人間の内的時間を視覚化する劇中劇の巧みさ
藤原央登(劇評家)
劇団俳優座『猫、獅子になる』
2022年11月4日(金)〜13日(日) 会場 俳優座劇場
人と人が心を通じ合わせることの難しさと、その乗り越えを描いた作品だ。2階の自室で引きこもる娘の美夜子(清水直子)の面倒を、老親の蒲田妙子(岩崎加根子)が担うという、8050問題が題材である。そこに、結婚して実家を離れた、次女の岬野朝美(安藤みどり)との三角関係が絡む。朝美はコックを失業中の夫・彰人(塩山誠司)に代わって、パートで家計を支えている。加えて大学卒業後、劇団活動に勤しむ娘の梓(滝佑里)へも不満を抱えている。朝美は梓に同じ職場で働くことを勧めたり、母と姉と折り合いが悪くなった自分に代わって、実家の様子を見に行かせている。ある日、転倒事故で足を負傷した妙子が、家を手放すと口にする。そのことを幸いに朝美は、家賃を浮かせるために一家が移り住み、美夜子の面倒を梓に担わせようと画策する。
そんな彼女たちの数十年来のわだかまりと和解が物語の主眼だ。そのためのフックとして、劇中劇で演じられる宮沢賢治「猫の事務所」(1926年)が上手く機能している。猫のための歴史と地理の案内所で書記として働く竈猫が、事務長をはじめ4匹の同僚猫たちにいじめられる。それを見兼ねた獅子が事務長たちの倫理を問うて叱責し、事務所の解散を命じる作品だ。他者が織り成す社会の残酷さと無常を描く寓意が、本作に登場する人物たちに重なる。加えてこの作品そのものの取り扱いが、他者とのコミュニケーションを再起動させるためには、自己が抱える問題の解決が欠かせないことを示す重要な要素となっている。
中学時代に演劇部の部長だった美夜子は、この作品を文化祭で上演しようとしたことがあった。賢治が生前に発表した原稿では、獅子の叱責に対して、語り手である「ぼくは半分獅子に同感です。」と書かれている。しかし1973年刊行の『校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房)に収録された草稿バージョンでは、獅子を含めて誰もが「気の毒」であり、「私たちは、いつも誰かを責め、誰かに責められています。誰も彼もかわいそう。世の中は、かわいそう。」と心情が詳述されている。美夜子は、賢治の想いがストレートに発露された「初期型」に感銘を受け、これを劇化する。美夜子が獅子を演じ、日系ブラジル人の同級生であるR(ロドリゴ)・サワグチ(志村史人)を竈猫に据え、少数派や弱者がいじめられたり肩身が狭いをする社会を表現しようとした。しかし顧問であるクラゲ先生(志村史人)より、その行いは社会運動であること、しかも嫌がるR・サワグチに竈猫を演じさせようと、美夜子が繰り返し訪ねたことで不登校になってしまったと詰問される。さらにしつこい勧誘が基でサワグチは不眠症になり、父親が経営する工場で働いている最中に、右手の人差し指を切断する事故まで起こしてしまった。そのように聞かされた美夜子は、上演を諦めねばならなくなり、演劇部も廃部となってしまう。
©坂内太
美夜子の過去が明らかになる中、梓が所属する劇団ドリームランドが、偶然にもこの作品を学校公演で上演することになる。劇団運営が苦しい中、助成金が下りるこの仕事に劇団員たちは賭けている。だがそのプレッシャーが故に劇団主宰者は上演台本を書けなくなり、賢治の故郷である岩手に失踪してしまう。梓は事の顛末を、美夜子の部屋の扉越しに説明する。すると美夜子が反応し、当時書いた台本を渡す。当初は作家のプライドを傷つけると及び腰だった劇団員たちも、本番を目前に控えている状況を鑑みて、美夜子が書いた台本を採用する。さらに劇団主宰者が演じる予定だった獅子を、代わりに美夜子に演じてもらうべく、梓は説得することになる。「猫の事務所」が思わぬ形でひっぱり出されたことがきっかけとなり、美夜子は引きこもりになった根本原因に向き合ってゆくのだ。竈猫とはトラウマを抱えて以来、社会と隔絶した生活を送っている美夜子である。そして朝美もまた、姉にかかりっきりで母から見向きもされないかったことで疎外感を抱いていたという意味で、竈猫である。社会には大小、様々な竈猫がいる。自分だけが不幸なのではないことを理解し受け止めることで、腹を割って話し合う土壌が生まれる。美夜子の一件で、朝美は演劇部に入れなかった。それが恨みとなっていたことなど、内に秘めていた想いを姉妹がぶつけ合うシーンに、その一端が表れていた。美夜子の中学時代の演劇部と、現代の梓が所属する劇団の稽古場。「猫の事務所」を巡って2つの時空が行き来するが、そこに登場する演劇部員と劇団員たちは同じ俳優が兼ねている。そのことで「猫の事務所」を蝶番に、過去と現在が折り重なる劇構造となっている。
「猫の事務所」が果たす効果は、誰もが竈猫であることを示すだけでない。志村が中学時代では顧問を、現在では大人になったR・サワグチと、二役を演じることも重要な仕掛けになっている。そのことで立場や環境が異なれば竈猫にも獅子にもなり得るという、人間の両面性を抉り出したのである。中学時代のR・サワグチは登場しないが、日系ブラジル人という出自や美夜子の演出意図によって、彼もまた日本で暮らす中で竈猫と同じ境遇であったことは容易に了解できる。そして美夜子を上演中止に追い込み、顧問の辞任によって演劇部自体を廃部に追い込んだクラゲ先生は、竈猫をいじめる事務長である。なぜなら、クラゲ先生の美夜子への言葉は嘘だったことが、大人になったR・サワグチ自身の口から語られるからである。学校公演が行われる小学校に勤務する教師になっていたR・サワグチは、美夜子の上演台本を使用することを知って稽古場を訪ねる。美夜子への代役要請が上手く進んでいないことを聞かされたR・サワグチは、かつて美夜子と同じ中学の演劇部員だったことを梓たちに説明し、自分が獅子を演じると申し出る。その報告と公演を観劇しに来てほしいと伝えるため、R・サワグチは、数十年ぶりに美夜子の元を訪れる。美夜子の部屋のドアを介しての会話で、顧問の言ったことが嘘であったことが明らかとなる。実家が経営する工場の仕事が忙しかったために学校に行けなかったのであり、決して竈猫を演じるのが嫌だったのではない。また、実際に右手の指は負傷はしたが切断はしていないというのだ。その言葉を聞いて、美夜子が数十年来抱えていた心のわだかまりは、ようやく解きほぐされる。そしてラストに、劇団が上演する本番の模様が劇中劇として上演される。獅子役のR・サワグチの台詞は、もちろん賢治の「初期型」を基にした美夜子の上演台本である。獅子は事務所の解散を命じた自分をも含めて、上下関係に依拠した権力構造が十重二十重となって世界が形成されていることを嘆く。そのことを客席に向かって堂々と語りかける志村の演技が印象深かった。
美夜子との腹を割った会話を通して、朝美は失業中の夫とも深く向き合い、ちゃんと金を貯めて住居兼フレンチ店を構える家を建てるという夢を共有する。家から出ずに済むため、きっと美夜子も仕事を手伝ってくれるだろうとの期待も込めて。美夜子との和解は、かつての自分を慰撫することへとつながる。そのために、梓の演劇活動を肯定する気持ちをも芽生える。一方で公演の本番を見届けた美夜子は、R・サワグチの姿に痛く感動して熱い拍手を送る。舞台はここで幕となる。きっと美夜子も、時間をかけて自分との折り合いを付けながら、他者との関係を修復してゆくだろうとの予感を感じさせて。その姿を通して、「猫の事務所」が美夜子のトラウマを反映した深層心理そのものであり、内的な時間観念の謂いだったことを了解させられる。賢人の寓話を劇中劇として配することで、過去と現在をつなぐ演劇的効果だけでなく、断絶していた人間の内的時間の回復をも視覚化してみせた。そのことが本作を、超高齢化社会の反映に留まらない射程を担保し、生き辛さを抱える者の心の闇と、その直視から立ち上がる人間を深く描いたのである。
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令和の都市劇
藤原央登(劇評家)
いいへんじ『器』/『薬をもらいにいく薬』
2022年6月8日(水)〜19日(日) 会場 こまばアゴラ劇場
