ダンスの戦争責任 ~1940年 戦時下の舞踊家たち~ 
坂口勝彦
(ダンス批評・思想史)


 「政治と舞台」というテーマを与えられて数ヶ月。幾度か構想を練り直してようやくここに至った。日本の戦時下でのダンス。そして、舞踊家たちの戦争責任の問題。どちらもいまだにはっきりと語られていない。語られないまま戦後が始まり、今に至っている。それを語り得る舞踊家もほとんどいなくなってしまった今、それを問わなければ、昭和、平成、そして令和という天皇に由来する年号の背後に隠れて戦争責任がどんどん遠くかすれてしまうだろう。だから、今から80年前の1940年に注目してみたい。1940年はオリンピックと万博で、戦争とアジア侵略を勢いづけようとしていた年だった。どちらのイベントも実際には行えなかったが、オリンピックと万博でどうにか景気を浮揚させようとしている今の日本と似ているところがある。日中戦争から太平洋戦争へとなだれ込んでいくあの頃、舞踊家たちは戦争を推進するために踊っていた。

 1940年に、劇作家の岸田國士が次のように書いている。
「われわれは、現に遂行しつゝある戦争といふ大事業を完成するために、われわれの既にもつてゐる文化の力を有りつたけ活かして使はなければなりませんが、更に、明日のより大きな國家的役割を果すため、今日からもうその準備に取りかゝつておかなくてはなりません。それは、いふまでもなく、世界的日本の地位にふさはしい雄渾にして高雅な國民文化の素地を作りはじめることであります。」(『文化の新体制』大政翼賛会出版部(1940年)p.15)
日中戦争が始まって3年目、大政翼賛会文化部長を務めていた時だからこそ、戦争をまるごと肯定し、動員体制を推奨する発言をしたのだろう。
 岸田をはじめとして演劇人の戦争協力についてははかなり知られている。でも、同じようにこぞって戦争に協力していたのに、舞踊家たちのことはあまり語られない。しかもその責任を問われることがほとんどなかったせいか、舞踊家たちの多くは戦争が終わると何もなかったかのように活動を再会した。上海で日本軍の文化工作に明らかに加担していた小牧正英は、1946年に帰国してすぐに「東京バレエ団」を結成して『白鳥の湖』全幕を上演し、それが日本初の白鳥と語り継がれることになる。幾度も前線への舞踊慰問を行っていた江口隆哉と宮操子も、1946年には通常の公演活動を再開し、電通映画社の戦後初の映画制作にも参加している。
 けれども、これを再開と言ってしまうと、戦時下でのかれらの活動を忘却することになるだろう。戦時下でも舞踊は決して禁じられていたわけではなかった。通常の劇場での公演はたしかに激減したものの、慰問という形での上演はすこぶる多かったし、国策と結びついて大量動員された上演も多かった。かれらの舞踊を見た人たちもとてつもなく多かった。戦時下でのそうした旺盛な舞踊活動は、もちろん戦争協力のひとつの形であり、舞踊家たちの戦争責任が問われうる事態である。
 そこで、ダンスと戦争責任という大きなテーマについて考えるためのきっかけとして、日中戦争さなかの1940年(昭和15年)に舞踊家たちが何をしていたのかに注目してみたい。この年は、皇紀2600年という捏造されたナショナリズムで盛り上がった年であり、東京オリンピックが開催されるはずだった年でもあった。舞踊家たちは、国策的イベントで東亜に君臨する日本を寿ぐ作品を作り、中国の最前線で兵士たちを鼓舞するための慰問を続けていた。
 今、東京では、あと1年に迫ったオリンピックで盛り上がっている。80年前にも行われていれば、3度目になったはずのオリンピックだ。冒頭で引用した岸田國士の文章の「戦争」を「オリンピック」に変えてみれば、現在の日本の翼賛的な態勢にもそのままあてはまるだろう。みんなが一斉に同じ方向を向くようなイベントを仕掛けて、それですべてをチャラにして、腐りかけた体制を覆い隠そうとするのは、80年前とそれほど変わっていないのかもしれない。


