「個の核」から溢れ出る生のエネルギー~カフカとゲシュタルト療法の視点から
原田広美
(「まどか研究所」所長・心理療法家・舞踊評論家)  


©鈴木淑子
主要著書:『舞踏大全~暗黒と光の王国』
『国際コンテンポラリー・ダンス』以上、現代書館
まどか研究所 https://madokainst.com/

OM-2(演出:真壁茂夫)×柴田恵美(振付・共同演出)『傾斜 -Heaven & Hell-』
2020年2月14日(金)~16日(日) 会場 日暮里SUNNY HALL

*カフカ理解とフランス現代思想
  OM-2の作品は、1998年初演の『K氏の痙攣』から見た。だが初演ではなく、横浜の大きな会場で見たシカゴの俳優達とのコラボレーションの再演を見た。物語やあらすじはなく、実験的な身体劇だった。それは、今も変わっていない。横浜で見た『K氏の痙攣』では、最後に大きなスクリーン一杯に、何十という心理療法の名称がテロップで写し出された。

  今年で22回目を迎える夏の「ダンスがみたい!」(フェスティバル)は、彼らの当時の劇場「神楽坂die pratze」で、すでに始まっていた。その関連の催しとして、軽い気持ちで見た『K氏の痙攣』。そこで心理療法家でもある私の心は、捉えられてしまった。社会構造や出来事だけではなく、作劇法そのものからして、心身の闇(病み)に迫る姿勢が鮮明だった。


  そして2007年、ウィーンの夏7・8月の「インプルス・タンツ」と、ロンドンの秋10月の「ダンス・アンブレラ」の取材の間に、ウィーンからほんの2泊で赴いたチェコのプラハで、OM-2と偶然に出会う。私は、「インプルス・タンツ」で知り会ったプラハの舞踊評論家ニーナの家に遊びに行かせてもらうことになっていた。


  東京のOM-2に、久しぶりにメールを打つと「僕達も、その日にプラハで劇を上演します」との返事。これには、驚いた。何という縁なのだろう。その上、そもそも「K氏」で思い浮かぶのはカフカだが、ニーナの家は、かつてはカフカの姪(めい)の住まいだった。それで「カフカが宿泊して執筆もしたらしい」、というのがニーナの自慢でもあったのだ。

  そのカフカの故郷プラハ。カフカは、ユダヤ人、チェコ人、オーストリア=ハンガリー帝国(ドイツ語圏)人という三重のアイデンティティーを背負いながら、ドイツ語で書いた作家だった。ドゥルーズやガタリは、そこにカフカの精神的な病巣を見るが、心理療法家の私などは、それに加えて、カフカの個人的な精神構造ゆえの苦悩があったと感じる。

  国家や資本や社会的権力の構造だけで、人間の営みのすべてを判断・理解できるという発想こそ、まだ共産主義革命の末路に出現した「弾圧・粛清・構造的汚職」を知らなかった1970年代の捉え方ではないか。その汚点を直視せず、以前からの思考の構図を「無意識」の領域にも、そのまま構造主義として適応したのが、フランス現代思想だったように見えるのだ。


©大洞博靖
*構造主義の「マクロな視点」と、精神分析の「ミクロな視点」
  少なからぬ誤謬を含みながらも、人間理解において一つの指針を打ち立てた「精神分析」、戦後にはその末裔として発展した「心理療法」に対し、フランスの知識人達が、歴史的なドイツ語圏への対抗意識と、ナチスに服従した暗い時代の思い出を重ねて正面からは認めず、あいかわらず旧来の、いわば階級社会(資本家・労働者)という構造を意識した「マクロの視点」からそれらを揶揄し、崩壊させようとしたように、私には感じられなくもない。

  だが実際には、「精神分析」を担った人々の多くはユダヤ人で、彼らはナチス・ドイツから迫害を受けた。そしてそもそも「精神分析」は、ほぼ100年前、歴史的・社会的に抑圧されて来た「女性達の体」に起きた「ヒステリー」と呼ばれる硬直症状を、個々人の深層心理という「ミクロの視点」から解明し、快癒してゆこうとする試みだった。


  社会構造の中で「女性への抑圧」は継続されて来たが、前述のような大まかな「マクロな視点」を読み解いただけで、一人一人のヒステリーを快癒できるはずはない。その上、私達を取り巻く「現状」は絶望的なのだとして、また「主体」などないと言うくせに、挙句の果てには「逃げよ」という夢物語で、論を閉じがちだったのがフランス現代思想ではなかったか。かえってそれは、余裕のあるブルジョアジーの発想ではないだろうか。