いいへんじは2016年に結成された、早稲田大学演劇倶楽部出身の演劇団体である。2本立て公演を通して「令和の都市劇」を強く抱かせられた。新型コロナ禍による過度な感染の忌避は、人々を生活圏内への自粛に追いやり、社会経済活動の縮小を余儀なくさせた。加えてロシアによるウクライナ侵攻によって、戦禍による人道的危機はもとより、第二次世界大戦後に築かれたルールに基づく国際秩序も揺らいでいる。生活圏、地域圏、国家、世界と範囲をどこまで広げても、人間は危険と不安から逃れられないのではないか。2つは別個の問題のはずなのに、危機が倍化しながら連続しているように感じさせる。2作品に登場する人物は、このような不確実性が高進した世界を背景に、不安を抱えながら生きている。そのような中でいかに心の安寧を保つか。コロナ禍で有名芸能人の自死がたびたび報道された。2作品は現在の大きな課題のひとつである心の問題への、取り組み方と癒しを観る者に与えた。
さりげなく内なる差別意識を衝く――『薬をもらいにいく薬』
観た順番に作品を触れていきたい。『薬をもらいにいく薬』は2021年の7月に、東京芸術劇場の企画「芸劇eyes番外編 vol.3」の中で、冒頭から40分が先行上演されていた。これは東京という都市で疎外感を抱えながら生きる者を優しく包み込み、前向きな一歩を踏み出すための背中を押す作品である。
不安障害を抱えるハヤマ マミ(タナカエミ)は、数週間前にバイト先のカフェでパニックを起こした。それ以来、自宅に引きこもってカフェのバイトも欠勤している。抗不安薬も切らしてしまったため、街に出てクリニックに行くこともできない。そこへバイトの同僚・ワタナベ リョウヘイ(遠藤雄斗)が、生存確認も兼ねてシフト票を提出するよう訪れる。意を決してハヤマは、羽田空港まで付き添って欲しいとワタナベに告げる。今日は旅行関係の仕事をしている同棲中の恋人・マサアキ(小見朋生)が、2週間ぶりに九州から帰ってくる日で、しかも誕生日である。そのためにサプライズで出迎えたいのだという。戸惑いながらも優しいワタナベはハヤマの依頼を快諾し、西荻窪の自宅を出て駅に向かい、中央線に乗るまでの道中が展開する。とはいえハヤマは不安を払拭し切れず、「やっぱり止める」などとグズグズして出かけるまで時間がかかってしまう。ワタナベはその都度、ハヤマの気持ちを立て直したり、羽田空港までの道中をシミュレーションして安心させようとする。それによってワタナベは発作が出た際の対処や、謙遜や遠慮しながらも言葉を弄して、結局は自分の意見や意志を相手に伝えるハヤマの人柄を知ってゆく。そんなハヤマに連られて、ワタナベは道中で自分の恋愛を語る。ゲイであるワタナベには同姓の恋人・ソウタ(小見朋生)がいる。同姓カップルゆえの偏見にさらされても自分は気にしないが、ソウタはそういったことを真正面に受け止めて悩んでいる。それでいてハヤマのように気持ちを伝えてくれないためにすれ違いが生じ、最近は連絡が途絶えているという。家から外に出ようとするハヤマが、玄関に立ちはだかる見えない壁(俳優が3人並んで表現するのが可笑しい)に阻まれて躊躇していた。それと同じくワタナベにも、ソウタとの間に壁を感じているのだ。そんな彼らが羽田空港までの道中で人生や恋愛観を話し合うことで心が解放され、さらにそれぞれの恋愛が前進する過程が描かれる。
©月館森
本作の核は精神疾患、同姓愛というマイノリティーの側に立つ両者が、無意識の内に自分以外をカテゴリー分けして、偏見や予断を持っていたことが露呈することだ。ハヤマは不安を解消するため、ワタナベに手をつないでもらって街を歩くのだが、その立ち位置がマサアキとは逆だと言う。自分が車道側になってもマサアキは場所を代わってくれない。ハヤマは何事にも無頓着で大らかなマサアキの性格に、いささかの不満を漏らす。その言葉を受けてワタナベは、男性が車道側を歩いて女性を守るという、男女の恋愛を前提にした発言にやんわりと反発する。この出来事があったからこそ、西荻窪駅で切符を買うために離された手を再びつなぐかワタナベに聞かれたハヤマは、「うん、もう、大丈夫」と返答する。同様のことはワタナベにもある。中央線の車内で、椅子に膝立ちになって窓の景色を見る娘(飯尾朋花)に、母親(小澤南穂子)が注意をする場面を二人は目撃する。電車はその直後に起こった地震で緊急停車。ハヤマは過呼吸になったために中野駅で降りて休憩をする。そこでハヤマは呼吸を整えながら、さきほどの娘が母親に注意されている様子を見て、まるで自分が怒られているように感じたとワタナベに告げる。「気にしなければいいじゃないですか」と答えるワタナベに、ハヤマは「・・・じゃあ、気にしちゃう、わたしが悪いってこと?」と、むしろ地震よりも怖かったと反応する。2つのシーンは自分を基準に物事の価値判断を行ったり、性別による役割や振る舞いがあるはずだという人間の先入観をあぶり出す。自分にとっては取るに足らない問題だったり当然だと思っていることが、その視線を向けられた当事者にとっては切実な問題になり得る。そのことを恋人ではなく第三者から指摘されることで、彼らは内なる差別を発見し、反省を経て友情を築いてゆく。しかもそれらがさりげなく描かれるので、無自覚さがかえって強調される。この辺の手つきが、本作における人間の掘り下げを深いものとしている。
ハヤマとワタナベの道中と並行して、同時間帯のマサアキとソウタの姿も描かれる。ハヤマとワタナベは互いの恋人の顔を知らない。しかし彼らを一人の俳優が演じることで、ハヤマとワタナベが同一人物と交際しているかのような錯覚を抱かせつつ、ハヤマとワタナベを間接的に橋渡しするという演劇的な効果を与える。マサアキとソウタは劇の冒頭で、恋人に渡す花をそれぞれ買う。同じ行動を取る2人だが、性格は対照的である。実はマサアキは一足早くすでに東京に戻ってきていた。ハヤマに連絡を入れていなかったため、入れ違いになっていたのである。そうとも知らずにマサアキはハヤマが働くカフェで食事をし、店員との会話で初めて彼女がパニックを起こしたことを知る。ソウタはハヤマも通うクリニックに通院しており、診察を受ける。マサアキとソウタを演じる俳優は、キャップの色やスーツケースの有無というワンポイントを変えただけで早変わりする。そして明るくコミュニケーションに長けたマサアキと、うつむき加減で表情が乏しいソウタを演じ分ける。そんなマサアキとソウタが店員と会話したり診療を受けている間に、それぞれの恋人とのやりとりが回想される。帰りが遅くなることを事前に連絡しなかったために、不安になったハヤマから詰められるマサアキや、恋人ではなく友人としてしか不動産屋で部屋を借りることができないことが心に引っかかるソウタというように。回想シーンを通じて2組の関係性や悩みが浮かび上がるのだが、それぞれのカップルの距離感はそのまま先述したハヤマとワタナベとの齟齬に重なるように描かれている。すなわちハヤマにとってのワタナベは性格的にマサアキに近く、ワタナベにとってのハヤマは同じく精神疾患を抱えているという意味でソウタに近いのだ。つまりハヤマとワタナベは、互いにそれぞれの恋人とやりとりしているように見える。だからハヤマとワタナベの齟齬とそれを発見した上での反省は、本来のそれぞれの恋人との関係の修復の布石、あるいはレッスンとして機能している。マサアキがハヤマに連絡しないことはしょっちゅうあるようで、今回も入れ違いになったことを知ってハヤマは落胆する。だがそれ以上にサプライズをしたいというハヤマの想いがそれを上回り、マサアキに渡す花束とケーキを中野で購入する。ハヤマはマサアキを投影したワタナベとのやりとりを通して、相手への思いやりを優先するように変化したのである。その心情の変化を構造的に見せるという意味で、マサアキとソウタを一人の俳優が演じることは重要な仕掛けになっていた。
©月館森
さらに以上の物語を、FMラジオ番組「Cross Voice Tokyo」が大枠として内包している。要所要所でメールテーマである「今日だけわがまま言ってみよ」に送られたメールが、パーソナリティー(松浦みる)とアシスタント(野木青依)の軽妙なやりとりと共に読み上げられる。ハヤマの「わがままを言いたいというわがまま」、ワタナベの「恋人と一緒に大きな一軒家に住んで大きな犬を飼いたい」というメールも、番組内で紹介される。FM番組は彼らのような、東京の片隅で生き辛さを抱える者の声を掬い上げる。小さく個的な悩みであるため、他者には受け止めてもらえないと半ば諦めながら、鬱々とした生を送っている者は都市に数多くいる。FM番組によって舞台の射程が拡がり、観客を含む都市に住まう人々を捉える。創り手は、劇中人物に注ぐものと同じ目線で我々を意識しており、その優しさが観る者に癒しを与えるのである。
