「歴史」といかに対峙し、いかなる距離を取るか――第19回目を迎えるd-倉庫主催のダンスフェスティバル「ダンスがみたい!」が、一昨年のストラヴィンスキー『春の祭典』、昨年のエリック・サティに続くお題として掲げたのは、クラシック・バレエの名曲、ピョートル・チャイコフスキーの『白鳥の湖』(1877)であった。
白鳥の湖と聞けば、その音楽のみならず、衣装や振付まですぐに思い浮かぶ人も少なくないだろう。一般に共有されているイメージがとりわけ強固で、楽曲の訴求力も強い古典作品であるだけに、対峙するには自らのスタンスの相対化と相応の戦略が求められる。今回上演された10作品のうち、私が鑑賞できたのは4作品――黒須育海【co.ブッシュマン】(7/19)、白井愛咲『名称未設定』(7/20)、C/Ompany『inspiration/delusion of SWAN LAKE』(7/23)、川村美紀子(7/28)――のみだが、4者4様『白鳥の湖』の全く異なる側面に着目していた点が、非常に興味深かった。
黒須育海【co.ブッシュマン】――音楽の解釈
まず黒須育海【co.ブッシュマン】は、音楽を身体に落とし込むという直球勝負に挑んだ。楽曲のリズムを身体の律動として取り込み、時に2足、時に4足で跳ね回りぶつかり合う男性6名の肉弾系群舞は、人間や白鳥といった形態を超えて、生物が持つ獰猛さを表出させる。男性による荒々しい白鳥像といえば、黒須自身も言及しているとおり、マシュー・ボーン版(1995)が思い浮かぶが、ブッシュマン版白鳥は、具体的な物語を語るのではなく、1対複数/1対1/ユニゾンと様々に変化するダンサー間の構図のみから詩的な情景を立ち上げていたことに、その特徴がある。また、描き出されるのは同種の群れの内でのドラマであり、そこに王子という「異種」は不在だ。
作品中、「白鳥の湖」のモチーフは常にずらされた形で登場する。たとえば、闇の中にバサッバサッと大鳥の羽ばたきを思わせる音が響いたと思えば、ひとりの男が舞台上で大きな白旗を振っていることが判明する冒頭場面。宮廷舞踏会に集まる人々を描く第3幕の華やかな序曲が、躍動感あふれる野生的な群舞へと変換される中盤の場面。いずれの場合も、ユーモラスである以上に、実直さが生み出すロマンティックさに満ちている点が魅力である。中でも印象的だったのは、バレエのチュチュを連想させる襞襟の見え方の変化だ。この襞襟を頭にかぶって項垂れる場面では、照明効果と相まって、それまでのエリマキトカゲのような笑いを誘う姿からは一転、非常に静謐で美しい画が立ち現れる。
体当たりで向かっていくタフさと、美的な形象に対する繊細なこだわり――横浜ダンスコレクション2017での受賞作『FLESH CUB』でも発揮されていたブッシュマンの身体性と美学をもって『白鳥の湖』を解釈した作品であったと言えるだろう。
白井愛咲『名称未設定』――形式の分析
第4幕の終曲からいきなり始まる白井愛咲『名称未設定』は、「形式」自体を問題化する。壮大でドラマチックな音楽に反して、淡々と舞台上を歩き回る4人のダンサー。以降もこの低温テンションを保ったまま、振付のクリシェを俎上にあげ、「こう来たなら次はこう続くだろう」という流れをことごとく断ち切っていく。そして観客の方も、次第にその「裏切り」の法則へと引き込まれていく。
この作品が批評的に取り上げる要素は、2つある。第1に、特定のダンス・スタイルが持つ常套表現である。たとえば作品中盤、ドラマトゥルク兼任の宮川麻理子による第1幕パ・ド・トロワの解説に続いて、音楽にのせた実演が行われるが、堂々と正面を切って踊る男性(加藤律)に対し、2人の女性(白井愛咲、熊谷理沙)はひたすらその後をついてまわり、彼が両肩に背負っているトイレット・ペーパーを巻き取り続ける。この他にも、踊り出す前のポーズやプレパラシオンの強調、「手をつなぐ」という象徴的身振りに還元された「4羽の白鳥」等、形式性に着目したクラシック・バレエの読み直しが随所に登場する。
一方で、ポスト・モダン・ダンスの以降の現代ダンスに見られるコンセプチュアル性にも、その分析は及ぶ。ミニマルな身振りや日常的仕草、メタ的な発言を挿入することで、舞台のイリュージョンを破壊すること。あるいは、拍手の使用、誰もいない空の舞台の提示、舞台転換の開示、照明変化によるスペクタクル性の誇張など、劇場の約束事を逆手に取ること。いまや手垢にまみれてしまったこれらの手法をひとつひとつ舞台に乗せていく様は、さながらクリシェの展覧会である。