『皇紀二千六百年奉祝芸能祭』(国際報道工芸、1942年)より 
「日本」三部作 石井漠



1 皇紀2600年奉祝芸能祭のモダンダンス


『皇紀二千六百年奉祝芸能祭』(国際報道工芸、1942年)より
「日本」三部作 高田せい子
 1940年に行われるはずだった東京オリンピックは返上された。日中戦争にのめり込んでいる日本にオリンピックを開催する余裕があるはずがないし、そんな日本を世界が相手にしてくれるわけがないから、当然のことだった。だからといって1940年は静かに暮れたかというとそんなことはない。別の国威発揚イベントやそれに便乗するイベントで沸き立っていた。そしてその頃、舞踊界は空前の盛り上がりをみせ、しかも国策の一角をしっかりと担っていたのだ。
 1940年の舞踊界で最大のイベントは、9月30日に行われた「皇紀二千六百年奉祝芸能祭制定 現代舞踊発表公演」だった。当時の舞踊界を代表する江口隆哉、高田せい子、石井漠の3者が集まって、『日本』というタイトルの3部作作品を作った。
 「皇紀」とは、明治政府が西洋的近代化を模倣するにあたって、キリスト教の神に対抗して、天皇の始まりの時、つまり神武天皇の即位の年を紀元として制定したもので、紀元前660年に相当すると言われる即位の年は縄文時代の終わり頃にあたるけど、そんな時代にまで天皇の系譜が遡れるかどうかはさておき、1940年は皇紀2600年ということになり、ついでにオリンピックも行って盛り上げようとしていた。中国での戦争は泥沼状態に陥っていて、占領地の現状維持だけで精一杯の頃だった。
 「奉祝芸能祭」を主宰したのは日本文化中央連盟という組織。皇紀2600年を迎えるにあたって文化団体間の連携を図るために、文部省の補助金も得て1937年に結成され官民合同の機関だという。「国内の日本文化国民啓発運動」を主眼として、東京オリンピックで「一九四〇年にどつと押し寄せる外客を迎へる心の準備」も視野に入れていたらしい(大阪毎日新聞、1937年1月6日より)。
 この組織の中心人物は松本学。1932年の警保局長時代(「警保局」は警察庁の前身)に共産党を徹底的に弾圧したことで知られるが、この頃には、思想対策的な文化事業に乗り出していて、日本固有の精神や文化の擁護と揺籃を主張する日本主義精神を流布しようとしていた。
 いかにもあやしい組織だ。唯物論研究会を創始し幾度か検挙されていた戸坂潤が、思想統制の次の段階の思想動員がどうやら始まったらしいと危惧している。「該連盟は、思想動員・文化動員・の、最も大きな機関となろうとしているらしい……文化上の挙国一致主義と云うべき支配者的意図に基いて、『日本原理』に樹つ思想文化を民衆の間に動員しようというわけだ」。「もし日本に日本特有の型のファシズムが発達し、日本型文化ファシズムが盛んになるとしたら、それは必ずやこういう軌道を辿ってであろう」と。(「日本評論」1937年9月号所収の「思想動員論」より。『戸坂潤 全集』第5巻、p.194)。
 その「思想動員」のための最大のイベントとして日本文化中央連盟が企画したのが1940年の「奉祝芸能祭」だった。音楽、舞踊、演劇、映画の各分野で作品を依頼したり募集したりして1年間かけてそうとうな数の上演を行った。そのなかの「洋舞踊」部門で作品を依頼されたのが、江口隆哉、高田せい子、石井漠の3人だった。このとき江口は40歳、高田は45歳、石井は54歳。
 その3人が作った『日本』3部作の第1部「創造」は江口が振付。『古事記』と『創世記』を合わせたような天地創造と人類創生の物語。第2部「東亜の歌」は高田が振付。混沌とした上海や広東が東亜の精神によって新生される様が描かれる。第3部「前進の脈動」は石井が振付。 戦時下の日本で「産業戦士」や「勤労奉仕」に邁進する姿が描かれる。台本の作者は舞踊批評家の光吉夏彌(今では「ちびくろ・さんぼ」を訳した児童文学研究者として知られている)。日本の創造神話で始まり、中国を刷新し銃後を守る東亜の要としての日本を称揚するこの作品は、まさに「日本主義」や「八紘一宇」を体現し、それにより大衆の思想動員を目指したものだったのだろう。


