一人語りに他者性を導入するための格闘
藤原央登
劇評家

女の子には内緒『ささやきの彼方』
2017年3月9日(木) ~ 14日(火) 会場 ONLY FREEPAPER ヒガコプレイス店(東小金井)


©朝岡英輔

  2016年度のせんだい短編戯曲賞を受賞した『ささやきの彼方』は、約45分の作品である。この中に、作・演出の柳生二千翔の魅力が十分に詰まっている。女の子には内緒は、2013年に柳生が設立した演劇ユニットである。柳生の作品を観るのは今回で3作目だ。初見は2015年11月、blanclassという横浜市の住宅街にあるアトリエで上演された『手のひらコロニー』。街中をチープなおもちゃや小物で見せる美術に、映像・照明を含めた演出にセンスの良さを感じた。中国や中東情勢といったアクチュアルな問題をも想起させる、境界線を巡る作品であった。2作目は今年1月、青年団とこまばアゴラ劇場が運営する演劇学校、無隣館の若手自主企画vol.15 柳生企画での『メゾンの泡』(アトリエ春風舎)。近未来の集合住宅を舞台に、階層で分断された人間を描いた内容だった。富裕層は上層階に、そうでない者は汚染された地上での生活を余儀なくされている状況を描くこの作品でも、境界線というテーマが浮上していた。それと共に今作を観て了解したのは、柳生の関心が街と人の関係性を巡ることにあるらしいということであった。都市の現代的な描写と、そこに住まう人間の生き様。そしてその交叉点を巡る思考。1993年生まれの若い作家の現時点でのこだわりが、今作では強く伝わってきた。


©朝岡英輔
  一人芝居である本作の魅力は、「私語り」という意味での一人語りから脱しようとする格闘が看て取れる点にある。たとえ第三者として語っても、そのような立場で語るのは舞台上に立つ俳優である。どれだけ一人語りではない様相をつくろっても、結局はその俳優が語る限りにおいて一人語りにしかならない。それが舞台上に表れることの事実である。その上で、別の人物の言葉や状況説明といったナレーションを、彼/彼女とは違う人物や位相にあるという体(てい)で、観客は受け止める。そもそも、俳優が役を演じること自体がそのような矛盾を抱えている。役を演じるとは、別の誰かを身体に憑依させるのでも、自らを役に献上するのでもない。役と俳優の内的な拮抗を行うことによってその都度、演じながら新しい自己を発見すること。絶えることのない自己創造の試みが、役を演じることである。それが60年代以降に登場した演技論の根幹である。一人語りという手法は、普段は等閑に付している演技にまつわる矛盾や本質が、露骨に顕れてしまう。
  そういう意味では本作も、複数の女性を語る女優・高山玲子の一人語りということになる。彼女が語るのは、ホームから飛び降り自殺をした女性と、この女性をホームの反対側から見た、中学生時代の友達。事故を起こした電車に乗っていた女性。彼氏の家からの帰路、事故のために踏み切りで足止めされた女性。反対側の踏み切りでは、同じく仕事帰りの女性が足止めされる。そして、それらの女性たちを俯瞰して見る視点もある。一人暮らしの部屋に帰ってきたような雰囲気で舞台に登場し、コンビニで買ってきたタラコスパを食べる侘しい一人の女性がそれだ。舞台は、孤独を抱えたようなこの女性=高山の妄想なのかもしれない。高山は声の大小を使い分けるとはいえ、澄ました表情で淡々と語って感情の起伏が少ない。だからあらゆる語りは、高山玲子として発せられたもののように聞こえる。そして観客は45分間、ふわふわとしてちょっと不思議な雰囲気が魅力の高山玲子という女優を見続けたのである。それはまさに、一人語りとしか言いようがないものだ。しかしそれでいながら、単なる一人語りに終始していない。なぜか。登場する女性たちを別々の他者としてそれらしく演じるのではなく、やがて一人の人間へと収斂するように戯曲があらかじめ書かれているからである。一人語りが陥る矛盾が折り込まれているのだ。この矛盾への自覚が、一人語りに他者性を導入するための格闘を促す。すなわち、他者が合一した一人の女性が、最後には観客を含めた都市に生きる人間に当てはまるようにも戯曲が設計されているのだ。別々の人物のモノローグを積み上げることが、劇を多角的に見せるという意味で公的なものであるとすれば、やはり私的な一人語りでしかないじゃないかと途中で思わせて私的な位相へと閉じながら、最後にはそれこそが現代人が共通して抱えている侘しさであることを了解させて再び公的な領域への回路を開く。例えるならば、ひょうたんを横から見た形状のように、この舞台の公私のレンジは激しい起伏を描きながら揺れ動いているのである。

