点が重要だ。リアルタイムの闘争を描いているわけではないので、ダンサーの表情には激しく汗をかいたり歪んだりといった変化がない。何となくダンサーがやっていることは伝わるが、完全に具体的ではないので、奇妙で異様な雰囲気がしだいに漂う。この具象と抽象とのバランスが、作品世界を形而上的な大きなものへと開く回路となっている。なおかつ、次の展開への観客の期待をもつなぎ留めている。

  舞台後半に劇世界は一転する。夕焼け空を思わせる照明と音響が入ると、学校の放課後を思わせる倦怠感が訪れる。一人また一人とくず折れるダンサー。生命が朽ちてゆくような様は、それまで6人のダンサーが凝集と拡散を描いて生物のうごめきを見せていたのとはうって変わった世界である。演劇に限らずパフォーマンス系の作品では、文字通り出演者が激しく運動し、しだいに疲れる様をリアルタイムで見せる作品に出くわす。13日(火)3組目のまさおか式『死して屍拾う者なし』もそのような傾向の作品だ。黒須は、ゼロ年代以降のパフォーマンス(運動→疲弊)とは異なった形で、生物の動と静を描いたのだ。先に記した具象と抽象のバランスはここに関わっている。形而下と形而上が両方ない交ぜになった空間を仕立てたことにより、劇の間口がぐっと広くなった。そうすることで、激しく運動していないにもかかわらず、確かに人が生きて存在しているという印象を強く与えた。昨年の審査ではその点に気付かなかったが、今年はそのような魅力がブラッシュアップされた形で表現されたのだ。メンバーは昨年の出演者と重なっている部分が大であろう。個々のダンサーは身体が鍛え上げられている上にチームワークも良い。カンパニーではないようだが、出演したメンバーを大事にしながら、独特の群舞世界を今後も創作されることを願う。

   13日のトップバッター、立石裕美『1960 イチキューロクマル』は、コンセプチュアルな面を強く押し出し、黒須をはじめ他の作品とは隔たったアート性の強い作品だった。巻物状になった紙を床面に広げると、そこには何重にも模った人体のシルエットが見えてくる。その上に寝転がった立石は、両腕を上空に上げて脱力することを何度か繰り返す。その後、さらに自身のシルエットの模りを行う。既に引かれたシルエットも立石自身のものだったのだ。その時々の身体の状態を確認し、記録しているのだろうか。それが終わると、シルエットが描かれた紙を立てかける。そしてシルエットの上に、ポーズを取る女性(立石?)が描かれた絵か写真をスライド投影する。立石がポーズを真似るとスライドが変更。またポーズを真似る立石。何枚か繰り返した後、スライドなしでこれまでのポーズを連続させる。すると、それだけで振付けられたダンスに見えてしまう。パラパラ漫画のように流れるポーズの連続によるダンスに意味はない。振付に意味を見出しがちな私のような観客には、ダンスの意味と振付の裏側を提示されたような気分になって興味深かった。その途中、シート上のシルエットに今まさに踊っている立石の影が照明の影響で投影された一瞬があった。微妙に変化する立石の身体のシルエット、スライド投影されたポーズ、そして舞台上で踊る立石の影。シートで起こる一切は、立石の過去と現在の可視的な刻印なのである。そこには、コンセプチュアルで淡々とした作品の中にある、血の通った温かさを感じさせる。黒須とは違うアプローチで、立石の試みも運動―疲弊とは違った形で身体を考えようとする目差しがあるからだ。

  ラストは、立てかけたシートの先を客席に向ってさらに広げてゆく。そこには足先から伸びる線が描かれており、その上に寝てまた自身のシルエットを模ってゆく。その前段で、下手のマッキントッシュから震災のニュース映像が流れていた。それを踏まえると、舞台は震災を通過した人間の生の問題が浮上するだろう。自身の身体の変化を歴史として刻んで生を確認すること。それは、震災という人知を超えたできごとによって、我々が一旦は突きつけられたものではなかったか。しかし、日が経つにつれ忘却されつつある事柄である。立石の作品には、その点にこだわる創作者の姿を見たいと思う。ハイアートに偏りすぎたきらいはあるものの、観る者のインスピレーションを大いに刺激する作品であった。

  17日(土)の4組目、杉田亜紀の作品を観るのは今年で3年連続。昨年、一昨年の作品は四角く区切った狭いエリアの中で、しかもほとんど動かず自身の身体を見せるものであった。今回の『無印』では作風ががらりと変化。黒須と同じく、そのことで杉田の資質がより引き出された作品に仕上がっていた。杉田の魅力は、体つきや雰囲気を含めた身体まるごとに観客の目を引き寄せる力に尽きる。テクニックによって身につけられるものではい、彼女自身の存在が最大の武器なのである。沈黙のままうずくまった姿勢から、微細に体を動かして、滑走路を滑るスキーヤーのような前屈のポーズに至る。その他にも、優雅にたっぷりと時間をかけていくつかのポーズを作ってゆくが、その過程を飽きずに見ていられる。決して高飛車ではないがツンとすました雰囲気に、静かな自信がうかがえる。後半には、テニスボールをいくつも舞台上に投げ込みながら、「キャッチしてよ」と訴えかけ続けるシーンがある。声を聞くのも今回が初めてだ。そしてピンスポットが当たる中、セットポジションから足を綺麗に斜めに上げての投球動作、そして「キャッチしてよ」と投球するキメのシーン。甘えたような声と雰囲気は、少女マンガの世界だ。観客にキャッチしてほしいのは杉田自身のことであり、なおかつそれが受け入れられるという強い自信と想定の基で行われたのだろう。決して客に媚びずにドキリとするような要求をスッと差し込む杉田の要求は、客に「YES」と思わせる力がある。かわいらしさと気品を兼ね備えた身体をどのように見せれば効果的か。杉田の作品に接する度に、それを熟知していることが伝わる。その魅力を大きく開花させた今作の杉田は、全日程を通しても屈指の存在感であった。