  それよりも、個々人の「心身の闇(無意識的な内部)=『核』」に巣くう抑圧を解放し、その結果としての本人による周囲への働きかけや、それによる周囲の人々の対応や動きを含めて、何かゆるやかな中にも「日常的な組織」へ影響を及ぼし、それがさらに大きな「集合体・組織」や集合無意識への影響を創り出す。このような弱者の側からの「無意識レベル」=「核」からの働きかけを私は諦めたくはない。

  初めに「生の哲学」のベルクソンが「身体」を提示したものの、その後、言語学から発展したフランス現代思想だったから、結局「身体そのもの」からの発想が欠落してしまった。「身体」という語は重視されても、「身体論」という知性重視の「論」が一人歩きして、「身体」そのものに触れるメソッドや手がかりは、ほとんどなかった。またダンスはあっても、多くの場合、大切なのは「身体性」よりも、演出やコンセプトを含めた「振付」だった。

*表現主義的な「ダンス身体」と舞踏
  さて今回のOM-2×柴田恵美『傾斜~Heaven & Hell』は、横幅約15mの床面から、5mの高さまで、床面から36度の角度で大きく広がる斜面と、斜面手前・客席前の床面での上演だったから、一見は「権力や階級」に対する劇にも見えた。斜面は、黒いリノリウムで床から上部まで、一面に覆われていた。床面の1階観客席からは、見上げなければならないほどの圧倒的な斜面だった。

  斜面の上には、うつろな風情の一人の女が立っていた。心を病んで、生死の境目にいるらしい。彼女の背後左右の一面を広く覆うスクリーンの中央には、アナログの大きな丸い時計が映り、時計の横には、映像になった彼女の姿が並んで映っていた。そして、その前に、本物の彼女が黒い衣装で立ち、時折、苦悩を語り、時計の針を進める。彼女は、幸せではないらしい。


  やがて、今回の作劇コラボレータ―の柴田恵美(ダンサー&振付家)が、斜面の上部から摺り落ちて来る。そこへもう1人の女性が加わり、2人になる。2人は、少しお洒落な日常着のようなワンピースを着ていた。出演したダンサー達は9人の女性達で、中には、シャツと下までのキュロットスカートの者もいたが、皆だいたい、同じような服装だった。

  柴田を中心に集まった9人のダンサー達の中には、柴田の他にも2人、「ダンスがみたい! 新人シリーズ」の受賞者が含まれ、他のコンテスト受賞者や、東京シティ・バレエ団の者もいた。彼女達の動きは、いわゆる舞踊解体的で「コンテンポラリーな身体性」だった。だが単に物質的でもなく、「実存的」なニュアンスを伴いつつ、「身体」にかかる「重力」や、動きに付随する「惰性や慣性」をふんだんに取り入れた、余分な遊びを感じさせない動き。

  斜面から摺り降りる、転げ落ちる、また身を叩きつけるように駆け上がる。あるいは斜面の上手側から駆け上がり、斜面の上部・中央で、下手側へ身を浮遊させるように押し流し、滑り落ちる。彼女たちはスニーカーを履き、斜面の上でも、床上でも、スタンピングするように音をたてる。床上では、たとえば足を肩幅ほどの前後に開いて立ち、まず片腕が後ろに流れると、そこから身体のバランスを崩しながら移動する。


  何もかもが、美しかった。崩れること、立ち上がること、駆け上がること、浮遊的に身を押し流すこと、滑り落ちること。重力に対して嘘のつけない、「駆け上がる、あるいは堕ちる(落下する)」という「方向性」を含んだ「意志」を持ちながら、「実存的」に息づき、そして「物質的」に「重力」を受け入れる。その上で、スカートの下からは脚が、あるいはスカートの中の衣装が、生感覚で露出する。

  「意志」と「実存」と「息」と「重力」と「エロス(生命)」。そこには、それらがあって、無駄がなかった。一緒に行った、カント研究者の年下の友人は、ある音楽家が「まず人が立ち上がって歩くだけでも、どんなに大変なことなのか。そんな事実を忘れないように演奏している」と語っている、と教えてくれた。舞台を見ながら、その話を思い出したのだと言う。