ハヤマとワタナベがそれぞれに恋人を投射するようにマサアキとソウタを配置し、さらにFMラジオ番組が彼らの存在を東京に住まう多くの人々にまで敷衍させて、世界観を拡大する。この巧みな劇作を実現するべく、最低限の道具だけで場所や時間の変化を見せる演出も手際が良い。全体的によく練られた作品だった。
外化された鬱との対話で自己を癒す――『器』
『器』は当初、2020年10月の上演を予定していた作品。コロナ初年の社会情勢が背景になっているが、当の新型コロナ禍の影響で中止となった。その後、各登場人物のモノローグ映像を公開する「『器』のかけら」と、無観客での本番の記録映像「『器』(思索と試作ver.)」を11月と12月に試みた。それを経ての有観客による上演である。
精神に不安を抱く若者が暮らす3つの世帯。それぞれに顔見知りであったり友達同士であるため、3つのグループはゆるくつながっている。自分を深く見つめることで、彼らを見守り支える同居人との関係の修復も見出される。誰もが彼らのように精神疾患になり得ることを示唆ながら、恐れず自己対話を行うことを促す作品だ。精神疾患を抱えた者が他者との折り合いをいかに付けるかという点では『薬をもらいにいく薬』に通底する。しかし自己対話を通しての、自分との折り合いに主眼が置かれている点が異なる。内的対話が前傾化されている分だけ、やや抽象度のレベルが上がっている。他者との接触の忌避と社会経済活動の制限が、自己を見つめる作品へと収斂したのかもしれない。
©月館森
3つの世帯で暮らす人々を素描してみよう。まず1人目はカズキ(宮地洸成)である。新卒の就活に失敗した彼は大学卒業後の1ヵ月間、無為な生活を送っている。生活費用は同居する恋人・カナコ(松浦みる)に頼っている。2人目のサキ(波多野伶奈)は、登録者数4000人のチャンネルを運営する配信者である。ほぼ毎日、深夜に配信を行っており、カズキもたびたび参加している。後にサキとカズキは高校の同級生だったことが判明する。3人目のハル(竹内蓮)は3年前まで引っ越し会社で働いていたが、現在は弟のショウ(藤家矢麻刀)と同居して生活費を頼っている。ショウはカズキとカナコの共通の知人である。カズキはカナコの出勤を寝ながら見送り、16時に起きてからようやく頼まれていた買い物のためにスーパーに行く。ハルもショウに頼まれていた食器洗いと洗濯物の取り込みを、彼が帰宅するまで放置する。サキの生活風景は描かれないが、似たようなものだと推察される。3人共に、社会生活を営む気力を失った状態で生きているのである。
彼らをそのようにさせているマイナス思考・不安・鬱といった要因や症状が、擬人化されている。これが本作の特徴である。カズキはスーパーの買い物時、子供のように無邪気でいたずら好きのメラン(小澤南穂子)に出くわす。その日以来、メランはカズキの傍から離れることなく、カナコとの生活の間に割って入るようになる。メランはカズキを鼓舞するように様々な言葉を与える。その言葉に奮起されたのか、カズキは改めて就活を再開する。メランの存在をうとましく感じていたカナコも、カズキの頑張りを応援して見守る。だがカズキの就活はことごとく失敗する。力を入れていただけに、その反動でカズキは以前よりも増して塞ぎ込むようになり、精神が不安定になってゆく。カナコとの会話も少なくなり、旅行先で二人で作った「器」を割ってしまったことで一線を越え、「死にたい」と言って泣き出して情緒が崩壊してしまう。
彼をそのように追い込んでいた元凶が、精神のマイナス面を擬人化したメランだったのである。彼女がカズキを「一人前の男になれ」などと奮起させるような言葉を投げかけていたのは、応援ではなく煽っていたのである。日中に活動を活発化させて疲れさせ、さらに夜も寝かせない。そうすることで気力を奪って衰弱させ、やがて死に至らしめるのが目的だったのである。メランは、人間に死にたいという感情を醸成させる「死にたみ」として生まれてきた。メランはそのように「死にたみ」の先輩たちから知る。先輩の「死にたみ」とはハルにとってのドンク(箕西祥樹)、サキにとってのクラン(飯尾朋花)である。生まれたばかりで自分は誰なのか、何をすれば良いのかが分からないメランに、彼らは硬軟取り混ぜてアドバイスをする。人間がその存在を見、声を聞くことで「死にたみ」は生まれ、そして「寝かせない、食わせない、やらせない」を徹底させることが役割であると。それだけではない。たとえ深夜であっても、人間から片時も目を離してはいけない。自分のように眠れない人に語りかける配信を行うサキに対して、「深夜だからって言葉でごまかして他人に救いを求めようとするのはもっともっと愚か」という視線を、クランは投げかけているとメランに言う。このように、常に相手を監視し囁き続けてダウナーにさせなければならないことを、メランは知る。
そんな「死にたみ」の実践例のひとつが、カズキとサキが喫茶店で合う場面である。久しぶりの再会の場面に、カズキとサキの「死にたみ」も後ろで控えて同席する。そこでサキは、クランを前に出してカズキと会話をする。クランを盾にして押し出すということは、サキがそれだけ「死にたみ」を頼らないといけないくらいに精神の不安が進行していることを示す。そのために、カズキがサキを気遣って投げかけた言葉も、盾となったクランによってよりマイナスなものへと変換されてサキに伝言されてしまう。結果的にサキは、自分が救われたいために配信をしているだけでしかないと後ろ向きに考えてしまい、その日以来、止めてしまう。
「器」としての人体から切り離され、擬人化された鬱の概念。この「死にたみ」は、これまで記したように憑いた相手を決して殺すためだけに存在しているのではない。このひねりが本作を奥深いものにしている。「死にたみ」が人間と一対である以上、もしカズキが死ねばどうなってしまうのかとメランは考える。自分が死ぬことは嫌なメランは、ドンクとクランとのやり取りを重ねる内に「死にたみ」の本当の役割は、実は人間を守ることにあると知る。カズキのやる気を削いで脱力させるのは、今の彼は無理をしていてキャパオーバーであることを気付かせるためであった。「死にたみ」から発せられるサインを、人間が無視することなく正しく受け取れるか。そして「死にたみ」からの言葉は、人間を殺そうとするマイナスの言葉ではなく、一旦立ち止まって自身の生活を振り返る戒めとして受け取ることができるか。つまり人間と「死にたみ」との関係は、いかに鬱という自身の精神状態から逃げずに正視することができるかということを描いているのである。本作に深みをもたらしているのは、「死にたみ」自身も人間のように存在理由を巡って思い悩み、その果てに一歩進んだ答えを導き出す点だ。メランが自身の役割を思考することは、すなわちカズキが内省することに他ならない。あたかも肉体と精神を二分するかのように、自己対話を他者との会話のように視覚的に設えている点が本作の肝であり、演劇的な仕掛けになっているのだ。
©月館森
「死にたみ」自身が本当の役割に気付き、それを背負った人間たちが彼らを恐れずに受け止めた時、精神は安定へと好転する。それが端的に表れているのは、サキとクランによる劇後半のやり取りであろう。サキは深夜配信の際、その反面、クランが見えているにもかかわらずいつもいないものとして無視していた。そしてカズキと対面した際も、クランを前に出して自分はその陰に隠れて人と対峙することから逃げた。サキは自分の都合の良いようにクランを扱うが、クランから発せられていたSOSを無視していたのだ。そのためにクランはサキに自分の存在に気付いてもらうべく、日ごとにSOSをエスカレーションさせてしまった。その結果、サキは配信を止めてしまうほどに鬱が進行するという負の悪循環を辿ってしまう。サキとクランは反目していたのではなく、実はすれ違っていたのである。クランを無視するのではなく、「死にたみ」の存在を認めてリアクションをすることが双方にとって必要だった。クランがサキにそう打ち明けるまでに対話ができた時、サキの精神は改善の一歩を踏み出す。器を割って精神が崩れてしまったカズキだが、そこまで追い詰められた時に「死にたくない!」という本音に気付き、メランとの折り合いをつけ始める。そうすることで、カナコの他愛のない会話が取り戻される。ハルにはドンクをマッサージしていたわる場面がある。精神の不安定な状態が3年に渡るハルは、彼なりに「死にたみ」と折り合いをつける「処世術」を身に付けている。そうすることでハルは自分自身を救っていることがさりげなく描かれている。このようにそれぞれが自己内他者としての「死にたみ」と向き合い対話が成立することで、人は自分とは違う他者とも向き合えるようになる。