©朝岡英輔


  この揺らぎは例えば、線路を挟んでホームから見詰め合った2人の女性が、互いに相手を理解するシーンで表現される。かつてのクラスメイト・女Eを発見した女Dは、「一瞬で、あ、こいつ絶対飛び込むんだなって思った。その一瞬でその子のこと全部分かったような気がしました。」と語る。視線を感じた女Eは、「あの子は、いつかの私と、同じ目をしていた。」と語る。死を決意した女Eは、彼岸へ行かんとする場所にいる。そこからみれば女Dはまだ此岸にいる。だが女Eもかつては此岸にいた。その時の自分と同じ目をしている女Dも、いずれは彼岸へと旅立とうとするのかもしれない。だから女Eは思う。「いったい、この街には、どのくらい、私のような女がいるのだろう。その中に、私にならない者はいるのだろうか。」と。茫漠とした不安心理をフックにして第三者が私へと同一化し、さらにそこに街に住まう者をも取り込んでゆく。
  また劇の後半には、いかに自殺は迷惑であるかを語って、この舞台で唯一、高山玲子が声を荒げるシーンもある。結局は独りよがりな独白じゃないかという、観客の思いを代弁するかのような、物語を相対化する視線である。そう語るのも高山玲子である以上、それすらも一人語りへと収斂せざるをえない。だが劇の全体を通して、様々な位相の語り口を用いて他者の視線を導入しようとし、一人語りからなんとか脱しようとする軌跡は感得できる。そういう意味で、今作にも自他についての境界線を巡るテーマが孕まれている。演技論へも通じる演劇的な語りの格闘が、都市を生きる人間の苦悩へもつながっているのだ。そう感じさせられるほど、淡々としながらも高山が語る「女性たち」には不思議と切迫感があった。


©朝岡英輔
  そんな女性たちが孤独感を抱いて住まう街は、『手のひらコロニー』でのようにチープに表現される。舞台空間に置かれた大きなテーブル。そこには、円形の線路を走るプラレールと、人間や動物の人形が置かれている。下手のプロジェクターには夕日や海、河川敷のような映像が投影される。大勢の人々が行き交う都市の中で、誰もが自分のように孤独感を感じている。同じ孤独ならば、いっそ誰もいない場所に行きたいと思うが、いつまでもぐるぐると巡るプラレールのように、街から出ることができない。そのような街を背景にした人間の姿を、少ない小道具を用いて最大限にイメージを喚起させるようにしつらえられている。
  それだけではない。この舞台が上演されたONLY FREE PAPERというフリーペーパー専門店は、東小金井駅から100メートルほど続く、ヒガコプレイスというコミュニティスペースのひとつである。飛び込み自殺する女性を描くという劇内容に相応しい場所として選ばれたことは明らかだ。そして、たびたび線路を走る中央線の電車の音が、劇の内容とシンクロして客席に流れてくる。聴覚刺激によって、常に上演空間の外に広がる街並みを想起させられながら、一人語りという極小の物語へと再び集中させられる。舞台が上演される場所自体が、公私の境界線上にあるのだ。
  自他の境界線の淡いを感じさせながら、テクスト、上演場所、演出がないまぜになって、外部の目線をなんとか導入しようとする試みが舞台全体に貫かれている。そこまで試みても、結局は一人語りに収斂するしかない。しかしそれは、外部や他者を導入することの自覚された困難の結果である。そこが興味深く、また真摯さを感じさせられた点である。そこまで踏み込んではじめて、一人語りは自分に酔うだけの閉じた私語りではなく、多用な意見を持つ者にも「私もそうなのかもしれない」と思わせる力を持つのだ。現代人の孤独さを切実かつ客観性を担保しながら描こうと格闘した本作は、柳生のセンスの良さを改めて示したのである。

