演劇性を支える、戯曲と演出の混交と齟齬
藤原央登(劇評家)
mizhen『溶けない世界と』
2018年4月25日(水)~29日(日) 会場 d-倉庫
【作・演出】 藤原佳奈
【音楽】UHNELLYS
【出演】
小角まや(アマヤドリ) 照井健仁 佐藤蕗子(mizhen) 安東信助(日本のラジオ)
佐藤幸子(mizhen) 百花亜希(DULL-COLORED POP) 滝寛式(はえぎわ) 小林樹(カムヰヤッセン)
前原麻希 藤井咲有里
協力:特定非営利活動法人シアター・アクセシビリティ・ネットワーク
手話指導:忍足亜希子、 三浦 剛 (演劇集団キャラメルボックス
主催:mizhen
チェーホフ『かもめ』には、舞台上で表立った事件が起こらない。田舎屋敷で無為な日常を過ごす登場人物たちによる、噛み合わない会話が描かれるだけである。この会話の噛み合わなさが織り成す人間関係のアラベスクは何を表象するのか。トレープレフとニーナ、そしてトリゴーリンの三角関係に見られるように、愛に代表される人間関係のすれ違いである。行き違う片思いに仮託されているのは、人と人との根源的な分かり合えなさであり、理解を求めてぐずぐずと煩悶する人間の姿である。『かもめ』をはじめとするチェーホフ劇は最終的に、世界の中で人間はそのように生きている、という客観的な構図を提示する。登場人物は誰もがそのような悩みを抱え、虚無的に生きている。だからこそ明確な主人公はいない。そういう意味で、チェーホフ劇は脱中心化されたポストモダンに通じる劇世界を持っている。そのような特性を持つがゆえに、ベケットを準備する現代演劇の助走期として、チェーホフ劇は演劇史に位置づけられているのだろう。
好意を寄せている相手に思いが伝わらない。逆に、思ってもみなかった者から好意を寄せられる。『かもめ』を下敷きにした本作は、愛により強くフォーカスを当てて、チェーホフ的な人間関係のアラベスクを描く。本作の登場人物は、『かもめ』に登場する人物の性別を逆転したものだ。トレープレフに当たる蒔田世子(小角まや)は新名一平(照井健二/ニーナ)に好意を寄せるが、新名は鳥越りん(佐藤蕗子/トリゴーリン)の大人の魅力に惹かれる。鳥越には、世子の叔父で俳優の有川次男(安東信助/アルカージナ)という愛人がいる。しかし鳥越は新名をそそのかして自宅に囲う。世子はホテル蒔田の従業員・増谷実(小林樹/マーシャ)に思いを寄せられている。その増谷はスナックのホステス・緑ジュンコ(前原麻希/メドヴェージェンコ)に好かれている。ホテル蒔田の支配人・志村えみ(百花亜希/シャムラーエフ)は、同ホテル料理人の夫・志村ほりあき(滝寛式/シャムラーエワ)との間に子供を望んでいる。しかし、ほりあきは世子の姉で蜘蛛の研究者・蒔田透子(佐藤幸子/ソーリン)に首ったけ。二人は逢瀬を重ねていた。聾者である透子とコミュニケーションを取るために、ほりあきは手話を覚え始めたほど。このように、湖のほとりにあるホテルを舞台に、惚れた腫れたで汲々として日々を過ごす人間が描かれる。
©高倉大輔
誰が誰をまなざしているのか。上記に記した人物の相関図を作ってみると、複雑な人間関係の綾が見えてくる。この相関図が、複雑でかつ幾何学的に作られる蜘蛛の網と合致する。実は舞台にはもう一人、メス蜘蛛のマリリン(藤井咲有里)が登場する。ホテルに住み着くマリリンは、劇世界を俯瞰する存在だ。劇冒頭でマリリンは語る。生命力の高い子孫を残すために、メスはより強い精子を持つオスを求めて待つ。そしてメス蜘蛛はまたカマキリ同様、性交後に雄を捕食すると。オスは産まれてくる卵の栄養源となるべく、その身を捧げるのだ。捕食は相手の生命を奪う究極の暴力である。それだけに、捕食主の体内で溶け合って一体化することは、究極の愛の実現でもある。後述するように、この暴力への欲望は本作の重要な場面に深く関わってくる。通常では望むべくもない、愛する者との物理的な混交への憧れとその不可能性が、劇全体のモチーフなのである。
