〈アート〉と〈アクティヴィズム〉の狭間で
――ライバッハ、北朝鮮、福島第一原子力発電所――
石川雷太 (現代美術家)

 鉄、ガラス、文字などを用いたインスタレーション作品を多数発表。多様な引用と組み合わせ(サンプリング& ミックス)により、物質と人、自然や戦争の問題まで、様々な角度から〈世界〉を映し出す。ノイズ・パフォーマンス・ユニット「Erehwon」「混沌の首」 の活動でも知られる。展示は、森美術館、府中市美術館、イスラエル美術館、原爆の図丸木美術館、「日本アンデパンダン展」「BIWAKO ビエンナーレ」他。
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 2001年、アメリカの同時多発テロの直後、現代音楽家のシュトックハウゼンが、インタビューの中でWTCのテロを「偉大な芸術作品」と賛美したとして叩かれ謝罪するという事件があった。実際にはWTCに対するテロ行為を肯定しているわけではないが、比喩的表現としてそう発言してしまったということらしい。真意はわからないし、シュトックハウゼンの意図がどうであったかについてもさして興味はない。そうした時期に使う言葉としては不用意だったとは思うが、仮に本人がニュース映像を見て素朴に「美しい」と思ったなら「美しい」と漏らしたとしても、それほど問題視することでもないのではないかと個人的には思う。
 ちなみに、「あの事件については、みなさん頭をよくリセットしてくださいよ、あれはアートの最大の作品です、私はルシファーのおこなう戦争のアート、破壊のアートの、身の毛もよだつような効果に驚いています」との発言の後、「もちろん。それは間違いなく犯罪です。罪もない人々が否応もなく多数殺されてしまったのですから」「いま言ったことはオフレコにしてください。誤解されると困りますからね。」と本人が言ったのを無視し、メディアは話の前後をカットしセンセーショナルな部分だけを抜き出して報じたらしい。

 ここでは、WTCのテロをめぐる発言に対する冷静な評価というより、単にそれにともなう一般の人々のトラウマとルサンチマンを収拾するための仕掛けとして、シュトックハウゼンの発言が利用されたのではなかろうか。攻撃対象が必要とされているからメディアのこのような細工も機能するわけだ。問題なのは、むしろ怒りの整流装置として振舞っているメディアの方だろうし、それを良しとして加勢しカタルシスを得ようと群がった大衆の黒い心理の方だろう。似たような例は現在の日本にも散見される。先日3年振りにシリアのテロリストによる拘束から解放されたにもかかわらず、ネット上などで自己責任論でバッシングされたフリージャーナリストの件なども一例だろう。
 9.11の当日、実際私もネットとテレビに同時に突然インサートされてきた、炎上するWTCに突っ込む旅客機の映像を見て、〈美しい〉と思った。初めは映画か何かのワンシーンが紹介されていると思ったのである。現象に対する素直な反応だ。当たり前のことだが、知的で「人道的」な価値判断よりも〈美しい〉という生理的な反応の方が先に来る。WTCテロはあるまじき犯罪だろう。しかし、だとしても、素朴に反射的に〈美しい〉と、そう〈感じる〉ことは悪いことなのか。もし、それすらもが悪いことだとして自粛しなければならなかったり、それを発言した人が袋叩きにされるのだとすれば、表現の現場とは如何に窮屈で抑圧的な場所なのだろうか。〈美しい〉とか〈快い〉という基準は、人にとって根源的な表現の源泉なのではなかったのだろうか。だから、私はこのシュトックハウゼンの一件には違和感を感じている。
念のために補足するが、「美しい」というのはそれが個人的な反応である限りにおいて了解されるべきと考えるが、それが「普遍」や「絶対」へとスライドすれば暴力となる。この件は、単なる個人の反応が恣意的にそのような「暴力」へとスライドさせられているという点の暴力性自体が問題なのである。「美しい」を、「善」や「人道主義」、「国家」や「理想」に置き換えても同じことだ。

 この問題は、〈アート〉と〈アクティヴィズム〉がクロスする現場で時折響く不協和音を招く端緒となる。〈アート〉と〈アクティヴィズム〉、これらは来るべき新しい世界のための両輪だ。前者は直接制度にアタックして社会を外側から変えようとする、後者は人の心に働きかけ社会を内側から変えてゆく。アプローチとしてどちらも不可欠だ。しかし、その過程において最優先さるべきポイントにズレが出てくる時がある。目的が同じでも回路の違いが暫定的なそれぞれの志向性の差異として現れてしまう。デモや争議の現場で何度もそれを経験した。