  私は、それを聞いて「それこそは、舞踏のコンセプトだ」と思った。振付を担当した柴田が、それを考えていたということは、おそらくないだろう。だがそのような日本の「コンテンポラリーな(舞踊)身体」の資源を、きっと柴田は知らぬ間に範疇に収めていたのではないか。1990年代には「舞踏」の若い世代からの、意識的なコンテンポラリー・ダンスへの接近・融合もあったが、今日、両者の身体性はまさに融合的になろうとしている。


©玉内公一
*「表現主義的身体」の下での、「脱構築的な変容」
  OM-2が主宰して来た劇場は、神楽坂die pratze、麻布die pratze、そしてその2ヶ所を閉所後、現在の日暮里「d-倉庫」に移転した。だが一番初めのdie pratzeは、田端にあった。劇場がジプシーのように流転して来たのは、家賃が安い、取り壊し前の建物などをその都度、自分達で改造して使用して来たためである。聞いた話では、田端の頃から、舞踏公演(たとえば舞踏舎「天鶏」など)も上演されていた。

  また神楽坂die pratzeで開始した「ダンスがみたい!」の提案者は、舞踏の「大駱駝艦」出身の鶴山欣也だったし、その毎年のフェスティバルには、いつも舞踏公演もあった。そして前述の、2007年のプラハのOM-2の公演を劇場側とコーディネイトしたのは、1990年代には日本で舞踏をやっていたスイス人のイムレ・トールマンだった。OM-2の身体観が舞踏と近いので、人脈も重なっているのだと思う。


  「舞踏の身体性」は、感情をそのまま噴出させることはほとんどないが、「表現主義」の系列である。そこではリズムや跳躍や舞踊技が主役ではなく、「(自分が)いること、(身体が)あること、(心身で)感じること、息づくこと」が重視される。常識的な「立つ、歩く、話す、踊る」などの「身体性」を一度疑い、この世の大原則である「重力」の下に、それらを解体する所から始まると言っても過言ではない。

  今回のフライヤーにもあったように、OM-2は「常識を疑い、自由な身体を志向し、その奥底へと探求し続ける」劇団であり、「ありふれた演劇の価値に飽き足らない人、疑問を抱いている人」が集まっている劇団である。

  一方、柴田恵美は、フライヤーによれば「溢れて止まらない集中力で独創的な身体を表出する」、また「固定観念をなくし他者との摩擦により創作していくなかで聞こえる出演者の音や呼吸に次第に興奮と感謝が溢れ、・・」とある。


  そこには「自分という常識」をも疑う「謙虚さ」と「慎ましさ」、そして自らを「脱構築」させながら「変容」に向かう「チャレンジ精神」が潜んでいるのではないだろうか。OM-2の「その奥底へと探求しつづける」、また柴田恵美の「固定観念なくして他者との摩擦により創作」という言葉には、そのような姿勢が滲み出ているように感じられる。

*「民主主義」の「ミクロな視点」と、「個の核」からの解放
  ここで今回の舞台に戻ると、斜面と格闘し、あるいは格闘をしないことを選ぶダンサー達、そして傾斜上部の平らな場所に冒頭から立つ女の他に、もう一人「白衣の男」が、床面上手の小部屋の中にいた。女と「白衣の男」は、携帯電話で会話をする。この現代風な携帯電話でのやりとりは、かつてOM-2の『ハムレットマシーン』で、ハムレットとオフェーリアが会話をする場面でも見られたものだ。

  だが、オフェーリアが身を投げてしまったのと同様に、今回も男の声は、女を救うことはできなかった。常識的で現代的な「身体感」を伴わない携帯電話の会話で、人の気持ちを救うのは、難しいのかもしれない。そして、このような会話の他に、OM-2の上演で聞こえて来る声は、すべてモノローグなのである。モノローグ、それは告白ではないだろうか。


  「階級闘争」を意識した時代には、自己を振り返る「総括(自己批判)」があった。それは、往々にしてブルジョア意識を排除するリンチと化した。そして、また共産主義への潜在的な憧れを含んだフランス現代思想が解く「無意識」も、(社会)構造の中での位置取りという「マクロな視点」からの洞察によるもので、のっぴきならない「千差万別な個別の状況」を抱えた「個の核」を洞察しようとする「ミクロな視点」が欠如していた。

  カフカの苦悩を「三重のアイデンティティー」の構造として限定的に見るのなら、それは「階級闘争」の時代を引き摺る「マクロな視点」である、と私は感じる。共産主義へのロマンの破綻を直視し、「民主主義」の覚悟を引き受けた所からしか、その先の「個の核」への探求は始まらないというのが、私の持論である。共産主義こそは一党独裁であり、人々はリーダーとされる人達から教育を受け、支配・抑圧されざるを得なかった。