その欲望の演劇的な表れとして、役柄の性別の反転があるのだろう。性差の境界線を越境することに、男女の混融の希求を感じさせられる。だがそれは目論見通りにはいかない。例えば、トレープレフを女性が宝塚の男役のように演じるわけではない。トレープレフを完全に女性として描き、女性が演じるのだ。『かもめ』を知らなければ、観客は単に鳥越りんという女性作家が描かれているとしか受け取れない。確かに宝塚の男役は、性を越境した特別な存在のように見えるかもしれない。だがそのことで得られる演劇的な効果は、演じているのは女性だ、という前提があるからこそもたらされるものである。女性が演じている事実を観客は忘れることはない。つまり男性役を女性へと変換した上で女性が演じても、あるいは女性が男性に扮装して演じたとしても、結局は演じる者は女性でしかない。性差の境界線は、それを越境し混交しようとする人間の奮闘に反して、厳然として存在するのだ。したがって性の反転という趣向は、メス蜘蛛がオス蜘蛛を捕食する男女混交の達成を意味しない。その理想に向けての努力が無に帰してしまうという現実を示すのである。他にも、言葉によるアプローチはもちろんのこと、透子の存在によって発生するもうひとつの言語、すなわち手話によるボディランゲージによっても、誰かが誰かを思う意図が十分に伝わらない。様々な方法を用いて十全なコミュニケーションを目指そうと図るが、自己が他者と隔絶していることを突きつけられるばかり。そのことを確認するしかないことは、確かに絶望である。
このように本作は人間関係のすれ違い、それゆえの絶望が描かれる。注目すべきは、そのことを照明効果によって明瞭に視覚化する点だ。惚れた腫れたの繊細な人間模様を描く戯曲と、戯曲のイメージを飛躍させ、あるいは戯曲を裏切るようにショーアップする大胆な演出。戯曲と演出の混交と齟齬にこそ、本作の演劇的な魅力があると言えよう。愛を巡る男女の混交を描いた物語が、戯曲と演出の関わりにも投射され、相似を成すように創られているのだ。
舞台空間に、主なアクティングエリアとなる小さめの円形舞台が設置されている。その床に仕込まれた青や緑、赤といった原色の照明が、幾何学的な模様を浮かび上がらせる。舞台空間が表象するのは、狭い世界の中で、クモの網のような人間関係に絡め取られた人間の在りようであり、世界の全体である。円形舞台の他に具体的な美術はない。そのため本作は、いわゆるチェーホフ劇のような細密な日常劇としては表れない。人間関係の構図をタブローとして提示したり、照明によって心理を外化するとった、抽象性を帯びている。
円形舞台+照明は、蜘蛛の網とは別のイメージも表象する。湖だ。湖は劇冒頭における、世子が作・演出して新名が演じる作品を上演する舞台にもなる。彼が述べる言葉は、水の中で生まれ育った何者かが、水上のきらめきを見つめるという詩的なもの。誰にも見つけられず、それゆえ「名付け」られないことによって、アイデンティティの不安を抱く内容だ。水は増谷にとってはインターネットの海のイメージとなる。リアルでもネット世界でも有名性を獲得できず何者にもなれない増谷は、鬱屈しながら世子の「つぶやき」を覗き見るだけで終わる。想いを寄せる特定の誰かに自らの存在を認識され、受け入れてもらいたいという願望。そういう意味で、世子が創り新名が語る劇は、登場人物全員の心情が仮託されている。もちろん湖は、『かもめ』におけるトレープレフと同じく、新名と鳥越の逢瀬を見てしまった世子が身を投げる場所でもある。