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虚空に根を生やす
北里義之
音楽・舞踊批評

菊地びよソロ『空の根~内奥からの光粒子とその動向』
2017年4月4日(木) & 2017年4月5日(金) 会場 THEATER BRATS




1 土塊と身体
  ステージ上手に黒々と盛られた土の塚。公演の開始とともに、冬籠りしていた虫が啓蟄の季節に土中から這い出てくるように、静かに動きはじめたそのものが、手足や腹を少しずつ露出させていくと、やがて観客にも、それが黒々とした土のうえに背中を向けて横臥した半裸の身体であることが見えてくる。背中を向けた身体が、尻の穴をすぼめるように全身で伸びをすると、土のうえに頭が乗った。土を枕にするように仰向きになった踊り手は、右手を動かしながら観客席に向きなおる。土まみれの身体は、観客席側に横転してうつぶせると、土を抱くような姿勢になった。上体を立て、尻をあげて四つんばいの格好になると、下手の床から照明の光がやってきて、身体が進むべき空間を素描する。踊り手は膝をつき、左脚を大きく横にまわすようにして土の外に足先を出した。意識しなければわからない、聞こえるか聞こえないかというくらいにかすかなグリッチ・サウンド(音像ははっきりとせず、もしかしたらラジオ・ノイズだったかもしれない)が鳴っている。
  土だらけになった身体が移動をはじめる。下手床からやってくる光に完全にとらえられた踊り手は、立ち歩きするでもなく、床上を膝行るでもなく、私ははじめてそのような形をして動く身体を見たのではあるが、あえていうなら床に手をつくことのない四つんばいの姿勢といったらいいだろうか、あるいは、足を前に出して深く床に腰を落とした姿勢のまま、前屈した上体を両脚の間に沈める格好といったらいいだろうか、そのようなものが、盛り土の外へ、ステージの床へと踏み出していくのである。どこか昆虫を思わせる奇妙な身体の形と歩行は、光のなかを蠢くという印象を与える。下手床ライトの前まで行きつくすと、そのものは両手を床につけ、あるいは目の前に伸ばしながら、尻をあげて遠くに見えるホリゾントの方向に後退をはじめた。身体に無理がかかるのか、骨がポキポキと音を立てるのが聞こえ、踊り手の身体はしばしとどまって波打つ動きを見せた。床のうえで乾いた土の跡に、歩行の痕跡が残されていく。照明がステージ前から奥へと空間を広げていき、踊り手はゆっくりと後退をつづける。

2 「空の根」の系譜
  公演冒頭にあらわれたこのショッキングな場面は、人間の身体が土塊と等価な物質であることを(「表現」するのではなく)提示するものといえるだろう。踊り手はここからはじめるという宣言をしているのだ。土から生まれて土に還るというのは、『聖書』でよく知られたキリスト教の人間観につながるが、ここではあくまでもダンスにつきまとうヒューマニズムの影を廃棄するために採用された戦略であり、それを誰にでも感覚可能にするような決定的な演出だった。菊地びよの公演歴をたどると、「空の根」(クウノネと読ませる)というタイトルのソロ公演は、中野スタジオサイプレスでの『空の根~浮遊の背景とその有り様』(2015年11月8日・9日)、惜しまれつつ閉業した明大前キッド・アイラック・アート・ホールでの『空の根~声の生まれるところ』(2016年9月9日・10日)と踏み重ねられてきたが、前回の公演を踏襲して盛り土を採用したのは、そこでやり残したことがあると感じられていたからであるらしい。ときどきのサブタイトルに明らかなように、「浮遊」「声」「光粒子」と、公演はそれぞれに身体探究のキーワードになるような言葉を(とりあえずは踊り手のために)提示している。
  土の使用がなかったサイプレス公演では、「浮遊」に重点が置かれ、菊地の踊りは、大海原の風を全身に受けてはためく帆船の帆のように、両手を大きく広げ、ときに大きく、ときに細かくウェーヴさせる動きを前面に押し出し、前後する上半身、上下する腰とあいまって、片時もとどまることのない微細な変容を重ねていった。このときも、今回の公演同様に、かすかな声や息、心臓の鼓動らしきくぐもったビート音がかすかに鳴っていた。彼女にとっては、生命的なるものを喚起する即物的サウンドといえるだろう。そうした生命的な環境をしつらえながら、床のように全身が平べったくなったり、水中の海藻のようになったりしてゆらめく菊地の身体は、場のエネルギーを全身で呼吸するスポンジのようだった。ここでの「浮遊」は、踊りの動きの特徴を言いあらわすものであると同時に、身体をエネルギー発生装置にするのではなく、身体の内外を透過させつづけることでエネルギーの開放状態を保つ作業のことといっていいだろう。「浮遊」「声」「光粒子」という要素は、どの公演にもあらわれてくる共通した身体のありようだが、パフォーマンスのたびごとに関係性を変化させ、踊る身体に多面性とときどきのテーマを与えるようである。
  土の使用については、さらにもっと前におこなわれた公演にヒントが見つけられる。それはダンサーの喜多尾浩代が主催するシリーズ公演「身体の知覚」の第2回に参加しておこなわれたソロ公演『vie-vibrate organs──波動態』(2014年1月12日、東中野RAFT)である。ダンス作品を踊るというのではなく、参加した踊り手がソロ・パフォーマンスによっておこなう「身体の知覚」(カラダノチカクと読ませる)の探究をおたがいに見あい、観客とも経験をシェアするという特別な趣旨を持ったシリーズ公演のなかで、薄暗い照明のなか、みずからの心音を録音で流しながらステージ中央で横になった菊地は、ほんの少し足をあげて中空に浮くような姿勢からスタートした。これは文字通り「浮遊」を身体の形によって表現したものといえるが、このときの空中浮遊まで「空の根」の系譜を伸ばしていくと、土塊のなかからの登場は、けっして突然に思いつかれたものなどではなく、あのとき空中浮遊していた身体が、実は「光粒子」のように浮かんでいたのだということを、観客にも感覚できるように、ある意味では、ストレートに過ぎるやりかたで可視化したものであることが、はっきりとするように思われる。