  資本主義やグローバリズムへの批判を言うのはいいが、それらに対する批判や嘆きよりも大切なのは、それを支える個々の「個の核」からの「解体的な変容(脱構築)」であり、それは各々の持ち場の中で、そして個々人の「主体の核」の中で行われ、結果として、逆にその総体が、「社会の意識・無意識」(秩序)となる、というベクトルを私は見落としたくはないのだ。


©丸山雄二
*「身体」「主体」のあり・なしと、「個の核」の問題
  またフランス現代思想では「主体という概念など、まやかしである」とも言うが、それは現実逃避の極致につながる思想である。確かに「主体」も、「社会の構造」に支配される部分があるのは否めない。だが、そこで「主体」や責任を放棄することこそが「絶望」であり、たとえ結果はどうであれ、現実に向き合い、ヒューマニズムや民主主義が脅かされるなら、それに逆らおうとする所に、「人間の尊厳」がありはしないだろうか。


  ドーバー海峡の対岸の英国からフランスを見たカズオ・イシグロが言うように、ナチス占領下で、フランス人全員がレジスタンスだったわけではなかった。ヴィシー政権しかり、ナチス・ドイツへの親和も歴然とあり得る状況下で、ユダヤ人の迫害にも皆が非協力的だったわけはない。それで、イシグロは「戦後にド・ゴールが、フランス人全体がレジスタンスだった」として、わだかまりを解いて国民をまとめる必要があったと言う。

  当然のことながら誰もが、戦後すぐには体制下で何が起きたのかを直視できたわけではなかった。我国でも石川淳、阿川弘之、武田泰淳、大岡正平らの戦後文学があり、映画『ゆきゆきて神軍』(監督:原一男1987年)があっても、日本軍の慰安婦への関与を認めた河野談話は1993年、村山談話が1995年、ドイツのヴァイツゼッカーの『荒れ野の40年』が1985年、東西ドイツ統合が1990年、フランスのシラクが戦時中のヴィシー政権がフランス政府だったと認めたのは1995年だった。


  私が言いたいのは、はじめに「生の哲学」のベルクソンが「身体」という語を提出したものの、その後、ソシュールの言語学を礎に発展したフランス現代思想で、「身体」は言語の中の「身体論」として語られ、「身体そのもの」に触れる手がかりを失っていたことだ。その一つ前の時代のアルトーには、「演劇」と「電気ショック」と「心身の病」という「生身」があったが、アルトーの文献から発想された「器官なき身体」論には、「生身の身体」がなかった。

  そしてフランス現代思想は、フロイトと同様に無神論の下に「主体」の問題を突き詰めたサルトルを排除するようにして進んだ結果、「主体」を取り囲む「構造」にのみ目が行き、のっぴきならない個々の「主体の問題」を置き忘れてしまった。

  それは私達にしてみれば、戦時中の個々の「主体の問題」を特に覆い隠さなければならなかった戦勝国フランスが、戦前には国際的な最前線を担ったドイツの哲学・思想を退け、国際的な中心になった偶然と相まった悲劇である。


  フランス現代思想に同調して「主体などまやかしである」と言うことは、直面を避ける「逃避」であり、行き着く先は「個の尊厳」の喪失である、と私は思う。私はそれを好まない。

  それで私は、この文章の後半で、元・日本兵だった「大野一雄の舞踏」と、ナチス・ドイツの支配下で、ユダヤ人を強制収容所(絶滅収容所)へ送る責任者だったアイヒマンの名前を冠した「アイヒマン実験」(ミルグラム実験)について、触れて行こうと思う。

*大野一雄の、「個の主体の核」から溢れ出るエネルギー
  大戦中と捕虜生活の10年間を中国、ニューギニアで過ごした大野一雄は、帰国後に心の傷を癒すようにプロテスタントに入信し、ダンス公演を始めた。ダンスは戦前から、勤務先の女子高で教えるため学んでいた。それは、当時の国際的スタンダードだった「ドイツ表現主義舞踊」である。そして1959年からは、息子の大野慶人ともども、「暗黒舞踏」の創始者・土方巽らと歩みを共にした。