特に劇後半、新名を東京の自宅に住まわせた鳥越が涙を流し続け、それと共に溶けて大きな水たまりになるシーンは、水のモチーフと人物の願望が大きく結実する劇のハイライトだ。溶けた鳥越の水たまりを新名が飲み干すことで、自他の境界が溶解し一体化するという欲望がイメージとして達成されるからだ。この時、円形の青い照明が舞台に広がることで、鳥越が大きな水たまりになることが表現される。そして新名が水たまりを飲むたびに照明の範囲が狭まってゆき、最後にはギュッと絞られて一滴の小さなしずくとなる。天井から糸のように細いピンスポットが床に当てられる光景は、何とも美しい。照明範囲の拡大と縮小によって、限定された世界である湖が広大な海へと膨れ上がり、それが体内へ流入する様を視覚的に見せた。巧みな演出であった。
©高倉大輔
ところで上記のシーンは、世子があららぎ短編戯曲賞なる賞を受賞した戯曲である。つまり劇中劇なのだ。世子は溶けた鳥越に、新名の体内から言葉を投げかけるからそれを書き留めてほしいと述べさせる。世子は新名への思いを鳥越に託すことで、自らと一体化するという願望を具現化したのである。近くにいた時には想いが伝わらなかった。今度はその時とは違うアプローチよって、すなわち欲望を作品に昇華させるという迂遠な手続きによって、かろうじて願望の現実に手ざわりが得られるということ。ここには、宝塚の男役のような仕掛けと異なり、演劇の想像力を重々させることでもたらされる説得力を感じた。そして欲望を作品へと消化させたことで、世子は有名性を獲得し作家として自立する。さらに偶然にも、世子が作品中で鳥越を消去させたのと同時期に、彼女は電車脱線事故によって死亡してしまう。フィクションの力が現実を飲み込む可能性を示唆しているのだろうか。
物語は3年後の登場人物を描いて幕となる。惚れた腫れたを繰り広げた登場人物たちは、最後に収まるところに収まる。有名性を獲得した世子は、憑き物が取れたように友達として彼と接することができるようになる。新名はほそぼそと俳優を続けている。増谷とジュンコは結婚。えみは望み通りほりあきの子供を妊娠するが、彼は透子に愛人関係を解消される。有川は鳥越との関係が終わることに恐れをなし、つかず離れずの関係性を維持してきた。鳥越が死亡した今、より深い関係へと踏み込んでいればまた違った関係を持てたのだろうかと夢想する。望みが叶った者、そうじゃなかった者。人間関係のアラベスクは時の推移によって変わるものの、その綾で世界が形成されていることは不変だ。そのことが示唆されて終わる。
時に文学的修辞に彩られた、人間関係の齟齬を繊細に描く戯曲。その劇世界を、閉じられた世界を示す円形舞台とそれに反して、空間を視覚的に伸び縮みさせる演出。詳述してきたように、これが本作の特徴である。他にも、数匹のオス蜘蛛がそれぞれラップやブルース、バラード調でマリリンにアプローチしたり、妊活を求めるえみがほりあきに迫るシーンがボクシングの試合に見立てられるなど、ショーアップした演出が随所に挿入される。チェーホフ劇に描かれた静謐で淡々とした日常世界を、抽象性と娯楽性の淡いの中で成立させていた。戯曲と演出が接続しつつも時にあえて齟齬を来たすような作品創りに、チェーホフ劇を独自に生み出そうとする創り手の構えを抱かせられた。
©高倉大輔
以上、劇の魅力を十分認めた上で、それがかえって弱点となっている点があることも指摘しておかねばならない。複雑な人間関係の機微が抽象化と視覚化を優先するあまりに捨象され、誰が誰に好意を寄せており、誰には好意を寄せられていないのか。肝心の人間関係の網が見え辛く、時に混乱するのだ。俳優には実力があって、個性的な客演を多く迎えている。だが彼らはスピード感あふれる演技に注力しているために、身体からにじみ出る言葉にならない言葉の情報が少ない。それゆえに、戯曲に描かれた言葉のレベル=情報以上のものが頭に入ってこない。