『皇紀二千六百年奉祝芸能祭』(国際報道工芸、1942年)より
「日本」三部作 江口隆哉と宮操子
 上演は9月30日東京宝塚劇場。数枚残っている舞台写真を見ると、抽象的なモダンへの指向を表す江口隆哉と宮操子、絢爛な衣装で舞う高田せい子、硬質な構成美を誇る石井漠、といった風情であり、当時のかれらの通常の作品とそれほど変わりがないように見える。どこに「思想動員」的な力があるのか、写真だけではわからないので、「日本文化中央連盟」の機関誌『文化日本』(1940年9月号 p.21~26)に掲載された江口、高田、石井の3者の「作者の言葉」を少し引用してみよう。
 江口隆哉 「芸能祭に意義ある仕事をさして戴くことは藝術家としてこの上もない悦びであり、日本文化中央聯盟に深く感謝する次第であつて、衆智を聚めていゝものを作りたいとは思つてゐるが、スペクタクル的な要素を多分に必要とするこの作品にセット、衣裳等初めの意図通りに出來ない現在では、それに許り頼るのではないにしても、今までの型を破つた演出をするといふことにかなりの痛手であつて、それだけ舞踊をはじめ各スタッフの責任が倍加されたわけでもあるが、カムフラアジュや預め言譯をして置くといふ意味ではなしに心配でならない。」
 石井漠 「内容は、別に劇や映画のやうな物語的な筋はないが、全體を通して、可成り力強いリズムによつて盛り上げられてゐる。農業、産業、工業、科學その他の一般国民生活を組合はせたものであるが、その中を極めて健康的な一本の太いリズムによつて方向つけられて行くといふ隆盛期にある現代日本の意志を象徴したものであることは云ふまでもない。」
 江口と石井は意外にもそっけない。日本を盛り上げる大事なイベントなのに、やる気がないのかと疑いたくなるような力のなさだ。それにたいして高田せい子は勇ましい。
 高田せい子 「勇猛果敢の吾が将士の方々に依って聖戦も益々我國の冐し難き威力を示しつゝある秋、其大日本國民として、今又、光輝ある紀元二千六百年に遭遇するの悦びを、私共藝術に精進するものも、緊縮のこころを緩めぬ裡に、奉祝したい気持は溢れて居ります。……而して新體制下の現状に鑑みまして、奢侈華厳を謹むことを旨として、眞の國民としての心構へと、又此希有の聖代を寿ぐ悦びとを以て、新東亜の黎明の曙光を如何に芳はしく、又我が日本の力強い精神を表現するかに、唯今、日夜を其研鑽に費して居ります。」
 江口、高田、石井の3者は、中国の戦線への舞踊慰問を毎年のように行っていたのだから、ふつうの銃後の国民よりも日中戦争の実態を知っていたはずだ。1940年にも江口隆哉と宮操子は2月から2ヵ月間、中支の漢口(現在の武漢市)に行き、高田せい子は9月に北支に慰問に行っている。石井漠も39年に北支に行き、現地で交通事故に遭い40年初頭に帰国している。この頃の前線を見ていたのなら、硬直状態にあることはわかっていただろう。かれらの舞踊公演や舞踊慰問が、日本精神の高揚のためや、先が見えない戦線維持のために消費されていく事態をどう受け止めていたのだろうか。

2 皇軍舞踊慰問 中国戦線でのモダンダンス


1940年、おそらく潜江の付近で
 日中戦争が始まるとまもなく陸軍や海軍の恤兵部(軍隊への寄付、慰問物資の送付、慰問団の派遣などを行う軍の部署)が、中国や満洲に展開する軍のもとへ慰問団を派遣した。吉本興業が朝日新聞社と共同で慰問団を派遣したり、淡谷のり子や森光子も慰問に行っている。舞台に関わる者たちはこぞって慰問に出向いた。舞踊家たちも例外ではない。江口隆哉と宮操子も、二十歳前後の教え子たちを引き連れて1939年から4年間、前線への慰問に毎年行っている。

 1939年10月24日~12月25日 広東周辺と海南島
 1940年 2 月 1 日~ 4 月 3 日 漢口周辺 (漢口は現在の武漢)
 1941年 2 月11日~ 4 月24日 再び漢口周辺
 1942年 6 月29日~12月末 シンガポールを拠点に、ビルマ、タイ、マレーシア、インドネシア