  今回の新人シリーズで目に付いたのは、女性デュオの多さである。32組中4分の1に迫る数がデュオでの参加であった。GRILLED BITCH CONTROL『INSIDER/OUTSIDER』(6日)、後藤かおり+安藤暁子『hako』(18日)など容姿やダンスの資質の違いをテーマに互いの違いを見せる作品か、モモ『春はごきげん』(6日)、ブラバニ(16日)、李真由子(18日)らのようにパートナーとの相性の良さを武器にしたキレの良い動きを見せる作品に大別される。どちらにしろ、関係が固定的なままで変化に乏しいのが気になった。3人以上では役割を振り分けられることも、2人となるとどうしてもそうなってしまうのだろうか。なぜこのパートナーなのか、そして何がしたいのか/できるのか。その辺を話し合って詰めてゆく作業がもっと必要なのではないか。単に欠点を補ったり加算させるだけではない化学反応の可能性を探ってほしいと感じた。

  昨年とのもうひとつの違いは、問題作や挑発的な作品がなかったことが挙げられる。よくも悪くも、そのような作品こそがフェスティバルを盛り上げる。なぜなら、美学的な洗練やダンス技術の上手い下手とは違った評価の可能性を発見させられるからだ。そのような観る側の態度を問い、固定観念が揺さぶられるような作品がなかったことは残念だった。7日(木)のトップバッターである石井則仁は、チラシのプロフィールに「現代社会の異常さをコンセプトに作品を制作」とある。無音で、3台の蛍光灯がチカチカと明滅する暗い空間。客席と真正面で対峙したり、背中の筋肉が細かく動く様を見せるシーンからは、自身の身体だけで空間を埋めようという意図は感じられる。だが、石井の身体からは「現代社会に生きる肉体」の在り様を十分に感得することはできなかった。社会と自身との関係をどこまで推し量り、いかに立とうとしているのか。その目測が詰められていない。杉田ほどの存在感を出すにはいたらなかった理由はそこにある。

  あえて問題作を挙げるとするならば、14日の3組目、佐々木すーじん『ダンスがみたくない!新人シリーズ』と最終日のラストに登場したスピロ平太『黄門のメドゥーサ』になるだろうか。言葉を操らないダンスは創り手の意図が十分に伝わらず、動きだけでそれを表現しようとすれば曖昧なものになりがち。そういった問題意識の下、佐々木はダンスを禁止し喋ることにする、と冒頭で観客に告げる。だが、すぐさまその約束は破られ、くねくねとした動きからなるダンスを踊ってしまう。その都度、佐々木は「踊ってしまいましたね」と観客に発する。言葉と動き、両者の情報伝達の差に着目した作品と言えるが、繰り返される展開で出てくる動きのバリエーションはほぼ1つしかない。私にはダンスのボキャブラリーの少なさのエクスキューズとして、ダンスとは何かという問題系が都合良く持ち出されたように感じた。本気でダンスそのものを問おうとする姿勢がなければ、単なるポーズで終わってしまう。

  スピロ平太にもそのような側面がないわけではない。この作品を観ながら想起したキーワードは「お約束」である。両足が前に突き出た被り物を頭から装着し、股間にはマネキンの首をぶら下げた格好でスピロは登場する。肛門に見立てた自身の口から大便(何かの食物)を吐くことで始まる舞台は、上手に控えた演奏者が騒々しく叩くドラムとシンバル音の中で展開される。途中、背中にバイオリンのペイントを施した女性ダンサーを寝転んだ脚でホールドし、演奏するシーンが何度か挿入される。股間に付けたマネキンを頭に、脚を腕に見立てるという遊びだ。確かに、これらは独特の異様な世界観を形作ってはいる。しかし、凶暴さや露悪さは感じられず、また黒須の奇妙な世界とも隔たったものとしてある。そう思わされたのは、スピロの逐一の行動に、客席の一部が積極的とも思えるくらいに反応していたからである。三部作の完結編ということで、これまでの作品を知っている観客にとっては受け入れ体制がすでにできていたのかもしれない。そこに、スピロがやることに笑いで受け止めようという優しい空間が形成されてはいなかったか。微温的な関係性には、やはり本当の異様さは生まれないだろう。ただし、最後の最後、ブリッジしたスピロが頭を激しくラジカセにぶつける場面にはさすがに虚を突かれた。部品が飛ぶほど勢い良くぶつかった瞬間に作品は終わるが、このような展開はさすがに予想できなかった。スピロの資質は何をしでかすか分からない、危険な匂いを感じさせることにあるとすれば、この一瞬には確かな感触があった。

  今年は戦後70年を迎える。演劇では数年前から若手演劇人も含め、戦争をはじめとする現代社会のテーマに肉薄しようとする作品が増える傾向にある。もちろん、そのような重いテーマを扱ったから良い、ということにはならない。ダンスにはダンスからの問題へのアプローチがあろう。石井、佐々木、スピロの作品を振り返って思うのは、ダンスで今何を問おうとしているのか、ということである。




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