“政治的でない人はいない”と“表現をしない人はいない”は、同一線上にある“意識”であり“生活”そのものではないのか? 牛川紀政(音響家) 1966年、品川区生まれ。劇団兼イベント会社で演劇・イベントの音響始める。クラブDJをしながら楽器店4年間勤務を挟み、ダンサー野和田恵里花と出会い再びフリーの舞台音響に。Nomade~s、ほうほう堂、金魚、チェルフィッチュ、LUDENS、まことクラヴ、大橋可也&ダンサーズ、BABY-Q、輝く未来、珍しいキノコ舞踊団、BATIK、サンプル、モメラス、オフィスマウンテン…etc 2017年~、立教大学現代心理学部映像身体学科兼任講師。 「政治と舞台について」というお題で、artissue編集部から執筆依頼があり、大分日数が経ってしまった。普段からTwitterで、舞台の裏方を生業としながらも、現政権になってからポリティカルな話題を中心に呟いてはいる。しかし、いざ何千字以上でお願いしますと言われるとなかなか難しい。今回も何回も書き直しては2000字前後を行ったり来たりした。いかんせん140字に慣れすぎてしまった、いわゆるTwitter脳になってしまっていたから。
そこで、その2000字前後のものは一旦チャラにして、2015年チェルフィッチュツアーで体験した、2度のテロとのニアミスについて記録を綴ったブログを転載して、字数を稼ぐことにした。 というのは嘘で、それだけではなく、実際に今回のテーマにうってつけであることに気がついたからである。結果、依頼された字数を大幅に越えるものになってしまった。 それは、2015年11月に入って、両国で大橋可也&ダンサーズの公演と、浅草で岩淵多喜子振付のインテグレイテッドダンスカンパニー響の公演をやった直後に、チェルフィッチュ帯同メンバーより単身1日遅れでツアーに合流するため、ヘルシンキの空港到着後直ぐに劇場に向かって、仕込みをしたのが幕開けのツアーだった。 United Nations Photo11月9日に出国、ヘルシンキ、ベイルート、パリの3都市を回り、11月23日に帰国して、11月26日にブログに上げた。それを以下に全文引用する。
https://wikitravel.org/shared/File:Paris_overview_map_with_listings.pngこのブログで何かとわたしが仕切っているように見えるのは、この時はたまたま演出家が同行せず、制作体制は若手1人での初ツアー、俳優スタッフ合わせてわたしが年長者だった。だから使命感があったのだと思う。 そして、約3年前に書いた“このあと見解を書くかも?しれません”についての応答として、やっとそれは今書くときじゃないかと思い、そのブランクを埋めてみたい。 我々舞台に関わっている者たちだけが、このテロとのニアミスをしたのかというとそうではない。商店街で買物をしていた人たち(ベイルート)、カフェでコーヒーやビールを飲んでいた、またはライブハウスで音楽に身を任せていた、またはレストランで食事をしていた色々な職業の人たち(パリ)は、実際にテロに巻き込まれている。この人たちは、何を買うか? 何を飲むか? どんな音楽を聴くか? 何を食べるか? という日常の選択肢において表現をした結果、その場に居合わせた。何も舞台に立つ者だけが表現をしているのではなく、皆日常的に表現をしていて、芸術家だけに特化されたものではもちろんない。日本国民であれば、憲法上表現の自由は保証されてもいる。ベイルートとパリではその表現者たち=生活者が狙われ、恐怖に貶められた。 では狙ってきたのは何か? それは各国の政治の結果で、なるべくして起きたのではないか? と考える。その為政者たちを選んでいるのは一応民主主義を取っている国では、その構成員である全ての表現者=有権者である。つまり我々が、テロが起こっても構わないという人たち=政治家を選んでいると言うこともできる。極論に聞こえるができてしまう。民主主義がしっかり“機能”していれば、テロは起きない“はず”である。何故なら分断させて争わせて戦争で商売している政治家たちが“当選”しているのだから(そう言った意味では民主主義は未完成)。それが実際に起きてしまっているのは、何処かに歪みができているからではないのか? ではその歪みを、この日本において見てみる。 政治とは、“表現であり生活”であると言える。投票好意=表現によってどういう政策を掲げる政治家を選ぶか、つまりどういう生活をしたいか? どういう仕事のあり方がいいか? どういういう経済政策がいいか? 格差は是正したほうがいいのか? 分断されて争わされていいのか? その分断で戦争しなければならないのか? 等の選択=選挙=表現で、有権者は選ぶから/選べるから(有権者は独裁を選ぶこともできる)。しかし、政治とそれらを同一線上のものだと自覚していないある一定の有権者も、「生活」をしている、「表現」をしている、「仕事」をしている、「経済活動」をしている、「格差」で貧しくなる者もいる、「分断」されている、「戦争」したがる人もいるのが現実。 しかし自覚していない人たちをわたしたちは批判できない。わたしたちが批判を向けるべき対象は、自覚しない人を量産するための政策をとっている、ある一定の政治家たちとその大票田の元である財界(グローバリズム)ではないのか。政治をコントロールするその政治家と財界は、圧倒的な有権者の割合である庶民のほうを向いている振り(パンとサーカス)をして、富裕層が有利になる政策をこっそりとどんどん法案化していっている。そういう意味で、そのある一定の政治家たちと財界は、圧倒的な割合の庶民を二重の意味で政治に目を向かわせないよう“莫迦にしている”と言える。 一つは、私たちを「小莫迦にしている」という意味でよく使う“莫迦にする”で、もう一つは、政治と生活とが同一線上のものだと気づかれないよう、目覚めさせないよう“莫迦の人達を量産する”という意味での莫迦に“する”こと。この両方の意味で“莫迦にされた”人たちは選挙や政治に関心を持たなくなる。関心が無いということは政治(国会)が存在していないに等しいから、生活への意識を捨てたようなものである=支配層に隷属。権力を振るいたい為政者たちには大変都合のいい“莫迦にする”政策(愚民化政策)ではないか。 日本の全有権者のうちの僅か20数%の得票率しかない今のとんでも与党が、この国を運営できる理由でもある。選挙に行かない、政治=生活を放棄した60%前後の有権者である私たちはまんまと嵌められているのではないのか? (これは陰謀論ではなく、単純に真の陰謀なのだ。陰謀論は真の陰謀の隠れ蓑で、なんでも陰謀論にしてしまえば本物の陰謀は霞む) その両方の“莫迦にする”大量生産装置はいたるところに仕掛けられている。その代表的な装置と言えば、財界がスポンサードする全国版の大手TV/新聞グループだ。財界がスポンサーにあるという事は、報道は財界に不利になることは避ける。ここに偏向報道が生まれる。特にTVは娯楽に紛れ、政治的サブリミナルメッセージがちりばめられていて、安易に流し見をしていると為政者/偽善者たちのバイアスにかかってしまうことが多い。そのため、“娯楽”をTVに独占され過ぎていると、バイアスのかかった日本人しかいなくなってしまう。 わたしたちが大手メディアや財界と癒着した政界に、カウンターでやるべきことは、“娯楽”を、地域に、街に、または様々なメディア(インディペンデント)に拡張して、沢山の表現があることを60%の人たちに知ってもらうこと以外にないのではないか? INDEXに戻る |