ここまで考えると、劇冒頭のメランによるモノローグが示唆的である。生まれたばかりのメランが客席に向かって、「みんな」に自分の姿が見えているかを聞き、そして観客からの反応がないこと=見えていないとしてモノローグを喋る。もちろん俳優が舞台上で喋っているのだから、観客はメランの姿は見えている。観客がメランの姿が見えていない体裁を作る、演劇的な台詞である。メランの台詞は、作品全体を追った上で噛みしめると示唆的である。我々観客もすでに大小さまざまな精神の不安定さを抱いており、それぞれの内にある「死にたみ」=メランに気付いていないことを示してるからだ。観客がメランの姿が見えない前提で語りかける劇冒頭で、すでに作品の核が描かれているのである。これが『薬をもらいにいく薬』でのFMラジオ番組のような、大枠を設定するものとして機能している。そしてメランはエピローグとして「こわかったのはね、わかろうとしてたからだよ。だから、大丈夫。こわくても、大丈夫だからね。」と語る。これは創り手から観客に向けた、自分の中にある「死にたみ」との対話のススメである。『薬をとりにいくための薬』と同様、シーンごとに入れ替わる場所をシームレスに移行させる演出が巧みであった。
自己と向き合うことを促す『器』から、他者との理解を深める『薬をもらいにいく薬』。これらは生き辛さを感じた時にこそ思い出したい、「薬」のような作品であった。劇作と演出に観客への目くばせがあったように、舞台上の俳優も現在進行形で思い悩んでいるように立ち振舞う。その総体が、観客とフラットな関係性を築いた。2作品に都市で生きる辛さを包摂する優しさがあったのは、創り手にとってもそのことが切実な問いだからである。
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他者の言葉や想いを「誤配」されることの意味について
藤原央登(劇評家)
劇団あはひ『流れる』『光環(コロナ)』
2022年4月3日(日)〜10日(日) 会場 東京芸術劇場シアターイースト
2018年に早稲田大学の在校生たちが旗揚げした劇団あはひ。劇団HPによると、プロデュース集団として活動した翌年の2019年に、「CoRich舞台芸術まつり!」グランプリ受賞。2020年には最年少で下北沢 本多劇場進出と、早くも注目され続けてきたという。この度、東京芸術劇場の企画で代表2作を連続上演した。『流れる』―能『隅田川』より(初演2019年3月、早稲田小劇場どらま館)と『Letters』(今回の上演で『光環(コロナ)』と改題。初演2021年11月、KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ)である。私はこの集団の作品を観たのは今回が初めてである。そのため初演とはかなり感触が異なるという、違いを比較できない。しかしながら、2作を能の形式でリクリエーションしたことによる効果は十分に了解できた。そして簡素かつ美的な空間設計と、抑制的な様式性と日常性の間を突く演技からは、作品創造においてかなり細かい計算が行き届いているように感じられた。ナンセンスギャグをまぶした入れ子構造の劇を、派手な照明と音響が鳴り響く中、過剰なパワーを発する個性的な俳優がハイスピードで駆け抜ける。鴻上尚史が主宰していた第三舞台(1981年~2012年)を筆頭に、これがいわゆる早稲田大学出身集団の印象であった。2008年に早稲田大学演劇研究会を母体にした犬と串、早稲田大学演劇サークル・劇団森から派生し、2011年に結成されたハイブリットハイジ座がこの流れを汲む作風で、私はよく観ていた(現在は共に活動をしていない)。そういった意味でもこの2作連続上演から漂う静謐さは、私見の範囲内ではあるが、1980年代以降の早稲田系の集団とは毛色が異なるものとして受け止めた。
『流れる』―舞台空間全体に広がる悲しみや弔いの気持ち
『流れる』は能の演目の翻案劇である。肉親を失った悲しみや弔いの気持ちを、じんわりと舞台空間全体に広げる作品であった。武蔵の国(東京都・埼玉県・神奈川県川崎市と横浜市の大部分)、隅田川の渡し場と舟内を舞台に、この川岸で亡くなった子供・梅若丸の話を舟頭が語る。梅若丸を探すべく乗り合わせていた母親が、その話を聞く「女物狂」の一作である。能の演目では舟頭がワキだが、翻案した本作では松尾芭蕉(上村聡)とその弟子・河合會良(中村亮太)が担う。梅若丸(子方)はアトム(古瀬リナオ)として登場し、舟頭(踊り子あり)は、アトムを生み出した天馬博士であることが分かってくる。トビオという名の子供が2人死んでおり、博士は1人目の父だった。そしてシテとして登場する女(鶴田理紗)は、1年前の3月に亡くなった2人目のトビオの母親という設定である。
アトムとは、手塚治虫が描いた漫画『鉄腕アトム』の主人公のことである。天馬博士は交通事故で亡くした息子・トビオに似せて、人間と同様の感情と能力を持つロボットを作った。これが鉄腕アトムの公式設定である。本作では、濁流に飲み込まれて亡くなった2人目の子供の遺品(水筒)に、トビオの名が記されていることを知り、天馬博士はアトムを作った。自分の子供と同じ名前の子供が死んだことを知って、かつては技術が不十分だったために断念したロボットを完成させた。そして川向うで毎年行われる慰霊祭にアトムと共に赴いている。慰霊祭に訪れた客がトビオとしてのアトムを知り、方々でその話をすることで、まだ弔いに来ていない遺族にもいつか伝われば良い。天馬博士は2人のトビオとその家族を想う気持ちから、アトムを作ったのだ。
悲しみの象徴であるアトムは女性俳優が演じる。彼女はシャンシャンと手足を大きく振って快活に歩き、直角に曲がって移動する。声には抑揚はないが元気にハキハキと喋り、疑問に思ったことは素直に質問する。返答があった際の、「うん!」の声と共に首を大きく縦に振る様が可愛い。極端にロボットに寄せているわけではないが、人工的な動作は人間と機械、あるいはこの世のものではない幽霊や無機物といったものとの中間をうまく表現している。『隅田川』のラストでは、シテの母親は梅若丸を幻視する。その際、子方として子供を出演させるか否かで、2通りの上演方法があるという。いずれにせよ本作では死者そのものではなく、その想いが仮託されたロボットを俳優が演じることで、代替性が二重化されている。ところで、人は他人からすればどうでも良いような道具を、大事に所有する。例えばそこに、ある者との在りし日の思い出が閉じ込められており、手にしたり眺める度に記憶が蘇えるからである。いや、物は単なる物のままでしかない。そこに物の価値以上の何かを見て認識するのは、人の意識である。あるいは物によって、人は記憶を引き出させられていると言うべきなのかもしれない。いずれにせよ物と人間との相互作用による結び付きの強弱が、誘発される記憶の度合いに比例するのである。天馬博士と女はアトムのしぐさや応対、容姿の一部など、ちょっとした点がフックとなってそれぞれのトビオをそれぞれ見ている/見させられているのだろう。アトムが彼らの当の子供ではいからこそ、いったん記憶の貯蔵庫が刺激されると、どんどんと連想が広がってゆくのだ。記憶のトリガーとなるロボットのアトムが、快活で元気であるほどにかえって悲しみを誘発するのはそのためである。そして彼らの想いを観客が共有した時、我々もそれぞれにとってアトム、すなわち亡くした個人を思い浮かべて彼女に投影したくなってくる。女の悲しむ姿を表現して想いを昇華させることはない。本作ではあくまでも物としてのアトムが、避雷針や磁石のように悲しみを誘発し集約させる道具としてある。悲しみの感情を表現するのではなく、その気持ちをじんわりと観る者から引き起こすこと。そのように設定するために様式性を持つ能の形式を採用し、そして俳優はさりげなく存在するように努めていたのだ。
©前澤秀登