チェーホフの『かもめ』は徹底的に日常性に依拠しながら、中心がなくぽっかりと空虚に生きるしかない人間の虚無を描いた。繰り返しになるが本作は、そのことを主に視覚面において、時にエンターテイメント的に大胆に演出することで、また別の人間の在りようを表現しようとした。しかし、あまりにもチェーホフ的な繊細さが捨象されたあまり、言葉と人間が記号的に劇空間を漂うきらいがあった。そのこと自体が現代の人間を描くことになればひとつの今日性を有するだろう。しかし本作の場合、人間の分かり合えなさという作品の主題の固定化、あらかじめ定められた答えを強調することに、記号的要素が動員されてしまったように感じる。戯曲と演出との連続性と齟齬。そこに、第三項としての俳優の存在が有機的に機能していれば、愛を巡る惚れた腫れたをフックにした、根本的な人間の在りようへともっと踏み込めたのではないかと思わされた。
mizhenの作品を観るのは2本目だ。『Sの唄』(2017年、Shibuya HOME)は一人芝居の小品ながら、劇場空間をうまく作品に落とし込む演劇的な趣向が魅力であった。ラストライブを迎えた歌手(佐藤蕗子)が、誰もいないライブハウスでひっそりと、自身の来歴を歌を交えながら語る。一人寂しく生きてきた女が、母親に対する懺悔にも似た思慕の念を吐露する。しかし実際は観客が、会場となったライブハウスで彼女のライブを見ている。物語上における歌手の孤独なラストライブというレイヤーに、それを演劇として観る観客という第二のレイヤーが重なっているのだ。孤独を募らせる歌手を、実は多くの観客が見つめ見守っているという構図。しかし彼女はそのことを知らない。手で触れる距離に両者がいるのに、歌手は物語内に、観客はそれを相対化する現実空間に存在しているからだ。存在する位相が異なるために、両者は決して交叉しない。そのもどかしさが悲しみを倍加する。ひとり芝居とは観客に直接語りかけるもの、という常識にひねりを効かせた演劇的な企みがここにはあった。
演劇性に非常に自覚的であること、それ故に生じる人間のすれ違いを描く点では、本稿で詳述した『溶けない世界と』に通じるものがある。演劇の勘所を捉えた創り手として、藤原佳奈とmizhenの作品をこれからも注視していきたい。
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劇評 破壊の後に残されたもの ――OM-2の『ハムレットマシーン』に寄せて
平田栄一朗(ドイツ演劇、慶應義塾大学教授)
OM-2『ハムレットマシーン』
2018年3月22日(木)~24日(土) 会場 日暮里SUNNY HALL
作 =ハイナー・ミュラー
演出=真壁茂夫
出演
佐々木敦 柴崎直子 金原知輝 村岡尚子 ポチ 鈴木瑛貴
畠山佳乃 坂口奈々 笠松環 高松章子 山口ゆりあ 田村亮太
ふくおかかつひこ 田仲ぽっぽ 相良ゆみ 丹澤美緒 髙橋あきら
映像=兼古昭彦
舞台監督・美術=田中新一
舞台美術原案=若松久男
舞台監督助手=長堀博士
照明=三枝淳
音響=佐久間修一、川村和央
宣伝美術・制作=金原知輝
主催:OM-2