3 虚空に根を生やすために
  『空の根』の自己解釈を、特に土の使用の意図を、菊地は以下のようにプログラムに記している。

「いのちそのものになりたい」「この作品では土という粒子を感じ、粒子とからだが一体になることを試み、いわゆる布の衣装を纏わずに土の粒子を纏ってみる。そして皮膚が粒子となり外部と触れ一体になっていく方へ。とて、こうしたからだという形からは逃れられないけれど。」

  土まみれとなった身体は、物質と等価になることでヒューマニズムを廃棄し、土の粒子に感応して肉塊としての身体を消し去り、サブタイトルに示されたような「内奥からの光粒子」と化したであろうか。「動向」という言葉は、まさしくそれが観察者の目がとらえた物質の動きとしてイメージされていることを意味している。舞踏を観ることがひとつの行為になるのは、おそらくこうした目に見えない(光粒子の)身体すらも感受することのできる目を獲得するところにあるのだろう。私に見ることができたのは、土塊によって変容させられた物質としての身体、換言すれば廃墟化した身体であり、見たことのない形をした奇妙な生きものの歩行である。前回の公演では、くりかえし波打つ身体と声に意識が集中し、声を通して身体がエネルギー化していくさまを感得することができたが、その一方で、最前列で観たにもかかわらず、盛り土の横に同じくらいの床スペースがあっただけという会場の狭さのせいだろうか、踊り手の歩行が強く印象に残ることはなかった。今回はこの関係が逆転して、歩行によって生み出された生命的なるもの、特にそのいびつなありように深く魅了されたのである。
  奥行きのあるシアター・ブラッツの舞台をフルに使って、ステージを時計回りにゆっくりと歩いた踊り手は、動きをていねいにつなげながら盛り土のところまで戻ってくると、言葉や感情をもたない、これまた「物質的」と形容できるような声を使いはじめた。いうまでもなく、声も形のない身体として観客に届くものであり、菊地が希求する身体像を簡潔にあらわす媒体として探究が重ねられ、公演で頻繁に使われてきたものである。実際それは物質としての身体と光粒子の間に位置するものであり、スピードの遅い鈍重な身体をもった波動そのものである。公演によっては、声がいびつさを備えた身体のように発声されることもあるが、本公演では、過呼吸をしたり、反り身になるタイミングで自然に出てしまう声など、声は身体とダイレクトにかかわりあう分離不可能なものとして、それ自身が特別な意味を胚胎しない、即物的なありようを見せていた。
  現代物理学の知見を参照し、光、あるいは光粒子というものを、物質をもっとも高速で動かす波動というふうに考えるなら、菊地びよの『空の根』は、身体をそのようなものへと解放していく物語を埋めこんだ作品であることがわかる。ある瞬間にこの身体は消え、(目には見えないが、さらに上位にあると想像される)別の身体へと転生するというように。土塊からの登場は、この物語を視覚的に構成するのに大きく貢献した。しかしおそらく観客がそこに観たものは、(ダンスのヒューマニズムを廃棄したという意味での)物質化された身体の、彫刻的といってもいいような造形であり、そのような造形をもった身体と、光粒子としてエネルギー化していこうとする身体との相克であったように思われる。「からだという形からは逃れられない」という菊地の言葉には、どこか諦念めいたニュアンスが感じられるが、本公演に関するかぎり、両者の関係は、物質的身体の魅力が増せば増すほど、粒子化もより強く希求されるという相克関係にあったように思われる。

4 身体の探究と作品性
  ダンス作品のクリエーションを支えるテクニックを習得して、ダンサーがダンサーとして生きはじめるはるか以前から、つねにすでに存在してきた身体そのものに目を向け、「いま・ここ」の瞬間から、時空間を自由に越えていく(イマジネーションの)ための器にしていくという発想は、他のどんな舞踊ジャンルより、舞踏に特化してあらわれているように思われる。そこでは日々のワークそのものが身体探究の場であり、過程であり、くりかえされる深淵へのジャンプであり、人間の謎への接近である。そのような身体の探究においては、作品や(アンチも含んだ)ドラマツルギーを不可欠とする場の共有のしかたは、行為する身体であるダンスを内外にわける決定的な境界線とはならない。どれほどみごとに完結した演劇的構成を備えた作品でも、身体探究の一過程という側面を切り捨てることができないからである。公演に向けてのクリエーションは、小屋を借りたり情宣をしたりという制作面ではありえても、身体そのものに即しては存在しない。