観る者が心情を投影したり、引き出される重要な道具がもうひとつある。能舞台を模した四角の白い床面。その中央に設置されたスチール製のスタンド灰皿である。これは芭蕉たちと女が出会う舟着き場の喫煙所である。しかし劇後半には、舟頭が覗き込んでアトムを想起する井戸になる。これは能の演目『井筒』―在原業平の妻である井筒の女が、恋い慕った亡き夫の姿を井戸の水面に映す―からの引用だろう。そして最後にはトビオの墓石となって、女がそこに向かって手を合わせる。その直前、芭蕉と弟子が灰皿に捨てたシケモクからは、二筋の煙が立ち昇っていた。そのため女が手を合わるシーンでは、それは線香の煙へと変化する。灰皿が井戸に見えた時、地中深くを流れる水脈を想起して、天馬博士の悲しみの深さを想う。その慰霊の気持ちが集約され、具体物となったものが墓石である。アトムと灰皿は、物を様々に捉えて感情を揺さぶる、演劇に備わった「見立て」の特性を上手く生かしている。加えて能舞台には、中央の灰皿を包囲して広がる、3本の円形の筋が浮かんでいる。親しい者を亡くした悲しみと慰霊の気持ちは、等しく人に備わっている。その気持ちはいにしえから現在まで、波紋のように広がって続いている。時空間を超えて広がるそのような人間の心情を、3本の筋は想起させた。
私は灰皿を中心として広がる舞台空間を見た時に、別役実の劇世界を想起した。ベケットに影響を受けた別役は、『ゴドーを待ちながら』の劇空間に置かれた一本の木に宇宙に連なる垂直軸を見た。そして木を中心に何もない床面から同心円状に無限に拡張する劇世界が、ベケット演劇の革新性だと別役は分析していた。そのことが舞台空間と客席が分断され、横への限定的な広がりしかない近代演劇の額物舞台との違いである。それに倣えば、スタンド灰皿はベケットの劇空間における一本の木であり、別役劇における電信柱だ。床面の3つの同心円状の模様は先述したように、人間の心情を舞台空間全体から無限に広げる役目を果たす。
最小の具体物が最大の悲しみと慰霊を引き出すべく、それ以外はかなりシンプルである。舞台美術は他に、下手奥から上手の出口まで、中央の四角い能舞台を小さくした橋掛かりがついているだけだ。そして俳優の演技は、大きな感情表現を極力排した何気ない日常会話でなされる。とぼけた会話を何気なく繰り広げる芭蕉と弟子のやりとりは、要領を得ない会話を続けるうちに不条理な世界に入っていく別役劇の会話を思い起こさせる。衣装は黒のスーツやレディースの喪服を基調としている。対してアトムは真っ白の衣装に、カッパを改造したような羽織を付けている。白と黒のコントラストが印象的な、無国籍かつ抽象的な舞台空間で統一されていた。過去と現在がない交ぜになったような空間で、本作での芭蕉は人の悲しみをさりげなく媒介する旅人として居たのだろう。そのことは日本全国を周遊して、その土地にゆかりのある句を詠んだ芭蕉に通じる。そういう意味で、ワキにふさわしかった。
本作には劇手法に新しさはないかもしれない。しかし、演劇の特性を生かした物を見立てる演出。突飛な設定でありながらも、肉親を失った人間の悲しみを普遍化させる戯曲の運び。そして観る者の心情を様々に投影できるように誘う、俳優の抑えた演技。これらの要素が相まって、私も能役者の歩みのように、すーっと慰霊する気持ちが引き出された。ベケット―別役のラインを引き継ぐ格好で、細部にまで目配りを利かせて演劇の勘所を押さえた舞台であった。
『光環(コロナ)』―宇宙規模にまで拡大された悲しみや弔いの気持ち
『流れる』で描かれた、波紋として広がった悲しみや愛惜の気持ち。これはどこに流れ、誰に届くのか。『光環(コロナ)』と連続上演されたことで、両作はこの一点で私の中でつながった。もともとは『Letters』のタイトルで初演された作品である。能の形式で2作をリクリエーションする内に、作品内容も大幅に変わったため、公演1週間ほど前に題名が変更になった。『流れる』よりも本作はさらに抽象度が上がり、俳優の抑制的な演技も増して、機械性が徹底されている。無機的な俳優の身体から、なるべく色を付けないように放たれる言葉。これが無名性の幽玄な空間を出来させると共に、ある種の透明でストレートな言葉をどのように受け止めるのかが本作の肝になっている。
カラフルな毛皮のような衣装をまとった2人の男女(安光隆太郎、渋谷采郁)と、それとは対照的にトレーナー姿の女性(古瀬リナオ)。そして大烏(松尾敢太郎)が本作の登場人物だ。男女が語るのは、第二次大戦中にナチス・ドイツから強制収容所へと送られた経験を持ち、1970年4月20日にセーヌ川で自殺したフランスの詩人、パウル・ツェランの詩の一節。そして1981年に発表された村上春樹の短編小説「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」(『カンガルー日和』(平凡社、1983年所収))である。この小説は、自分にとっては100%の女の子とすれ違った主人公の男が、声をかけることができた世界を、後悔と共に想像する一篇である。これらの一節を交えながら、彼らは断片的に台詞を語る。ここから浮かび上がってくるのは、無限の可能性というものである。なぜ1970年4月20日に死んだのが、あのツェランだったのか。別の誰かの可能性はなかったのだろうか。なぜ1970年4月20日という日付だったのか。無限とも言える、他の任意の日付だった可能性はなかったのか。あるいは100%の男と100%の女という、運命的なカップルになれれば幸せだったのに、なぜ別の人と結婚して85%と75%という不十分な関係に収まってしまったのだろうか。このように、彼らは死んでもなお、ありえたかもしれない可能性に悶々とする霊魂として舞台上に在る。
©前澤秀登
2人の男女は能で言えばシテである。ワキとしてのトレーナー姿の女性は、彼らの断片的で哲学的な詩を聞かされるものの理解が及ばない。そこで隣に控えた大烏に意味を尋ねる。しかし大烏の返答は、彼女の意に反して「分からない」とあっけなくスカすものである。本来の夢幻能では、旅人のワキが前シテから土地の由来や未練を残して死んでいった者の話を聞かされる。その後にワキが、当の死者へと変貌した後シテの登場を受ける構造になっている。そして亡霊の後シテがクライマックスに舞を舞って、その想いを昇華するのである。本作では前シテが大烏であり、後シテが2人の男女と別々の存在に分かれている。トレーナー姿の女性はいきなり後シテに直面し、それから前シテに彼らの由来を尋ねるのだが、その試みが大烏のスカしによって失敗する。大烏が後シテの情念を晴らす前フリの役割を果たさないのは、本作がエドガー・アラン・ポーの短編小説『盗まれた手紙』(初出1884年、)が下敷きとなっているからであろう。大臣が政治的な陰謀から盗み出した「とある貴婦人」の手紙。警察が見つけることができないこの手紙を、名探偵・オーギュスト・デュパンが発見する作品である。それを踏まえた本作では、大烏が土地の由来や死者という肝心の内容が、盗まれている=忘却したという設定になっている。大烏から男女の人となりを教えられない女性は、再び彼らに当たって話を聞くが、やはり自分では理解ができない。そこで再び大烏に尋ねるが、先ほどと同じくスカされてしまう。そのために女性は、このやりとりを何度かループする羽目に陥ってしまう。そこで宙吊りにされた女性がしびれを切らして、「選ばれた人生を歩んでいる者の気持ちを考えたことがあるのか!」と悪態をつくのである。
意表をつかされるのは、舞台中央に水たまりができていたことである。『流れる』を評した時に、3本の円形の筋が同心円状に浮かんでいることに言及した。これは死者の想いを波紋として舞台空間に広める象徴として機能していたが、本作では一番外側の3本目の筋をフチに、そこまで水が張られていたのである。舞台中央に水が張られていたことを発見するのは、舞台空間に日食の影が照明によって演出されてからである。円形に切り取られた黒い照明が舞台後景に投射される。舞台中央の床面に円形照明の下半分が掛かり、そこが何やらゆらゆらとしていることに途中から気付く。水が張られていることに確信を持つのが、そこに2人の男女と大烏が入った際に、足取りと共にゆらめきが大きくなり、衣装から水がしたたり落ちるからである。そして背景に投影された円形の照明がそのまま下方に移動し、彼らを飲み込むようにして舞台中央の円形の形にぴったりと照明が合わさる。この水たまりは、満々と満たされた死者の想いの象徴である。『流れる』で拡散した死者の未練がその果てに凝集してゆらめき、どこかに届くことを待っているのだ。