OM-2の『ハムレットマシーン』は東麻布にかつてあった小劇場die pratzeで2004年に見て以来、14年ぶりである。当時も今回も「これにてすべての演劇は終了しました」というアナウンスの後、別の何かが舞台上で起こるという設定で上演が進んでいく。その何かとは、ハイナー・ミュラーが戯曲『ハムレットマシーン』において断片的に記した凄惨な「家族のドラマ」になぞらえて、都会の片隅に住む人々が自室で壊れていく生々しい自己破壊のプロセスである。当時も今回の上演も、この自己破壊のありようを各俳優がときに体当たりの力業で、ときに巧みな演技で示すのだが、そこに漂う独特のエネルギーに私は驚嘆した。というのもそのエネルギーは、この世を生きづらいと感じる孤独な都会人の葛藤を示すだけでなく、個々人の潜在的な力の可能性と危険性を両義的に示唆しているように思えたからである。俳優たちが醸し出すエネルギーは、最終的には自己を破滅に追いやるものだが、同時に、現状を――善かれ悪しかれ――大胆に変えるかもしれない力の可能性をも示唆する。このアンビヴァレントな力が、個々の俳優の個性的な演技や身振りによって多様に示されていた。以下に、この点を主眼に今回の上演を場面ごとに辿ってみたい。
©山口真由子
演劇の終焉宣言がなされた後に続くScene1と2では、舞台中央の間仕切りを挟んで男女が別々の自室にいる。「ハムレットだった男1」とされる男は、仕事から帰宅し、自室でくつろぎ、知人あるいは恋人とおぼしき女「オフィーリア1」に電話をかける。男は「あのさ、俺、ハムレットだったんだ」と語ると、女は「じゃあ、私はオフィーリアかもね」と答える。一見すると男も女もおだやかに語り、各自の部屋でのんびりとしているように見える。しかし女は電話で男に「昨日で自殺するのをやめた」とか、あるいは「自殺する」と述べつつ、マイクロカメラを自分の口の中に入れて、拡大された口腔部を背後の巨大スクリーンに映し出す。拡大された映像はグロテスクだが、それを撮影する彼女の仕草は終始落ち着いているので、映像がなければ、彼女は手鏡で自分の肌や体のケアをしているかのようにも見える。女は自殺をするのをやめて前向きに生きようとしていると同時に、自分の体をえぐるようにして壊そうとしているのである。ジークムント・フロイトは、生きんとする活力は死へ向かう欲動と不可分であり、両者は容易に切り離すことができないと指摘したが、この不可分な状態が女に同時に起きているのかもしれない。生きづらい毎日を何とか生き延びようとする前向きな姿勢には、それを蝕んでいく破壊力が密かに伴走する。ただしこの力が舞台上の男女を破滅に追いやるわけではなく、潜在的なものにとどまる。だからこそ二人の他愛のない会話と平凡な日常の風景には、不気味な雰囲気が漂う。
©山口真由子
この不気味な潜在力はScene3で炸裂する。「ハムレットだった男2」を演じる佐々木敦はやはり自宅でくつろぐようにして、テレビで娯楽番組を見、コーラを呑み、ポテトチップスを頬張る。陽気な音楽が流れるなか、男2はヘルメットをつけて金属バットを持ち、素振りをゆっくりと繰り返すが、突然、テレビ、机、冷蔵庫を何度も叩き始める。当たり前のように受け入れてきた日常と紋切り型の消費習慣が耐えられなくなったかのように、周囲を破壊し続ける。その後、男2は赤いワンピースを着けて、掃除機の排気を活かしてビニールを巨大な風船のようにふくらまして、その中に立て籠もる。男は声を振り絞るようにして「私は女になりたい…」などの戯曲の台詞を語り、踊る。ビニール空間の中で男は力の限りを尽くすように叫び、踊り、のたうち回り、射精を彷彿させるようにして消火器から白い粉を迸らせる。その姿は異様かつ滑稽である。他方、それは、現代人が甘んじて受け入れる日常の異様さを大胆に断ち切り、自分のジェンダー性の殻を打ち破るラディカルな自己変革の試みでもある。
©山口真由子
この一連の場面が観客に問うているのは、次のようなものかもしれない。日常の欺瞞に気づき、現状を変えようと思い立った者の行動力が、どうしてこの社会では異様かつ滑稽とならざるを得ないのか。自己の現状を大胆に変える試みは、実際に行ってみると、どうして自己破壊になってしまうのか。