石川雷太『昭和・平成・パルチザン』(テキスト:三島由紀夫、日本赤軍、石川雷太Twitter)2018年、BIWAKOビエンナーレ2018

 残念なことに、〈アクティヴィズム〉の現場では、〈アート〉は「個人的なもの」「自己満足の産物」という理由で疎ましがられることも少なくない。間接的だし相手にそれを解釈しようという好意的な意思がなければ機能しないからだ。直接的な議論や直接的な交渉(直接行動以外では当然言葉を使うわけだが)を行なうべき場面では、強行突破する瞬発力と即効性を求められるため、〈アート〉という方法論は回りくどいと思われる。
 しかし、対イデオロギー、対物理戦の過程で必要なもの、すなわち「言葉」と「兵」だけを求めて先鋭化するとき、大きなものが失われていくような気がする。「言葉」の専制が私たちの個々の感性を凌駕する時何が起こったか、私たちは何度も経験してきたように思う。日本赤軍にせよ三島由紀夫にせよ、言葉への偏重、闘争優先の自己疎外の末に自滅したのではなかったか。また、かつての大日本帝國も「日本」という実体のない幻影を守るという「美学」に人の実体が食い潰されることで自壊したのではなかったか。私にはそのように見える。  


SYプロジェクト『ゼロベクレルプロジェクト』2014年(石川雷太、今井尋也、万城目純、内田良子、多田美紀子、他 )
 外側を強化する戦術とともに内側の補完が重要である。外壁だけを固めても、守るべきものがなければ単なる闘争のための闘争となる。「でも戦争になったらどうするのか、有事に備えて全精力を注ぐべきである」という反論は無思慮で横暴な人間の詭弁だろう。中身のない人間ほど武力に頼るし、退路が見えなくなれば玉砕の美学を語りだす。それは幻想への逃避だ。どんなに脚色装飾しても、闘争のための闘争が不毛であることには変わりがない。何故そのような結果に至るのかといえば、中身が無いからである。内的な充実がなければ貧しい腕力志向だけが残る。このことには右も左も関係がない。今・ここにあるリアルな生命を守り生かすことができなければ無意味だ。
 〈アート〉はフェイクである。この自覚と認識は極めて重要だと思っている。この点の混同が多くの混乱を招いている。アートはフェイクであることによって、〈悪〉をも演じ、正確にそれを捉えることができるのである。フェイクであることによって、常に超越論的な視点を確保し、外部から世界を俯瞰し、それ故に絶対的な批評装置として機能し続けることが可能なのである。
 例えば、悪政を敷く政府に自らの「悪」を評価し裁くことはできない。悪人は自らの「悪」を対象化できないから悪人でしかあり得ない。「善」もしかり。そして、他のあらゆる尺度を相対化するためには、自らの尺度を放棄あるいは眠らせなければならない。〈アート〉は「ある目的」を達成するためのツールではない。特定の目的のために奉仕するものでもない。むしろ数多の「ある目的」を破壊するための自律態であることが望ましい。というか、それがおそらくそもそもの自然な〈アート〉の属性である。それを特定の志向や目的に接ぎ木しようとすれば、そこで齟齬が生じるのは当然だろう。
 私流にいえば、それは「希望の実験室」である。未来への指針を試すモラトリアムである。現実ではないフェイクの場所である。しかし、ピカソの名言にもあるように「芸術とはわれわれに真理を悟らせてくれる嘘である」。こうした〈アート〉の性格を、多くの人々が了解していれば、余計な軋轢も無くなるのではないかと夢想する。
 社会的な善悪の尺度で〈アート〉を裁くのは愚かしい。光を描くと同時に、負の産物、負の側面を照射することもまた〈アート〉だからだ。逆に、〈アート〉を通して個人的な美学や個人的な快不快の感覚を他に強要したり、ことさらに自我を肥大させる行為も愚かしい。〈アート〉は決して人間の傲慢さの免罪符などではないからだ。〈アート〉と〈アクティヴィズム〉は、それぞれの守備範囲とそれぞれの限界を明確にするべきだろう。そして、他を一方的に利用しようとするのではなく、生かすこと。そうすればおそらく双方が最大の力を発揮する。バランスをとること。たぶん私たちには、もう時間は無いのだから。