さらに2人の男女が語るありえたかもしれない可能性が、138億年前のビッグバンによって生まれた宇宙と、そして太陽系を含む銀河系にまで拡張されて言及される。ここにおいて、滞留する未練は宇宙規模へとイメージが拡散する。想いは凝集して滞留しているだけではなく、宇宙規模に広がりその全体を満たしているように想像させられるのである。そうなれば未練の想いは、2人の男女に代表される死者だけではなく、彼らに悪態をつくトレーナー姿の女性をはじめとする、現世に生きる者の果たされなかった悔悟の想いをも含むことだろう。さらには誕生してしまった宇宙から派生した銀河系の、また別の可能性がありえたかもしれないということにまで想像を膨らませてしまう。そうすると、そもそも宇宙の成り立ち自体に、別の可能性があったことを考えてしまう。光環とは月が太陽を隠した皆既日食の際に、月の縁を円形に縁取った太陽の光のことである。そして光環のタイトルに付けられた「コロナ」の名は、100万度を超える高温のプラズマである太陽大気のことでもある。もちろんこの言葉には2020年から現在に至ってもなお収束しない、新型コロナウイルスをも重ね合わされていることであろう。東京財団政策研究所の研究グループが3月1日に公表したものによると、新型コロナウイルスの影響で「2020年と2021年の2年間で、国内の結婚の件数が合わせて約11万件減った可能性がある」という。それに合わせて厚生労働省が5月24日に公表した人口動態統計(速報値)によると、2021年に生まれた子どもは84万2131人で、14年連続で減少して過去最少を更新したという。宇宙規模にまで拡大された可能性と未練のゆらめきは、コロナ感染症がなければ生まれていたかもしれない子供たちの想いも含まれているかもしれないと思索させられた。円形に切り取られた照明と、それが移動して舞台中央を覆い、水面がきらめく中で死者が佇む光景は、まれに見る美しい光景であった。しかしその美しさは、宇宙規模にまで膨張した様々な未練や悲しみが滞留し、果たされることを待って満々としていることを、まさに皆既日食のごとく影として覆い隠している。そのことを舞台表象によって鮮やかに示していた。
自らの生を肯定するための「可能性」や「偶然性」
ありえたかもしれない過去、ありうる未来。人はそれらを現状に対する後悔として、または将来の幸福や不安の予感としてついつい考えてしまう。人をそのような思いに駆り立てるのは、ツリー状になった無数の選択肢の中からひとつを選んで、自らの生を方向付けているとどこかで考えているからだ。人はそのようなことを意識的にしろ無意識的にしろ、常に思いながら生き、そして死んでゆく。引用されるツェランは詩を「投壜通信」に例えている。浜辺に投げ出された壜詰めの手紙は、波にたゆたい時間をかけながらも、必ずどこかには届くと考えたようだ。それを自身の思想に取り入れたのがジャック・デリダであり、さらにデリダの思想を「郵便的」として展開したのが、東浩紀のデビュー作『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(新潮社、1998年)である。上演時に配られた「『光環』観劇の手引き」には、可能性を巡る本作の下敷きに、これらポストモダン思想があることが示唆されている。それを踏まえて本作を振り返った時に、私は『存在論的、郵便的』で印象に残っている「誤配」のキーワードを思い出した。瓶詰めされた手紙は時間をかけて届いたとしても、誰に届くのかを差出人が決めることはできない。そもそも届くことすらない可能性も大いにある。瓶詰めされた手紙とは『流れる』で言えば、何度も触れている死者の言葉や想いである。そしてそれら目には見えない存在が『光環』では、現在に生きる者たちの人生の選択肢や、平行世界の可能性をも含め敷衍して描かれている。本作で様々な作家や現代思想が織物として下敷きになっていること自体に、創り手が今となっては死者を含む作家や思想家の言葉を受け取り、本作へと昇華させたということである。創作にあたってこれらの素材に出くわしたことが、必然だったのか偶然だったのかは厳密に特定することはできないだろう。もしかしたら、もっと良い素材が別にあったのかもしれない。しかしながら、創り手はポーとツェラン、村上春樹、デリダ、東浩紀を選び、さらに彼らが膨大に書き記した作品群から任意の著作を選び、さらにそこから任意の部分にヒントを得て本作を創った。ちなみに『流れる』には、大塚英志『アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』(徳間書店、2003年)と東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』(講談社現代新書、2007年)が下敷きになっている。他の選択肢もあったかもしれないという意味で、創り手にとってはこれらの引用は「誤配」された結果、使われたものであるとも言える。絶対的に正しい引用といったものは、誰にも特定できない。にもかかわらず、創り手は「誤配」された言葉から触発されて作品を創った。このことが重要なのではないだろうか。でき上がった作品は、様々な可能性があったにもかかわらず、結果的には「こうでしかありえない」という現実がくっきりと浮かび上がるからである。
人の生も結局はこれと同じであると私は考える。芸術家ではない市井の人びとも、亡くなった肉親の言葉をふと思い出したり、手に取った書物から強烈な印象を受けて考え方や生き方が大きく決定付けられるといったことが起こりえる。それは言葉が「誤配」されて届いたということに外ならない。届かなければこの世界からなかったことになっていた言葉が、「誤配」によって任意の誰かに届いた時、生き返るのである。同じ言葉でも、別の誰かには無視されてしまうかもしれないが、また別の誰かにとっては有意義な言葉でありうる。そういう意味で、言葉は誰に届いても良いものでしかない。そして有意義だと思った任意の誰かがその言葉を頼りに人生の選択をした時、その言葉ははじめてこの世界に誕生して生きたものとなり、結果的に「誤配」された言葉は「誤配」ではなくなる。人生における悔悟も同様である。あらゆる可能性を考えながらも、結果的に今現在の生でしかありえないことを受け入れるということ。その時、偶然性や可能性から人は解き放たれて、現在の生を肯定的に受け入れることができるのではないか。つまり、死者を想ったり可能性を考えることは、自らの人生を肯定するためなのである。人生や世界の「if」を考えた末に現状を肯定することで、多数性の世界や選択肢から自らがそれを選び取って今があると納得ができるのだ。さらに言えば、選び取った選択肢は誤ったものであるかもしれない。しかしその誤ちも、多数の選択肢の中から自らが選んだものだと考えれば受け入れるしかない。そういう意味では、正しい選択というものはない。そういう意味では、私たちの人生における選択には、「可誤性」すらも肯定され得るのである。「可誤性」をはらんだ可能性に包まれた世界の中で、いかに主体的に選んだと思えるか。より良く生きるためにこそ死者を想い、可能性を考えることは人にとってとても大事である。この考えがなければ、人の人生とは『オイディプス王』のようにあらかじめ決まった運命のレールを歩いているだけという諦念に陥り、主体性が1ミリもなくなってしまうだろう。そもそも、人の人生には選択肢があり得るのか。それとも運命でしかないのかも、誰にも決定できない。まずはあらゆる可能性の中から、自らが主体的に人生の選択肢を選んだと思い込む。そしてそれを、動かすことのできない結果として、現状を運命論として受け入れること。未来の変革性と運命論をハイブリッドさせ、人生にはあらゆる可能性があると思いながら「可誤性」すら許容すれば、人は前向きにチャレンジして生きることができる。世界の決定性が宙吊りにされているからこそ、「誤配」の可能性に常に身をさらし、大いにありえた可能性に懊悩すれば良い。しかしその後には、今の人生を肯定せよ。それが生きやすくなるための方法論だと私は考えるのだ。