第2に、振付の生成・伝達過程である。この点を問う作品は、多田淳之介『Choreograph』、田村興一郎『大きな看板の下で』等、近頃頻繁に見受けられるが、白井の特徴は、冷静な分析的態度を徹底して貫いたことにあるだろう。作品終盤、①ダンサーが軽くおさらいをする光景、②手書きのイラストを用いた振付解説ビデオ、③架空の「踊り手たち」を誘導し踊らせる「先生たち」の後ろ姿、という3種の周縁的な情報をもとに、観客は1曲分の振付を頭の中で想像するよう仕向けられる。しかしその「答え合わせ」がなされること――つまりダンサーによってその振付が実際に踊られること――はない。なぜなら、実演が始まろうとするまさにその瞬間に照明がカットアウトし、次に明転した時には舞台上は無人となっているからだ。
舞踊史上最も有名な作品のひとつである『白鳥の湖』を出発点に、コンテンポラリー・ダンスに至るまでの流れを視野に収めながら展開したこの分析の最終的な到達点が、当のダンスの「不可視化」であるという点は示唆的だ。リアルなダンスが消え、ヴァーチャルなダンス体験のみがそこに残されるのである。
C/Ompany『inspiration/delusion of SWAN LAKE』――構造への解体
原作を抽象的な構造のレベルにまで解体したのが、C/Ompany『inspiration/delusion of SWAN LAKE』である。他の3組がチャイコフスキーの音楽や「白鳥」のモチーフを随所で使用しているのに対し、大植真太郎と児玉北斗はそのような具体的要素は一切用いない。レヴィ=ストロースが個々の神話が内包するより普遍的な構造を明らかにしたように、彼らが『白鳥の湖』の中から抽出したのは、白と黒、善と悪の対比に代表される二項対立構造だ。
大植と児玉のいずれも、若い頃から海外のバレエ団でキャリアを積んできた踊れるダンサーだが、両者とも最近の主たる関心は「言葉」にあり、この作品でもいわゆるダンスらしいダンスは少なく、もっぱら語りが中心的な役割を果たしている。中でも彼らが意識的に用いているのは、言葉の非在性と行為遂行性だ。目の前に存在しない事物について語り、ある現実を作り出していける言葉――その特性を活かしながら、舞台上の児玉は抽象的な概念について流暢に語ってゆくのだが、言葉を重ねれば重ねるほど、却って言説的に構築されたものの不確かさが露わになるという逆転現象が生じる。とりわけ「ある/ない」をめぐる話は、途中から堂々めぐりになり、言葉の上だけで展開する空論と化してゆく。
そもそも、強い光に照らされ、空調も切られたホール内は汗ばむほどに暑く、観客の集中力は著しく削がれる。このように身体的に負荷のかかる環境下で、哲学的な引用を含む長台詞の全てを解するのはなかなかに困難で、また作り手側がそれを期待しているとも考え難い。その中で意識化されるのは、発言の意味内容よりもむしろ、話し/聞く身体の生理的感覚それ自体であろう。水で喉を潤しながら、身振り手振りを交えて語るダンサーと、同じく事前配布されたペットボトルの水を飲みつつ、目と耳に飛び込んでくる情報の意味を思考する観客。ダンスの喚起する運動感覚的共感以上に「身近」な身体の交感と同調が、両者の間には生まれている。
ここで二項対立の話に立ち返ると、『白鳥の湖』にはひとつ面白い特徴がある。それは、白鳥オデットと黒鳥オディールという正反対の特徴を示す2役をひとりのダンサーが踊る伝統が、プティパ&イワーノフ版(1895)以来定着していることである。言説上相対する二項が、ひとつの身体のうちに共存すること――この発想を適用すると、大植と児玉が本作品において言葉に比重を置いた意図が見えてくるように思われる。すなわち、バレエが自律した1ジャンルとなってから西洋舞踊の歴史の中では長らく対立関係にあったこの二項を、いま再び身体を介して結びあわせる――『白鳥の湖』からの着想(インスピレーション)、あるいは妄想(デリュージョン)として、そのような心身二元論を超えた両義的なあり方の実現が志向されていたのではないだろうか。
川村美紀子――主題の変奏
形式・構造といった外枠に注目した上述の2作品とは対照的に、川村美紀子は『白鳥の湖』の内容面に真っ向から対峙する。主題、楽曲、特徴的振付といった諸要素を自らの世界観に組み込みながら、王子様の到来を夢見ていた無垢な少女が、恋愛に翻弄された挙句、猟奇的狂気へと陥ってゆく物語へと大胆に書き換えたのである。