  そのような大野を国際的にしたのは、1977年に国内で初演し、1980年にフランスの「ナンシー国際演劇祭」に招聘された『ラ・アルヘンチーナ頌』からである。戦前の若い頃、帝劇で見た、アルゼンチンから来たスペイン舞踊の名手アントニア・メルセ(通称アルヘンチーナ)に捧げた作品だが、前半は、ジュネの小説『花のノートルダム』の主人公で、老いた男娼・盗人で殺人者のデヴィーヌに因んでおり、それはおそらく、大野の日本兵としての悔恨がテーマの作品であった。

  大野が、横浜の「大野スタジオ」の稽古で、生徒達に向けて発した言葉を集めた『稽古の言葉』の中に、次のようなくだりがある。「どんな足取りでアルヘンチーナに出会うことができたんだ。死体を踏みしめ、踏みしめ。おれは歩むことができなかった。そのときにアルヘンチーナが手をさしのべてくれた」。あなたには、この意味が分かるだろうか。

  要するに大野は、戦場のどうしようもない極限状態の「絶望」の中で、「デジャヴ(白昼夢)」に襲われた。そして、その中に現れたアルヘンチーナに手を差し伸べてもらい、ようやく歩き、帰って来ることができたのだ。それは大野の「個の主体の核」の中にある潜在意識から、「まだ生きなさい」というささやきのメッセージが、「白昼夢」として送られて来たということではなかったか。


  大野は、日本兵としての自らの体験と行為を、国際情勢や役割の中で割り切ろうとはしなかった。その場では、自らのために、また大野の帰りを待つ家族のために、命をつなごうと、割り切るしかなかっただろうが、戦後の大野は、それらの体験を忘れることも、割り切ることもできなかった。

  「ぞろぞろとあの人、この人も、知らない人までいっぱいくっついてきてる。くっついてきてるのでなければ私は舞台に立てません」。このように大野は、自らの「罪の意識や懺悔や悔恨」を、「精霊になった者達の魂」と共に踊り続けた。

  自らの悲惨な体験と悔恨と懺悔、そして命を落とした者達の思いを「国境を越えて、人々と分かち合いたい、伝えたい」という、「個のミクロな主体の(パーソナルな)核」から否応なく溢れ出るエネルギーが、大野の世界進出への原動力ではなかったか。


©森田友希
*「個の主体の核」から溢れ出るエネルギーを堰(せ)き止める「トラウマ」と「抑圧」
  この大野のような感覚が、1970年代に青春を過ごした者達には、なかなか理解されにくいらしい。政治闘争でなくては物足らない、と彼らはよく言う。しかし「マクロな視点の(資本主義を否定する)革命」の行き着く先は、すでに見えたではないか。結局、そこで問題になったのは、人民や民衆の名の下に権力を握った者達の、エゴイズムや心の歪みの問題であり、言い換えれば「個の主体の核」の問題である。


  また司法も三権分立も「民主主義」も大事だが、私達の見知った「政治」や、身近な「生活」に、常に付随するのも「個の主体の核」の問題である。だが、それら対する直面力の不足は、一体どこから来るのだろうか。それは自己防衛的な「勘違い(トラウマ)」を含む、「怖れ」からではないだろうか。

  少なからぬ者達が、自分でも知らぬ間に「自らの感受性」を閉ざし、損托し、マジョリティーの側に立てば安心だという「勘違い(トラウマ)」を内包している。それが、溢れ出るエネルギーを堰き止める「抑圧」の原因なのである。


  今回の『傾斜』Heaven & Hellで、上手の斜面の下にいた「白衣」の男は、斜面の上にいた女を気づかい、好意を寄せているようだった。しかし男の好意は伝わらず、最後に女は、観客側ではなく、あちら側の「映像として映った荒波」に、身を投げてしまう。坂の上にいた女は、傾斜に駆け上がろうとする者達や、落下し、奈落とも見える床面に留まる者達に対して、一見は、勝利者のような場所に位置取っていた。

  しかし女の「個の主体の核」からは、生きるためのエネルギーは溢れ出ず、それが堰き止められたまま身を投げてしまったように思われた。そして「白衣」の男は、女を引きとめることができなかった。「白衣」が、知的な職業、「身体」よりも「知性偏重」の職業と生き方を暗示していたようにも感じられる。


  要するに、「身体」の影の薄い所では、「個の主体の核」も茫漠として見出すことができないのである。

*「表現主義」「即興」と、「個の主体の核」から溢れ出るエネルギー
  その2人に対し、「身体」に宿る「個の主体の核」を開き、「表現主義的」に溢れ出るエネルギーを表出したのが、9人の女性ダンサー達と、後半に下手から現れた佐々木敦だった。佐々木は、2000年頃に、舞台美術や黒子としてのスタッフから、稽古の最中に「即興的」に演技者となり、突然変異が起きたようにOM-2の中心的な俳優になった。