本作での死者の言葉は、結果的にはトレーナー姿の女性には届かなかったのかもしれない。女性は劇の途中、一旦ハケてからマスクを着用して再登場する。日食に飲み込まれた死者である3人とは対照的に、彼女は死者に悪態をついて、未来へと続く上手前の橋掛かりを突っ切り、コロナに見舞われた世界を生きることになる。死者の言葉は届かなかったのかもしれないが、彼らの姿を見た末に彼女は、厳しい現実を生きる彼女なりの自己肯定を果たした。そう受け取れば、彼女も彼らから何かしらの「誤読」をした上での行動を決断したということになる。私はそういう生き方も肯定したいと思う。
現在ウクライナで戦争が起きている。日々、映像メディアなどを通してかの地で多数の犠牲者が生まれていることや、悲痛なメッセージが日本にも届いている。その映像を見ながら、死んだのは彼らであり私たちではないという事実の中から、彼らのメッセージをいかに受け取るのかが突きつけられている。今後、日本が戦争に巻き込まれるかもしれない。そして自国民も死ぬかもしれない。政治はそのための備えの検討を始めている。そういった動きも含めて、では我々はどのような言葉を「誤配」されるのかが重要なのだろう。恣意的に言葉を受け取ることだけでは、かの地で起こっている現実を変えることも、戦禍を逃れた避難民を癒すことはおろか、死者の無念をはらすことは到底できないだろう。しかしながら、死者の想いとその受け取り方、そして人の生命を巡る運命論と主体性の間で揺れながら、まずは私自身の今の生を問い直すことから、何かを考えることしかできない。この度の2作品の上演は、人間の生を含んで今世界で起こっている、答えが出ない命題へと観る者を投げ出す射程を持った作品であった。以上の劇評によって、「誤配」された2作品を私なりに受け取ったつもりである。
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諷誦、砂、黒板―戦争と原爆の「実感」を得るために
藤原央登(劇評家)
烏丸ストロークロック×五色劇場『新平和』
2021年12月24日(金)〜26日(日) 会場 THEATRE E9 KYOTO
2022年3月3日(木)〜6日(日) 会場 こまばアゴラ劇場
2022年3月12日(土)&13日(日) 会場 三股町立文化会館ホール
2016年に結成された広島の五色劇場が、京都の劇団・烏丸ストロークロックの柳沼昭徳を迎えて行ったプロジェクト「原爆を今、演劇にする」から生まれた作品。俳優たちが3年間に渡って資料を渉猟し、被爆体験者や戦争体験者たちへのヒアリングを基に2019年に広島と福岡で上演した。この度、京都・東京・宮崎の三大都市ツアーで再演した。太平洋戦争では、アメリカによって広島と長崎に原爆が投下された。東日本大震災で発生した津波は、福島第一原子力発電所のメルトダウン(炉心溶融)を引き起こした。核爆弾の悲惨さを含む戦争の記憶をいかに継承するか。そのことが問われて久しい。
また自国民の保護を名目に2月24日にウクライナに侵攻したロシアは同日、チェルノブイリ原子力発電所を占拠した。その後も3月4日には南東部のザポリージャ原子力発電所を砲撃。6日と10には東部ハリコフの小型研究用原子炉がある「物理技術研究所」が、ロシア軍の砲撃を受けた。今いる場所からいかにして戦争の実感を得ることが可能か。そのことは、日本から離れた国で現在に起こっている戦争への眼差しを、どう持てば良いのかという問題にも通じている。諷誦される台詞とそれを受け止める俳優の身体、そして抽象的な空間の中で際立つ具体物。本作の上演スタイルからは、創り手が戦争と原爆を確かな実感として受け止めようとする意志を感じさせられた。
©井上嘉和
広島出身で介護施設で暮らす栗原チエ子(東圭香)は、同地で戦争と原爆の語り部を務めた。彼女が介護職員の若者(澤雅展)に、自身の戦争体験を語って聞かせた日々―2016年5月の広島平和公園内、その後の介護施設内、2016年8月6日の広島平和公園内―を描く3幕。2016年といえば、5月27日に当時のアメリカ大統領だったバラク・オバマが、大統領として初めて広島を訪問した年である。オバマ大統領は広島平和記念資料館を視察した後に、広島平和記念公園で「核兵器のない世界」を訴え、同年にノーベル平和賞を受賞した。
その前年の2015年は、敗戦から70年の節目の年であった。この年の最大のトピックは、当時の第三次安倍内閣による平和安全法制の成立である。政府はかねてより、集団的自衛権の行使は憲法違反と答弁してきた。それを一部容認する法案が成立する過程で、国論は賛成と反対で二分された。戦後の時間的な節目や日本の安全保障の転換となった当時の空気を背景に、チエ子と若者は広島平和記念公園を歩く。そこでチエ子は、この辺りはかつて旧中島地区と呼ばれ、様々な商店の他にモダンな喫茶店や劇場もある繁華街であったことを若者に話す。しかし原爆が投下された後は、様々な瓦礫を踏み固めて公園を整備したと述べる。当時の街並みが地層に閉じ込められた場所を歩きながら若者に語る内に、チエ子は戦前・戦中の街並みや人々を走馬灯のように回想する。年老いた自分に、原爆で亡くなった小学校時代の幼馴染や母、学徒出陣した兄・正一、近所に住んでいた在日朝鮮人の英子といった人々が語りかけ、かつての生活を再現するのだ。マスク姿のチエ子はほぼ無言で、ぼんやりとした表情である。洋服店の娘だった幼馴染の家で、真っ白なセーラー服を見つけてこっそりと着用したこと。戦争帰りの板前のおじさんに釣った鮎を焼いてもらい、妊娠中だったおじさんの妻のお腹を触ったこと。何よりも、家族とのやり取りが胸を打つ。英子は日本人から差別されながら、風呂屋で働いていた。直接会うことがはばかられる英子と正一の間を取り持ち、彼女から預かったお守りを、出征前の兄に届けたこと。そして正一の出征前に撮った、写真館での最後の家族写真。緊張するチエ子の姿を見て笑った家族たちを切り取る、マグネシウムの光。それが原爆の投下による閃光に重ね合わされる。一瞬に放たれる強烈な照明が、家族のささやかな時間を封じ込めるフラッシュと、人類悪としての原爆の威力を同時に示して切ない余韻を残す。
チエ子は現在と過去の境界線がなくなった、浮遊した時空間にしばしば誘われる。そんなチエ子の台詞は、舞台後景に控えた俳優たちによる諷誦でなされる。彼らは他の登場人物を演じ終えた後に、譜面台がある後景に移動する。そして時折り台本に目をやりながら、チエ子の台詞を全員で、時には数人や一人で割り振って発話する。フォトショップのレイヤー(写真やペイントをほどこした透明フィルム)で例えれば、現在の街並みとはすべからく、時の経過による変化を記したレイヤーを積み重ねてできている。広島平和記念公園を歩くチエ子が見る風景は、逆にレイヤーが一枚ずつ外れてゆくようなものである。チエ子のぼんやりとした表情とゆっくりとした足取りからは単なる回想というよりも、蘇る記憶に抗えずに現実から遊離し、世界が剥落して一人になってゆくように感じられる。この劇構造は、転形劇場『小町風伝』(作・演出=太田省吾、1977年初演)を思わせる。老婆が古アパートの一室で、かつての恋などを回想する幻想的な作品だ。能舞台で上演された作品だが、厳粛な空間の磁力に戯曲の台詞がはね返されたため、最終的には老婆の台詞が一切カットされた。そして台詞がなくなるに伴い、俳優の動きまで極端に緩慢になった。この作品はその後の『水の駅』(1981年)から始まる「沈黙劇」への扉を開くことになる。腰が曲がったチエ子も、足が悪くて歩行が困難である。チエ子と歩行を介助する若者の関係は、『小町風伝』における老婆とかつての恋人のそれだ。『小町風伝』に倣うことで、戦前・戦中の時間軸を一人の女性に集約させて表現しているのである。
©井上嘉和
また本作で採られた劇スタイルは、戦後数十年経って生まれた者が、戦争をテーマに劇化するためにも最適だったのではないか。俳優たちがチエ子の共感者、影としてのコロスとなってチエ子の台詞を担う。そうすることでチエ子の言葉は、彼女を含む無名の戦争犠牲者の声として聞こえてくる。いわばチエ子は、無名の死者の声を受け止める受容器として存在していたのである。無表情で佇む姿が、よりその感を強める。それはチエ子を演じる俳優自身が、声を受け止める依り代の役割を果たすことに他ならない。俳優が主体的に台詞を発する意味での役を演じれば、物語だけに回収されかねない。しかし本作でのチエ子は、ひたすら自身の台詞=無名の死者の台詞を浴びる。そのことで物語の内容はもとより、目の前にいるチエ子という存在それ自体に注目を促される。『小町風伝』は沈黙と緩慢な動きを通して、観客も自由に妄想しながら劇世界に関与する。それによって舞台と客席の「間」には、むしろ豊穣な言葉や感情が渦巻いて繋がりが生まれる。創り手と観客との協働作業が、能舞台との拮抗を可能にしたのだ。これと同様に、チエ子がどんな人生を辿り、そして何を考えているのかへと観客に思索を促す。加えてチエ子を演じた俳優自身も、言葉を浴びながら観客と共に彼女のことを考えたことだろう。