  そうであるならば、つねにすでに身体探究の過程であるようなダンスにとって、観客を迎えておこなうダンス公演や作品とは、いったいどんな意味を持つものなのだろう。もしそれが本来一回限りの出来事として日々にダンサーの身体を訪れるダンスを、再現可能なものにすることで商品化を実現する手段であったり、個々のダンスを社会的に根づかせるために大小のコミュニティを形成するツールというだけならば、身すぎ世すぎのためのシステムに従うというだけのことにすぎないだろうが、そのことを前提としたうえで、そこにはただそれだけに終わらない積極的な意味もありそうである。
  もし『空の根』の作品性についていうことができるとしたら、土塊の使用によって、「浮遊」「声」「光粒子」という、過去の公演で深められてきた各要素が、そのときどきのテーマに従った気まぐれな前景化を脱して、ある配置をとった点に求められるように思われる。新しく持ちこまれた要素は、踊り手の求める身体像を可視化する演出装置として働くとともに、各要素に物語的な配置をとらせることで、曖昧だったそれらの関係を明瞭化したといえるだろう。この場合でも、踊り手自身にとって、作品はここまでの身体探究によって最終的に導き出された解答といったようなものではなく、探究のステージをワンステップ上昇(あるいは下降)させ、さらに深く身体へと潜行するために通過する駅のような意味合いを持っており、ダンサーが俳優のようにそこで何者かの役柄をこなし、公演のたびに光粒子への解放を演じるといったものではありえない。最近になって注目が集まっているダンス・アーカイヴの運動においても、作品概念はいの一番に問題となるところだろうが、古典としてのエスタブリッシュされた評価ではなく、そこを通過したことで私たちにどんなダンスや身体表現の領域が開かれたかを明らかにするものであってほしいものである。ステージをワンステップ進めた菊地びよがどのような踊りを見せるのか、これからも追っていくことにしたい。

(観劇:2017年4月5日、執筆:2017年6月7日)

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貨幣の自己増殖に使役させられる人間の姿
藤原央登
劇評家

庭劇団ペニノ『ダークマスター』
2017年2月1日(水) ~ 2017年2月12日(日) 会場 こまばアゴラ劇場

1
  寂れた洋食屋を舞台に、寂寞とした人間の様態を描いた恐ろしいおとぎ話である。キッチン長島という洋食屋のマスター(緒方晋)は、料理の腕と味には絶大なる自信を持っているが、対人恐怖症のために接客を苦手としている。かつては執拗に会話をしてくる客とケンカをすることもあった。そういった性格のために客が店に寄り付かず、いつしか彼は夜な夜な大量の酒をあおるアル中となってしまった。加えて近隣の店は撤退し、シャッター通りとなっている。中国資本がこの一帯を買収し、巨大なビルを建設する話も進んでいる。マスター自身、キッチン長島もそろそろ店閉まいの時かなと考えつつも、今日も誰一人客が来ない店で酒を飲みながら、ナイター中継を見ている。関西で唯一だと自称する、ジャイアンツを応援するために……
  このような状況を、ハイパーリアリズムと言えるような、複雑精緻な舞台美術が具現化する。舞台中央にはカウンター。その裏の調理スペースには2台のコンロと油やコショウなどの調味料。さらにその奥にはフライパンや包丁がかけられており、流し台がある。その隣には冷蔵庫。その上に小さなテレビ。下手奥にはベルチャイム付きの入口ドア。下手手前にはトイレと洗面台。上手奥には2Fへ上がる階段があり、手前には給水器がある。狭いこまばアゴラ劇場によくこんなに建て込めたなと関心するくらいに、スペースを隅から隅まで使っている。客席の壁の途中まで、洋食屋のタイルが張られていて、頭上にはキッチンの様子を映したりイメージ映像を投影するためのスクリーンまでが備えられている。けだるいしぐさで酒を作ったマスターがカウンターの椅子に座り、ぼんやりとタバコをくゆらしながら巨人対阪神戦のナイター中継を眺める様子は、場末の洋食屋そのものとしか言いようがない。