  その後の佐々木は、「表現主義的」で「即興的」な身体演技と、呻き・叫びなどで知られた。最初は、引きこもって過食に走る者が、抑圧されて溜め込んだエネルギーを放出するかのように、冷蔵庫を転倒させ、雑誌や食べ物を引きちぎり、呻き、叫んでいた。血糊のような赤いインクを噴出させ、サイコロ型の大きなバルーンの中で、消火器を噴射したこともある。

  OM-2は、元は「黄色舞伎團(おうしょくまいぎだん)2」だったが、その頃に劇団名を元の劇団名に因(ちな)んで改名した。だがOMと言えば、私などは、戦後のウィーンのアクショニズムのヘルマン・ニッチュの「OMシアター」を意識したものではないのかと、感じなくもない。OM-2には、動物虐待のニュアンスは全くないのだが。


  今回の『傾斜』の中の佐々木は、基本的にはこれまでと同様の「身体性」を重視しつつも、「身体の動き」をコンパクトにまとめ、机上の「音響版」に、鋼(はがね)でできた小さな生板(まないた)のようなものを叩きつけていた。

  だが動きはコンパクトでも、100kgを超える巨体から、容赦なく表出されるエネルギーは暴力的で鋭く、また重厚なもので、爆音は激しく空間を割き、飛び散るように思われた。佐々木自身の「個の主体の核」から噴射したエネルギーが、関節は脱力的でありながらも、腕を始めとする身体の各部に一度ためられた後、ニンマリとした、エゴを解き放った地蔵のような表情で、おもむろに表出される。


  この佐々木とダンサー達の、とめどないエネルギーは、「個の主体の核」から湧き出るものに思われた。彼らは、斜面の上にあっても、途中にあれ、下にあれ、「個の主体の核」のエネルギーの「源のスイッチ」を開く術(すべ)を心得た者達に見える。やがて彼・彼女らは、疲れ果ててうずくまるが、最後には柴田が闇の中で、脱皮するように服を脱ぎ、また再開の時が来ることを予測させた。


©大洞博靖
*「アイヒマン実験」と、「権威」の下の傍観者
  私が「アイヒマン実験」と、依然高い日本の自殺率と、「いじめの構造」を並べて語りたいのは、ここである!!「アイヒマン実験」とは、ナチスによるユダヤ人大量虐殺の責任者だったアイヒマンが、戦後に潜伏先のアルゼンチンで逮捕されて、イスラエルで裁判にかけられ、死刑判決を受けた翌年の1962年に、アメリカのイェール大学で心理学者のミルグラムによって行われたものである。

  アイヒマンは、結婚記念日に妻に贈る花束を買ったために身元が判明して逮捕された。また裁判を通してアイヒマンは、ごく一般的な市民に見えた。それらのことから、その実験は「アイヒマンをはじめ、多くのナチス戦犯たちは、そもそも特殊な人物なのか。それとも一般的な市民であれ、一定の条件下では、誰もがあのような残虐行為を犯すものなのか(*参照wiki)」という疑問を解くために提起されたのである。


  また裁判の過程で垣間見られたのは、「人格異常者ではなく、真摯に〈職務〉に励む一介の平凡で小心な公務員(参照*wiki)」としてのアイヒマンの姿だっただと言う。本人は「私は命令に従っただけだ」、と述べた。こうした経緯を経て、「アイヒマン実験」では、「権威への服従」の度合いの測定が主眼となった。


  「教師役」をあてがわれた実験参加者が、姿の見えない生徒役に対し、生徒が誤答するたびに罰として電気ショックを与える。誤答の回数が増えるごとに電流は高くなり、生徒の苦しみの反応も大きくなってゆく。実際には電流は流れておらず、生徒の悲鳴も録音だが、それを知らない実験参加者の脇には、「権威的」な実験者がいて、実験の継続を促すのである。

  生徒役の悲鳴や反応は、しだいに激しさを増し、そのうち気絶したように声も聞こえなくなる。しかし事前の実験者達の予測を遥かに超えて、声が聞こえなくなっても、「教師役」 の実験参加者の65%が高圧電流を流し続けた。途中で、実験を疑う者、辞退を申し出た者もいたが、「権威的」な実験者の働きかけから逃れ得た者は、まずいなかったのである。