石川雷太『放射性廃棄物ドラム缶パフォーマンス』©金浦蜜鷹
 現在の日本における〈政治〉と〈アート/芸術〉の乖離は何に起因するのだろうか。本来、人は社会的な存在なのであり、それ故に、例え〈個人〉という場所から発信される表現であっても、例外なく社会性/政治性を帯びているはずなのである。しかし、それをあたかも社会や政治から切り離されたものとして、多くの作家自身も捉え、そのような方向に進もうとしているという状況は何によるものなのか。
 とある大学の卒業生から、担当の教師から「美術家は政治と距離をとった方いい」という指導をされたという話を聞いたことがある。私は、こうした価値観の根底には、かつての戦争画のトラウマや言葉に対する免疫の無さ(自信の無さ)が影響しているのではないかと見ている。もちろん学生も影響を受けるだろう。社会や政治に近づかないこと、眼をつぶることは、結局は自らが一番嫌っている当のものを野放しにし、そのことでそれを補完し強化することになるのだが。
 2015年、自民党の安倍首相に近い議員たちで構成される「文化芸術懇話会」設立趣意書の中で、「政策芸術」というものに言及されている。「心を打つ『政策芸術』を立案し、実行する知恵と力を習得すること」が主眼ということだが、そもそも「政策芸術」などという言葉は存在しないし、自分たちの意図する「政策」を推進するための「芸術」であるなら、それはプロパガンダだ。戦争画もファシズムも遠い過去の物語ではない。作り手が「自分は無関係だ」と無視していても、利用できるとなれば権力は確実に制度に組み込み搾取する。〈アート/芸術〉は国家の道具ではない。いかなる状況にあっても最後まで〈私たちのもの〉でなければ意味がない。だから、眼を見開いて見続けなければならない。


Libach
 ライバッハ “Libach” というバンドがある。80年に旧ユーゴスラビアで活動を始めたインダストリアル・ノイズのグループだ。バンド名を第二次大戦中ナチス占領下にあった都市の名前からとったという点からもわかるように、軍服や兵器、鉤十字のようなアイコンなど、一貫して全体主義的なイメージを全面にフューチャーした作品を展開している。ここにあるのはファシズムの美学である。政治的なスタンスが不明だったためか実際に彼らはユーゴスラビア政府による監視の対象にもなっていたらしく、そのせいか88年の来日公演は直前に中止になっている。
 このライバッハが、2015年に北朝鮮でコンサートを行った(映画もあるのでご存知の方も多いと思う)。北朝鮮史上初の海外のロックバンドのコンサートは金正恩の命を受けて実現したらしい。思うに、鉄の国家主義体制を標榜する金正恩はライバッハの音楽を聴き、これこそが最も完成された現代の国家主義の音楽だと受け取り評価したのではないだろうか。いわゆる「アート」や「芸術」という概念が存在しない北朝鮮では、極めてコンセプチュアルで諧謔的なライバッハのコンセプトなど理解できなかっただろうし、また理解する必要もなかっただろう。だから、扇動的なライバッハの音楽は、パロディとしてではなく、リアルなファシズム音楽として北朝鮮で機能した。そのことは、後に北朝鮮の国民的女性楽団「モランボン楽団」が、ライバッハを思わせる音楽的アレンジや映像を多用したステージデザインを導入している事実をみても明らかだろう。
 ここで注目すべきと思うのは、ライバッハがあくまでも軸足を〈アート/芸術〉に置きつつ、キッチュではなくリアルなファシズムを飲み込んでしまった点なのだ。ライバッハは今頃大笑いをしているだろう。そして同時に私たちはライバッハのこれらの作品を見ることによって、ファシズムの滑稽さをリアルに知ることができるのである。
 〈アート/芸術〉は人を殺さない武器である。非言語的である故に、イデオロギー論争に絡め取られることもない。むしろそれを相対化する。経済のサイクルから外れているが故に、生産性を求められることもない。むしろそれを相対化する。それでいて人々の心に確実に影響を及ぼす魔術的な〈力〉がある。3.11以後、崩れ落ちるように右傾化するこの日本でも、ライバッハのようなポジティブで破壊的な〈アート/芸術〉がもっと増えれば、確実に世界は変わると思うのだ。そして、まず何よりも先に破壊しなければならないのは、恣意的な情報の刷り込みによって作り上げられた、硬直した「私」自体であり、硬直した「あなた」自体である。

Libach
 ファシズムも北朝鮮もナチスも大日本帝国も「美しい」。歴史の原動力たるその私たちの血と最低の「美学」と、覆しようのないその矛盾を直視する時、初めて私たちは未来を切り開く視点を得られるにちがいない。ファシズムは残念ながら人間の否定のしようのない属性としての、美しい徒花である。ライバッハはそれを戯画的に対象化している。そして、おそらく北朝鮮は、現在の日本は、世界の警察と豪語するアメリカは、それをリアルに実践している。私たちは「直視しないこと」によってそれを補完している。

 そもそもが「人間は優れている」という自己評価自体が幻想に過ぎない。幻想の幻想性を暴くのが〈アート/芸術〉の最大の役割である。その意味で、現在日本に住む私たちは最高の作品を前にしている。福島第一原子力発電所だ。福島第一原子力発電所は今最高の〈芸術作品〉になった。崩壊することで世界の実相をリアルに垣間見せる装置となったからである。
 この論理には批判や異論もあるだろう。しかし、もしそうであるなら、私はいつでも「アート」の定義の方を投げ捨てる。「アート」という制度や概念自体の作法や伝統や権威を守ることが目的ではないのだから。


公演情報:石川雷太「日本国憲法」を上演する 2019/5/6 @d-倉庫




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