  劇開始から数分間、マスターによる無言の行動と舞台空間の雰囲気をじっくりと見つめる。観客がその空気を十分感得したところで、リュック姿の男(FOペレイラ宏一郎)が訪れる。マスターと若者との偶然の出会いが、奇妙な劇空間への入り口である。30代半ばというこの男は、日本各地を訪れて人と交流し、自分探しをしている。社会の枠から外れた典型的な無職だ。人付き合いができない堅物のマスターだが、水くらいならと招き入れて青年の身の上話を聞くうちに、男の注文通りにオムライスを振る舞ってしまう。その後、何かを決意したようにコップをカウンターに打ちつけたマスターは、男に店を引き継げと伝える。男は話が唐突すぎることと料理経験がないことを伝え、冗談だと取り合わない。しかしマスターは、無理矢理超高性能のマイクロイヤホンを男の耳に仕込んでしまう。理由は、マスターが男に、2階から料理の作り方をその都度指示をするため。男の姿は、便所、キッチン、給水器の3ヵ所にある隠しカメラで随時見ているので、的確に指示が出せる。だからマスターの指示通りに動けば、男は調理を完璧にこなせる。あとは、自分にはできなかった客とのコミュニケーションを取れば良い。このようにマスターは男に告げる。それでも不安と不信しか抱いていない男に、マスターは毎月の給料として50万円を支払うこと、そして手付金として20万円を支払う。その上でマスターは、提案通りの仕事を試しに1週間やってみることを男に承諾させる。ひとまず物語りは、料理経験初心者の青年が、マスターの指示によってなんとか奮闘しつつ、一人前の料理人に成長してゆく様が描かれる。
  店の切り盛りを青年に任せて、マスターは2階に上がる。その言葉通り、最初の数十分間を除いて、マスターは以後一切、舞台上に姿を見せない。2階から指示を出す声がイヤホンを通して聞こえてくるだけだ。調理は実際に、俳優が火と食材を使って行う。半信半疑なまま、試しに男はマスターの指示に従ってポークソテーを調理する。他にも、マスターが男に振舞ったオムレツはもちろんのこと、実際に店を切り盛りする決意をした男は、客の注文を受けてコロッケ定食やナポリタン、野菜炒めを調理するのだ。その都度、フライパンで焼かれる肉やケチャップの匂いが客席まで届き、フランベで立ち上る火にはちょっと驚かされもする。視覚面だけでなく嗅覚をも刺激して、実際の洋食屋にいるような気分に観客を浸らせてしまう。それと共に、まだ調理に慣れていない男がマスターの指示が理解できず、うろたえる姿が笑える。指示通りに動けない男に、マスターはぶっきらぼうな関西弁で注意する。男は何とか軌道修正しようとするものの、あせって余計に手順を間違える。それは例えば、よく喋りかける客に気を取られて、マスターの指示が上の空になった男に表れている。マスターがオムライスに使う卵を3個割るように指示したところ、その言葉と重なるように客が喋った「5」につられて卵を5個取ってしまう。マスターは「なにしとんねん」「客の話止めさせろ」と指示をする。客の方は男をプロの料理人と思って接している。男はニセモノだとバレないように必死だ。客を上手にあしらいつつも、しっかりと調理もこなそうと努めようとすればするほど、どつぼにはまってゆく。その焦りが頂点に達し、男がフリーズした瞬間は爆笑ものだった。ここには、事情を知らない第三者が介在することで生まれる、人間関係のズレがもたらす笑いがある。大阪を舞台に関西の演劇人が出演した今作では、関西弁によるテンポの良さが手伝って、このような笑いが随所に差し挟まれていた。
  それだけではない。この舞台に仕掛けられた最大の趣向は、観客席にひとつずつ備え付けられたイヤホンである。観客は必要に応じて、イヤホンを装着して観劇する。そこから聞こえてくるマスターの指示は、男に向けられたものであると同時に、観客に対するものでもある。そのために、良く喋る客の声とマスターの指示、そしてそれに対応する青年という三つの情報を観客は同時に処理しなければならない。それはつまり、観客は青年と同じ状態に置かれることを意味する。こうしてイヤホンの趣向は、作品世界に観客を引き込む役割を有している。物語の進展と共に、イヤホンの役割は単なる趣向を越えて作品の本質に迫るアイテムへと変貌するのだが、そのことは後述する。とまれ、男を演じたFOペレイラ宏一郎は、マスターの指示を初めて聞くように聞き、反応しながら実際に調理も行った。なかなかハードな役割を上手く演じたことで、彼の「ボケ」がうまく活きていた。

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  そんな男も舞台後半に至ると、調理の腕前はマスターの指示がなくても作れるまでに上達する。マスターにはできなかった、調理中の接客もそつなくこなしてゆく。そのためか、いつしか店は賑わいを取り戻す。野球に関心がなかった男は、マスターと同じくジャイアンツファンにもなった。その姿は、ジャイアンツのユニフォームにサングラス。さらに、ジャイアンツのマスコットキャラクター・ジャビットのロゴがプリントされたフライパンに料理を載せ、バットをスイングするように客前に出すという、自分なりのスタイルを確立するまでに至る。いわば名物マスターになったのだ。ここで重要なのは、なぜかジャイアンツファンになったように、男はマスターとシンクロし同一人物化してゆく点だ。他にも、男にトイレに行かせる、正露丸を飲ませる、デリヘルを呼んでの性交、飲酒といった指示をマスターは行う。別段そういった行為をしたくはない男がしぶしぶ実行すると、マスターは尿意や腹痛が治まり、性欲が満たされて酩酊する。観客はイヤホンを通して、マスターが安心したり快感を得ているらしい、生々しい吐息を耳にすることになる。
  マスター=男のシンクロで注目したいのは、中国人の男(野村眞人)と対峙した際である。ある日の閉店後、熊のように立派な体躯の中国人が訪れる。男が閉店していることをジェスチャーなどで伝えるものの、相手には伝わらない。中国人はカウンターに上げたイスを床に置き、勝手に席についてしまう。そしてオムライスを注文する。オムライスは男にとって、キッチン長島に初めて訪れた際にマスターから提供された大事な味だ。この時はまだ、男の調理技術は未熟であった。しかもよりによってオムライスの注文である。よく喋りかける客がオムライスを注文した際は、マスターの指示があったにもかかわらず、入店直後ということもあって、先述したような失態を演じていた。予期せぬ事態にあせった男は、2階のマスターを起こして調理方法を仰ごうとするが、寝ているのか応答がない。仕方なく、男は自分の腕だけでオムライスを調理することを決意する。あの頃とは違って場数を踏んでいたこともあって、なんとか男はオムライスを完成させることができた。肝心の味も特に問題はなかったようで、中国人は夢中で食す。そのお代として、彼は10万円を置いて店を出てゆく。中国人が帰った後に、起きたマスターに事の顛末を男は報告する。すると、マスターは頑張った褒美として10万円を男にあげ、デリヘルでも呼ぶように促す。