これらの問いに対して明白な答えが上演に用意されることはない。舞台上にはむしろ変革の力が(自己)破壊に転じる矛盾や困難が前面に押し出される。これを象徴するのがScene4の暴動である。部屋に籠り続けるこれまでの登場人物と異なり、この場面の人々は――戯曲の第4場をなぞらえるようにして――街頭に出て何らかの抗議をしている。しかし権力側と思しき存在によって鎮圧され、全員が仆れて、死体のように横たわる。
この絶望的な状況は、最後の場面Scene5でより色濃くなる。死体が転がる廃墟をうろつく「オフィーリア2(エレクトラ)」は、Scene1と同じように落ち着いた様子を保ちながら、ナイフで自分の股や首を引き裂こうとしたり、バケツの中の生魚を食べたり吐いたりする。Scene1に登場したオフィーリア1は自己の体内を拡大映像で晒したが、この場面でオフィーリア2は自己の体内を引き裂くことで、身体の「内破(implosion)」を引き起こす。上演前半で鳴りを潜めていた女の破壊力が、最後には静かながらも、自己の体内で炸裂する。
©山口真由子
何かを大きく変えると同時に(自己)破壊をもたらすアンビヴァレントな個々人の力は、この上演では否定的な方向へ向かうだけで、そこから脱する糸口が示されることはない。 力が生産的な結果に結びつく意義が見出されず、重苦しさが観客にのしかかる。
OM-2の『ハムレットマシーン』は絶望のなかで幕を閉じるが、抵抗の可能性をかすかに暗示している。上演とカーテンコールが終わり、俳優が舞台から去り、観客も会場を後にし始めるが、オフィーリア2だけは舞台上に残り、Scene5と思しき場面を繰り返すようにして演じ続ける。それが絶望の演技であることに変わりない。しかし「すべて[…]が終了した」後でも、彼女が演じ続けているのは確かである。遊戯を続けることで、現実の流れに抵抗し続けるのである。抵抗の可能性はまだ残されているのだ。上演では個々人の潜在的な可能性が自己破壊に終わってしまったが、その後も舞台に居続けるオフィーリア2は、大半の観客が立ち去っても、演じ続けるという抵抗を継続する。この抵抗の中身に意味があるわけではない。しかし破壊の状況が次々と展開する絶望の反復に付随するようにして、誰かが何らかの形で抵抗する力も繰り返される。破壊も絶望も続くが、抵抗も続く。OM-2の『ハムレットマシーン』は持続する抵抗の可能性を予感させる。
閉塞感と重苦しさが長期にのしかかるこの社会の風潮に少しでも抗うとしたら、この上演が暗示するように、単なる抵抗ではなく、絶望の続くなかでも持続する抵抗の耐久力が必要なのかもしれない。それは、生きづらい世の中がいっそう生きづらくなり、絶望感がさらに度を増しても、決して諦めない粘り強さである。「アウシュヴィッツ以後」や、「資本主義の終焉後」をテーマとした作品に代表されるように、何もかもが終わった後、それでもできるかもしれない何かを舞台化してきたOM-2は、観客にそのような持続力を促し続けているのだ。今回の上演は筆者にそう思わせる機会となった。
©玉内公ニ
上演プログラムには、俳優の体力の限界ゆえ、今回が最後のOM-2の『ハムレットマシーン』になるかもしれないと記されていた。『ハムレットマシーン』は終わるかもしれないが、ひょっとしたら終わらないかもしれない。終わったとしても、そこに残された何かを新しい作品に創り上げてくれるだろう。こんな期待を観客に抱かせるのも、上演後に残された抵抗の持続力ゆえなのである。
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