眼前の表象に注目させる劇スタイルを採ったことで、「沈黙劇」のような「間」の効果を生んだと言えよう。そして俳優の身体を際立たせ、その様態を通して戦争や核兵器のことを考えることは、語り部の話を聞くことに近い、ある種のドキュメント性を帯びはしまいか。このドキュメント性に基づくリアリティが、戦後の核を巡る様々な事象や現在のロシアのウクライナ侵攻といった、物語を越える拡がりを付与したのである。
チエ子が戦前・戦中をどう生きたかだけでなく、なぜ語り部になったのかも重要である。チエ子は集団疎開していたために、原爆の被害を受けなかった。原爆投下の翌年に広島に入ったチエ子は、かつての中島地区の惨状を目のあたりにしながら母の骨を探す。そこで戦災孤児に出会くわす一方で、生き残った英子と再会する。初潮を迎えたチエ子の手当てをしてくれた英子は、原爆の被害に遭っていた。英子は後遺症に悩み、結婚も延期となって生活に窮していることをチエ子に話す。唯一の親戚である勝男の養女になって成人したチエ子は、戦前から刊行されていた反戦文芸誌の原稿取りの仕事をしながら、その縁で知り合った栗原と結婚する。父を原爆による白血病で亡くしていた栗原は、この雑誌に関わることで自身も父のことを原稿にすることを決意する。戦争体験を形にし始めた栗原と共に戦後を生きてきたチエ子だったが、2人の間に生まれた子供を早くに亡くしてしまう。赤子の死の原因は、栗原が原爆二世だったから。そのようないわれなき差別を受けたことに加え、自身が原爆の直接の被爆者ではない負い目もあり、以後、チエ子は戦争の話をすることを避けて生きるようになる。
本作のプロローグとエピローグとして、2015年に催された広島原爆証言会の模様が描かれる。そこに参加したチエ子は、語り手の話が終わってから「うちでも、原爆のこと話してもええでしょうか?」と質問する。原爆被害の非当事者という理由で、戦争体験そのものに口をつぐんできたチエ子が、なぜ語り部をしようと思ったのか。その理由は明確には語られない。しかしきっかけを示唆するシーンが、舞台の終わり近くにある。2016年8月6日の広島平和記念公園は、5月にオバマ大統領が訪問したこともあり、数多くのマスコミのカメラに加えて、ネット右翼とレイシストが核武装や韓国人を排斥する演説を行っていた。若者と共に再訪したチエ子は、年老いた英子から語り部になったことを聞かされる。英子は被爆者であるが、チエ子と同じく証言活動を避けてきた。しかし中学生がいじめで自殺したニュースを孫と見て、自分も子供の頃にイジメらたことを思い出した。そしてあの時、自分をかばってくれた友達がいて救われたように、傍にいる人に寄り添って優しくする気持ちを広げる活動をして、世代を越えた連帯の輪を広げることを決めた。英子はそうチエ子に話す。
騒がしい平和記念公園で英子の話を聞いたチエ子は、続いて別の騒然とした光景に囚われる。それはまだ瓦礫が散乱する同じ場所で、1946年8月6日に初めての戦没者追悼式が催された日のこと。原爆が投下された午前8時15分に黙祷が行われた。静かな時間が流れる中、ある者が「お父ちゃあああん」と呼んだことがきっかけとなり、あっという間に親しい者を叫ぶ声でその場が包まれた。チエ子も知らぬ間に亡くなった家族を呼んでいた。戦争という破局的な悲劇においては、身近な家族や友人が犠牲となる。絶対悪としての戦争の悲惨さとその抑止を、被体験者の肌身に迫るものとして伝えるには、誰もがいる親しい者との個的な関係が断たれたり、生活が寸断されることの恐怖や悲しみを伝えることが第一義である。人間としての当たり前の感情に訴えての反戦の表明は、立派な思想やイデオロギーと同等かそれ以上に、血肉が通っている分だけ力強い。英子は横とのつながりを求めて語り部を担った。同じくチエ子もあの時の悲しみを根拠に、戦後70年以上経った今日と過去をつなげようとしたのではないか。チエ子にとっては、今後も同じような被害者を生み出すことがないよう、未来への警句を発することが、今を生きる人へ寄り添うことになる。そのことによって、家族を始めとする無名の死者の弔いにもなることだろう。そういう意味でも、チエ子の身体は過去と未来をつなぐ結節点なのかもしれない。
©井上嘉和
2017年に亡くなったチエ子が持っていた杖にピンスポットが当たる中、俳優全員がそれを眺め、チエ子がなぜ語り部になったのかを考え続けると述べて舞台は終わる。チエ子が語り部になった動機を探ることはすなわち、被爆体験者にヒアリングして作品を創った創り手はもちろんのこと観客に対しても、なぜかつての戦争を知り、語り継ぐ必要があるのかを問い返すことに他ならない。その仕掛けのひとつが、無名の死者の集合体としてのチエ子の声を、演じる俳優自身が現在進行形で受け止める諷誦であった。それに合わせてチエ子を無言にすることで、過去の悲劇を物語としてだけ受容されるのではない、目の前で起こることから何事かを感得させる、『小町風伝』に通じる劇スタイルに至った。その他に、舞台表象へと誘う重要なアイテムが2点ある。砂と黒板である。劇中、若者は天井からドサッと降りかかる砂を頭からかぶる。かなり細かいために軽さを感じさせる砂は、若者の身体を通して床に落ちる。そして劇が進むうちに俳優たちの歩行などによって拡がり、床が汚されてゆく。汚れた床は原爆の灰や骨、瓦礫に見えてくる。俳優が砂を被り、裸足の足裏でそれを感じることが重要なのは、そのことが戦争と原爆に言及する上での「実感」の拠り所となるからだ。砂はチエ子と彼女を演じる俳優の関係性を、他の俳優にも適応させるためのアイテムなのだ。
巨大で横長の黒板は、俳優が諷誦するさらに後ろ、舞台奥の壁に設置されている。初めに「栗原チエ子」と右隅に縦書きされ、舞台の進行に沿って子供時代の回想に入った時に、左隅に「山本チエ子」と旧姓が縦書きされる。その後も、勝男の養女になった際の「新保チエ子」の名や戦争詩や戦争にまつわる単語、そして原爆の犠牲者を思わせる人影などが次々と書かれる。最終的には、それらで黒板が埋め尽くされる。そして最後に、チエ子が永眠した「2017年」が記される。烏丸ストロークロックの舞台は、抽象的な舞台美術が特徴である。東日本大震災と東北の山岳信仰が題材になった『まほろばの景 2020』(2020年2月、東京芸術劇場 シアターイースト)では、組み上げたパイプで東北の山を表現する、冷え冷えとした独特の舞台空間だった。本作も砂と巨大な黒板以外は、むき出しの簡素な空間である。抽象的な空間の中で、ポイントを絞って砂と黒板を際立たせたからこそ、戦争や原爆へのフックとなる「実感」を観客にも与えた。
本作は初演から3年経っての再演である。2020年に柳沼は「1945ひろしまタイムライン」に関わっている。2020年の現在と同日同時刻の75年前の広島は、どのような状況だったのか。残された当時の3人の日記を基に、1945年に生きる3人がTwitterでツイートをする企画であった。市井の人々が見聞きした等身大の言葉は、現在を生きる者と同じ目線だからこそ、例えば自分が当時を生きていたらといった想いへと駆り立たせられる。この企画は現在に過去を混入させてつながりを持たせ、今とあの日の連続性と差異を感得させることが目的だったと言えよう。2019年に本作の初演を創作したことが、コンセプトに関連性のある「1945ひろしまタイムライン」へと派生したように感じる。だがこの企画は残念ながら、ツイートの内容を巡って炎上してしまった。とはいえ柳沼と俳優たちが取り組んできた、いかに戦争と原爆を受け止めるかという試みの重要性は変わらない。そのことが、語り部となったチエ子の動機を探り続けることに仮託されている。その絶えざる思考と試行のプロセスが、次世代によるさらなる戦争と原爆を語り継ぐことになるのである。
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