©堀川高志

  その日の出来事からずっと時が経ち、男がすっかり名物マスターへと成長してから、件の中国人がまた客として訪れる。そこで男は、中国人に10万円を返却しようとする。中国人がそれを受け取ろうとしないので、男は投げつける。中国資本による再開発によって、商店街がなくなることに対する怒りがそうさせたのだろう。マスターから男はその辺の事情を聞かされていたのかもしれないが、ここでの中国人への怒りを込めた態度は、単にマスターから聞かされていたことに起因する表面的なものには思えない。その姿は、何十年も細々と洋食屋を営んできた頑固親父の想いがこもったものとして、すなわちマスターの意志が男に憑依したかのような真剣さを感じさせる。この時、男とマスターは完全に一致した存在としてある。そんな男からの仕打ちに対して、中国人は動じない。逆に男をカウンター越しに掴んで床に倒す。調理場へと逃げ込む男を追いかけ、さらに何度も暴行を加える。そして挙句の果てに、中国人は札束をカバンから取り出して男に浴びせる。ここには、台頭著しい中国資本の強さに牛耳られた、かつての経済大国日本の縮図がある。それでなくても、中国人にボコボコにされる日本人を見るのはかなり嫌な気分だ。イヤホンの仕掛けによって、観客もまた男に同化するような気分になっていたために、余計にそのように感じてしまう。
  この日の出来事以後、男はすっかり酒に溺れてしまう。完全にマスターと同化したことを示すのか、マスターによる指示もすっかりなくなる。デリヘルを呼んでセックスをした後、翌日まで寝ていた男は、入口で開店を待つ常連客の声によってようやく起きる。だが、男は客に罵声を浴びせて追い返してしまう。ユニークで腕の良い、街の名物マスターの姿はもはやない。面倒くさそうに迎え酒の水割りを作る男。そこへ、バックパッカーが水を求めてやってくる。要求通りに水を与えて少し話をした後に、何かを決意したように男がコップをカウンターに打ちつけて幕となる。きっと男には、内なる声が聞こえていたに違いない。それは完全に同化したマスターのものなのか、それとも自らの意思に基づくものなのかは判然としないままに。