*「権威の構造」や「死」と対峙する、「個の主体の核」から溢れ出るエネルギー
  この実験に見られるような、人間関係の「権威的な構造」から免れるためには、その「権威的な構造」を打ち破るための、「個の主体の核」から溢れ出るエネルギーを伴う「身体性」が必要である。疑問が生じた時に、自らその「権威的な構造」に対峙し、そこから逃れるためには、理論のみでは不足なのである。


  今回の『傾斜』の中で、そのエネルギーが開かれていたのが、9人のダンサー達と、佐々木だったと思う。

  身を投げた女もそうだが、女を助けられなかった「白衣」の男も、「個の主体の核」から溢れ出るエネルギーを開き損ねていたのだ。抑圧的な幼年期、子供時代を過ごした私にも、かつてはそのような傾向があった。特に10代後半からが難しく、時には自信がある人を見ただけでも加害者に見え、死にたいと思ったこともないわけではない。それで20代の10年間は、心身の解放や心理学の勉強に明け暮れて過ごした。

*「権威の構造」から脱出したパールズの「ゲシュタルト療法」
  私のもう一つの仕事は心理療法家(サイコ・セラピスト)だが、そのベースは、戦時中に 故郷のドイツを離れ、ニューヨークへ渡ったユダヤ人のフレデリック・パールズ(元・精神分析医)が創始した「ゲシュタルト療法」である。パ―ルズにも、悔恨がある。ドイツを出る前に、「いくらユダヤ人の親戚や友人・知人に、脱出を呼びかけても、皆、まだ大丈夫だと答え、大半はガス室で命を落とした」のだと言う。


  ナチスの将校や高官も、なかなかレジスタンスにはなれなかった大多数のフランス人も、大野一雄を始めとする日本兵も、日本人も、また気がついたとしても、逃亡となれば全財産を没収されて、「着の身着のまま」になる危険な賭けに出そこなったがために、逃亡できなかったユダヤ人も、誰もが、その時、その場の「権威の構造」や常識に逆らうことは、文字通り「命がけ」であり、難しかった。

  だが、そこから脱出したパールズこそが、一緒に脱出した妻のローラ、そしてニューヨークで知り会ったアメリカ生まれのユダヤ人のポール・グッドマンと共に、「ゲシュタルト療法」を生み出したのだ、と改めて私は思う。

  その時、その場の「権力構造」(パールズにとってはナチス・ドイツだった)よりも、「個の主体の核」から溢れ出るものに敏感で、そのエネルギーの源のスイッチを開けておくこと、これは文字通り「生き抜くために」、パールズにとっては不可欠なことだった。


©森田友希
*いじめの問題と「傍観者」
  先日、NHKの「いじめ」をテーマにした小中学生向けの番組で、とても気になることがあった。中学生だと思うが、「自分がいじめられた」時、「首謀者」も、「傍観者」もそれを笑い、「自分」もまた「皆と一緒に笑っていたいから」、笑ってしまうと言う。元AKBの高橋みなみが、疑問を呈しながらも、手紙の送り主を傷つけないように、気を配りながら番組をまとめていた。


  本当は「苦しいので、何かの答えを求めて」番組に手紙を書いたのではないか。手紙に書かれていたのは、とても破滅的な光景だ。私が中学生の時にも、「いじめ」はあった。I君という小学校から一緒だった無口な男子生徒が、放課後に、階段から突き落とされるようになった。2つの小学校が合体し、団地もできたので、幼馴染(おさななじみ)の思いやりから外れた行動が、男子中心に見られるようになっていた。

  私はバレー部だったが、バレー部の部員は声を出すのが得意だし、私達は昼休みに、よく音楽室で合唱もしていた。私達の中には、北海道の炭鉱・閉鎖後に、転校して来た背の高い女子生徒がいた。その子は、声が大きくて、はっきり物事が言えた。私達は、その子にリードされて、いじめの現場に駆け付けては、「やめなさいよ、なぜそんなことするの?」などと言い立てて、いじめの首謀者を退散させた。


  大人になっても、さまざまなことを体験したが、肝心な時に声を閉ざしてしまう「傍観者」は、少なくはない。面倒なことに巻き込まれたくない、という「怖れ」を土台にした「防衛反応」が出てしまうのだろう。ただし、それはやはり「トラウマ」に基づく「抑圧」が無関係ではないと思われる。そして結局は、見の周りの「自由な精神エリア」を狭める勢力に加担してしまうのだ。