自作自演のソロ作品、とりわけプライベートな主題を扱う私小説的な作品は、ともすると独り善がりな印象を観客に与えてしまう危険性を有する。しかし川村は、そこかしこに「醒めた目」を入れ込むことで、個人的な物語を描きながらもこの陥穽にはまることを巧みに防いだように思われる。たとえば、各場面を分割するインタータイトル。「王子来たる」「白鳥のソロ・コーダ」といった場面タイトル(と思しきもの)と使用楽曲情報がスクリーンに映写されるが、これらは時間進行を強制的に断ち切るのみならず、しばしばメタ的に作用する。丸めたティッシュ3つと共に踊る「4羽の小さな白鳥の踊り」や、黙々と膝で回り続ける「黒鳥の75回転」などがその例である。
また、一見物語から浮いて見えるダンスも、同様の役割を担っているだろう。王子との出会い、求愛など、心情を表す情緒的なダンスを踊ることが予想される場面で、川村はストリートダンス由来の技術を駆使しながら――踊っていない時の内気な挙動からは想像がつかないほど――パンチの効いたダンスを踊りまくる。様式性の高いその動きの迫力によって、甘いムードは打ち砕かれ、物語は一時的に宙づりになる。
そして何より、憧れの王子様は、「王子」と書かれた紙を頭に張り付け、赤褌のみをまとった男性マネキンなのだ。笑いには一種の対象化の作用があるが、このように作品のあちこちに散りばめられた「突っ込みどころ」が、“ダンサーとしての川村”が演じる物語を突き放して見ている“振付家としての川村”の存在を示唆し、単なる「私語り」とみなされることを回避している。
とはいえ、クールなまま終わるわけではない。非常に緻密な構成力と破壊的なエネルギーの共存によって、カオスとコスモスが入り乱れた境地にまで達するのが、川村の怪物たるゆえんである。作品が進むにつれ、観客は舞台上の川村の情念の渦へと巻き込まれていく。床中を水びたしにしながら、絶叫し、転げまわり、マネキンの王子をバラバラに解体していく最終場面には、ただただ圧倒されるほかにない。王子と王女の純愛悲劇として語られるおとぎ話を、ゴシップ誌がかき立てるような現実的で卑俗な男女の恋愛譚へと変奏し、女性の側から見たこの物語の理不尽さを前景化する。その試みは、古典の主題に対して「そんなの美しくなんてない!」と正面から殴りかかっていくような、痛々しいまでのパワーに満ちていた。
共有財産としてのダンス
ダンスはそのメディアとしての性質上、上演と同時に消失し、演劇における戯曲、あるいは音楽における楽譜のような、作品の同一性を担保する誰もが参照可能な物質的手がかりがほとんど残らない。それゆえ、何を作品同定の根拠とするかは、――C/Ompanyの作品の最後に語られる「これまで見た『白鳥の湖』を想像してください」という言葉が示唆するとおり――もっぱら個人の主観的経験に根ざすしかない。その点において、この『白鳥の湖』連続上演は、観客としての自らのまなざしのバイアスを殊更に省みさせられるものであった。
『白鳥の湖』というよく知られた古典作品ひとつの中にも、限りなく広がる読みの可能性がある――上に挙げた4つの多彩な挑戦は、私たちの足元に広がるダンスの歴史の豊饒さを実証している。大概の目新しいことはすでにやり尽くされている今必要なのは、その大地を耕して新たな実りを得るとともに、未来に向けた「土作り」を行っていくことではないだろうか。東京で舞台を見ていると、文脈化の試みがなされないまま、ただただ作品が消費され、忘却されていく危機感を覚えることが時折ある。だが――『白鳥の湖』を例に語るなら――後世の多くの演出のもととなったプティパ&イワーノフ版の白鳥と同様、2017年版の白鳥もまた、将来の『白鳥の湖』の礎となるべきものだ。痩せた地では、作物は育たない。未来のダンスの発展のためにも、今のダンスを歴史のうちに組み込んでいくことは急務なのである。
ダンスをどのように記録にとどめ、共有財産として蓄積し、さらに活用していくか――より視点を広げれば、これはアーカイヴの問題にもつながってくるだろう。だが何よりもまず欠かせないのは、「今目の前のダンス」と「歴史」の関係を絶えず問い直していく個々人の姿勢である。その中で、重厚な名作をお題として提示することで、過去の遺産と主体的に向き合う機会を作り手と観客の双方に提供する「ダンスがみたい!」の試みの意義は大きい。春の祭典、サティ、白鳥の湖……さて、来年は何が待ち受けているだろうか。
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