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  おそらく新しくやって来た者も、イヤホン越しの男の指示によって店を切り盛りすることになるのだろう。そして、やがて男と同化して最後には破滅することも予感させる。そのようにして店は何とか維持されるものの、どんどん人は取って替わられる。終わりのないループを予想させる劇構造は、『ゴドーを待ちながら』と同じだ。このような劇構造を生きる人間は、転換時に流れる『ドナドナ』とあいまって、いつまでも満たされることなく寂しくさ迷う様態を印象付ける。その感覚を強調するのが、イヤホンの仕掛けである。中国人に男が暴行された後、デリヘル嬢のナルミ(坂井初音)が介抱する。耳の辺りのケガの手当てをするナルミは、超高性能マイクロイヤホンを発見し、「この前のお客さんの耳からも出てきたわ」と言う。破格の給料が支払われ店が繁盛するとはいえ、男はイヤホンによる声に指示命令され、隠しカメラで常時行動をチェックされている。これは監視と洗脳だ。そのことは、イヤホンを付けた観客にも同様の効果を与えるだろう。姿を見せず、ダイレクトに耳から頭脳に届くマスターの声は、さながら神による啓示のように聞こえてくるのである。実は、人はこのような声に動かされているのではないか。主体的に動いているように本人が思っていても、マイクロイヤホンのようなものが仕込まれていて、見えない神からそのように動くべく命令されているということである。あらかじめ決まっている未来に向かって、姿が見えない何者かの声が人間の無意識に働きかける強制力。それを運命と言い換えても良い。もしかすると、人知では分からないような力があるのではないか。観客の脳内へダイレクトに届くある種の暴力的な声の介入によって、私にそのような疑念を抱かせた。青年がやってきて嫌々ながらも店を引き継ぎ、危なっかしい手で料理を覚え、やがて一人前の料理人となって、最後には破綻する。その途端に次の犠牲者が現れるという一連の展開は、一人の人間の誕生から、青年、壮年・中年、老人期を経て死んでゆき、次の世代にバトンタッチをするという、あらかじめ人間に定められた営為のサイクルを描いているようにも思われるのである。イヤホンの趣向は単なる珍しさを狙ったものなのではなく、神の言葉を直接聞くということを介して、人間の主体性の揺らぎを自覚させることにまで至っている。イヤホンによって男と観客もまた同一化させられるために、声に翻弄される男の行く末は、我々を含む人間の様態そのものとして感得される。本作が恐いおとぎ話というのはそういう意味である。
  新たな来訪者が訪れたことは、神の啓示たる声を発するマスターの位置に男が収まることを意味しよう。ということは、来訪者はすでに神ということになる。少なくとも声に従う過程で、内なる神の資質が目覚めていくのかもしれない。ではここでの神とは何なのか。来訪者すなわち下位の者に、指示・命令する上位の存在であるマスター。管理者である彼は、店を維持する資金を生み出すために、来訪する者を労働者として使用する。的確な指示・命令をする者とそれに即応して効率良く動く労働者というマッチングがうまく機能し、それが金属疲労する前に次の世代へと引き継がせる。その理由は、資本を拡大しながら生み続けるため。こう考えれば、管理者と労働者双方を突き動かす、さらなる上位に位置する神とは、自己増殖せずにはいられない貨幣ということになろう。
  タニノ自身、狩撫麻礼の漫画原作に「資本主義社会の支配/被支配体系をユニークに表現した作品だと感じ」たことが、2003年の初演のきっかけだった本作のチラシに記している。私は初演と再演を観てはいないが、少なくとも再演と今回の三演目を比べると、受ける感触が異なると思われる。「しのぶの演劇レビュー」に書かれた再演時の記事(2006年01月15日更新 http://www.shinobu-review.jp/mt/archives/2006/0115174456.html)によると、舞台美術は2階建てになっている。2階部分 は1階と構造は同じであるが、「1階よりも少しきれいで豪華に見え」る。「1階は日本、2階はアメリカおよび西洋資本主義である」という見方を示した舞台空間はラストに至って、

「2階の床が右斜めに落ちるのです。すごい勢いでガタン!と。そしてゴーっという音とともに、2階のカウンターに沿って並べられていた4~5脚の丸イスが、1階の上手側に滑り落ちます。それらのイスが1階玄関のドアのガラスにぶつかって、ガラスは無論、ガチャーン!と割れます。・・・あっという間の出来事でした。実際に床が落ちて、イスが転がって、ガラスが割れたのです。イリュージョンではなく。」

  このように展開する。そこから高野は、「2階の床が落ちることはアメリカの崩壊を意味し、その崩壊が日本(=1階)にも壊滅的な打撃を与え」たとの見方を示す。そのような構図をもたらした2階部分が今回の上演でなくなったのはなぜか。アメリカ対日本という共依存構造によって世界を把握することがもはやできなくなったからではないか。再演から11年を経た今日、国境を越えて人・モノ・金が自由に行き来するグローバル化の結果として、格差の拡大が全世界的に顕となっている。それに対する諸国民の抱く不満が、既存の政治体制への否定となり、さらにそれへ迎合するポピュリズム的な政治を生み出した。昨年のイギリスのEU離脱決定、トランプ大統領の誕生は、自由と民主主義の空気が挫折する転換点として衝撃を与えた。このような、自国第一主義に基く欧米の動きは、「強さ」を回復させることであいまいな国境線を今一度明確にし、国としてのアイデンティティを取り戻そうとする極端な反動である。このような近視眼的に諸問題を解消しようとする動きは、その後のオーストラリア大統領選、オランダ下院選、フランス大統領選によって阻まれているとはいえ、いつまたポピュリズム政治が台頭するかは不透明だ。その一方で、新興の大国である中国はその力を誇示し、世界の覇権を虎視眈々と狙っている。このような多角化し非常に不安定な様相を呈する世界情勢の背景には、経済と軍事という国力を支える貨幣がある。このような地勢図においては、国力を巡る支配/非支配関係を、アメリカと日本という限定的な地点で象徴することはできない。全世界的に勃興している対立は、等しく国力の源となる貨幣によって支配されていることが前傾化したからだ。そのために、三演目では2階の美術が取り払われたのであろう。だからこそ、かつてはロックフェラー・センターを買収するまで経済成長した日本が、アメリカではなく中国にボコボコにされるシーンが示唆的に機能していたのである。
  貨幣とはそれこそ人種の垣根をあっさりと飛び越え、人類をあくなき資本増殖のループに従属させ続ける。最終的にどこの国が勝とうが関係はない。人間は、貨幣の運動力学を機能させる道具に過ぎないのだ。貨幣と人間の関係性をイヤホンの仕掛けによって抉り出した本作は、私をとんでもなくやるせない気持ちにさせた。

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