  海外では「皆がやるなら、自分もやるのが日本人」などと揶揄されるほどだが、そのような国民性に加えて、世の中が保守的になり、子供や若者のエネルギーが、大人や親や社会に向かうのではなく、より弱者に向けて発動されるようになった。

*「傍観者」の問題と、「主体の核」から溢れ出るエネルギ―のスイッチ
  子供のいじめにも、グループやクラス、親や教師、学校や地域を含めた「のっぴきならない」力関係や、体格や凶暴さを含む偏った性格など、さまざまなことが関係している。


  ただし、いじめの首謀者が「主体の核」から溢れ出る〈歪んだ形のエネルギー〉として、陰湿ないじめを繰り返すのであれば、それを止める多数派になり得る「傍観者」にも、それを否定するだけの「主体の核」から溢れ出るエネルギーが必要なのだ。

  「いじめ」を不快に感じた者が、その意思表示を「主体の核」から溢れ出るようにできるなら、そして周囲の者達も「主体の核」からの溢れ出るエネルギーとして、それに同調できるなら、すぐに多数派になり、被害者も「やめてくれ」と言いやすくなる。


  ここで大切なのは、「主体の核」からのエネルギーの源のスイッチが、開放されているかどうか、なのである。

  私がOM-2の舞台とリンクして来たのは、そのような「主体の核」から溢れ出るエネルギーの源のスイッチに対して、関心が重複する所があったからだ。OM-2の演出家・真壁茂夫の著作には、『「核」からの視点』(れんが書房新社)がある。

  そして言ってみれば、私が、生き抜いて来ることができたのも、物書きになれたのも、大局的な見地から言えば、「主体の核」から溢れ出るエネルギーをもって、ナチス・ドイツから脱出し、ニューヨークで「ゲシュタルト療法」を創始したパールズのお陰である。


  要するに、「アイヒマン実験」をまだ言い訳にするような所(人)には、死にたい人を助ける力もないだろう。こう書いて、自分が問われる大変なことを書いてしまったような気が、しないでもないのだが。

*「ゲシュタルト療法」のパールズと、アンナ・ハルプリン
  そして、この文章を閉じる前に、「ゲシュタルト療法」のパールズ(1893~1970)と、「ポストモダン・ダンスの母」と呼ばれるアンナ・ハルプリン(1920.7.13~)の関係について、述べておきたい。私は、心理療法家であり、舞踊評論家でもあったから。(これからについては、よく分からない)


  晩年のパールズは、カリフォルニアのニューエイジの聖地となったエサレンに講師として呼ばれた。その頃に西海岸でハルプリンと出会い、2年間、彼女のダンス・グループに呼ばれる形で教えた。ハルプリンは、「即興」のパフォーマンスの最中に表出される「感情」の問題について、パールズから学びたいと考えていた。

  このパールズに学んだハルプリンは、その後、国際的にも知られる大変なワークショッパーとなった。ワークショップで参加者の関係性を融合させた後の最終日に、観客となる「目撃者」を集めて、儀式としてのパフォーマンスを催すのが彼女のスタイルだった。


  たとえば公民権運動が、まさに絶頂を迎えた1968年には、「白人と黒人」を一緒に参加させた『アメリカ合衆国の儀式』を開催し、1980年代以降は、「癌やエイズの患者と健常者」を一緒に参加させた『サークル・オブ・ジ・アース』を開催した。

  自らも40代には癌を発症し、一度は手術を経験した。だが5年後に再発した際には手術をせずに、そもそも発病以前にパールズに学んだドローイングと「感情」や「捉われ」の解放のワークで全快させた。そして、その後は無事に活動を続け、今年の7月で100歳になろうとしている。


  大切なことなので、「感情」や「捉われ」の解放が「自然治癒力」をアップさせることも、ここで述べておこう。『サークル・オブ・ジ・アース』の最後に行う儀式的なパフォーマンスの場では、参加者達は一人一人、「I want to live!」と叫んで、目撃者(一般に言う観客)達の前を走り抜けるのが恒例だった。

*「主体の核」から溢れ出るエネルギーのスイッチ
  OM-2には、『Living』(私訳:生きていること/生きるということ?)という作品もあった。生きること、生の衝動、「個の主体の核」から溢れ出るエネルギーの源のスイッチ、出演者に対してはもちろんのこと、観客達のそのスイッチを「onにしよう」と促すのが、OM-2の劇なのだろうか。


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