 これらの訪問地は、当時の日本軍の最前線に相当する。最前線で疲弊している兵士を慰撫し、士気を高めるために、恤兵部は江口・宮たちを送り込んだのだろう。
 かれらの行程を写した写真がかなりの枚数残っている。同行した軍のカメラマンが撮影し、江口と宮に軍から渡されたものだろう。100枚を越える写真に写っているのは、若いダンサーたちの屈託のない笑顔だ。戦時下の慰問の写真だと知らなければ、観光旅行のスナップ写真に見えるようなものも多い。もちろん、前線を巡る慰問は非常に過酷なものだったようだ。しかも、ものすごい過密スケジュールで移動している。たとえば、1940年の2月のある日の様子を宮操子の著作や江口隆哉の慰問手帖などでたどってみよう。
 上海から長江を船で遡り、南京を過ぎて到着した武漢を拠点にして前線慰問をしていた宮たちは、24日、軍が接収したおんぼろバスで数十キロ走って広水に着く。翌日、午前10時と正午からの2度慰問舞踊。集まった兵士はおよそ2000人。上演が終わると、京漢線(北京と漢口を結ぶ鉄道で、信陽までは日本軍の支配下にあった)で信陽へ向かう。列車内の様子を宮は次のように書いている。 「どの顔にも申し合せたやうに、連日の強行軍の疲れがはつきりと現はれてゐるのでした。私自身も、貨車の壁に身をもたせかけて足を延ばすと、もう目を開けて居るのも億劫なほどのけだるさを感じてゐました。」(『戦野に舞ふ』p.158)
 途中の駅には、近くを警備している守備隊の兵士たちが、彼女たちが来ていると聞いて集まっていた。その場でせがまれて歌を歌ったりしながら、午後8時に信陽に着く。次の日の慰問のために夜中の1時まで練習。翌26日には、午前10時と午後2時から慰問舞踊。兵士はあわせて2000名。
 鉄道がない前線へは、軍が用意したトラックや戦車で移動した。1回の上演は40分位で、集まった兵士は1000人から2000人ほど。もちろん、劇場などないので、兵士たちが即席で作った舞台が多かった。1940年の2ヵ月の慰問で、上演回数はおよそ60回、それを見た兵士はおよそ5万人。移動距離は、漢口(武漢)に着いてから漢口に戻ってくるまで、ほぼ1000km になった。
 その頃、中国戦線は既に硬直状態に陥っていて、占領地域をかろうじて守備しているだけで、兵士の士気もあがらなかった。だからこそ軍は慰問団を次々と送り込んで兵士の士気を維持しようとした。兵士たちはそれで癒されただろうし、舞踊家たちはダンスを見てもらうことができた。その意味ではそれぞれが満たされたともいえる。でももちろんそれは、多くの人びとを蹂躙するための行為につながるのだ。
 私たちは舞踊家たちの戦争責任を問わなければならない。


1939年「露営の歌」


3 舞踊家の戦争責任

 とはいえ、戦争責任そのものを問うことの指針が、いまだに共通認識として存在していない。それは、日本という国家が戦争責任を明確にしないまま放置してきたためだ。東京裁判で幾人かの戦犯は裁かれたが、天皇の責任は免責され、アジア諸国に対する植民地支配と侵略も明確には問われなかった。最近になって改めて問われている徴用工にしても慰安婦にしても、それがどういう事態であり何が問題であるのか、国としてその責任を直視することをうやむやにして今に至っている。
 もちろん、様々な分野での個々の戦争責任はそれぞれに問われている。たとえば、西田幾多郎を筆頭とする京都学派の戦争責任は幾度も厳しく追及されている。文学者の責任問題も、いくつもの従軍記を書いた火野葦平の自己批判などいくらでもある。映画に関しては、原節子が幾本もの国策映画に出演していたことが詳細に調べられているし、『日本映画』などの国策雑誌も復刊され、戦時下の行為の検証は容易である。
 その一方で、舞踊界の戦争責任問題については、資料の掘り起こしすら不十分であり、検証すら容易ではなく、他の分野に比べて非常に遅れていると言わざるを得ない。私たちがどう舞踊家の責任に向き合えばいいのかもわからないままだ。
 戦時下の舞踊家たちは、当時の意志決定者の意向に添って「思想動員」の一躍をになっていたのだから、一般の庶民よりははるかにその戦争責任が大きいのは確かだろう。前線で舞踊家のダンスに励まされなければ、日本軍の犠牲者も日本軍による犠牲者ももっと少なかったかもしれない。東亜の共栄という思想がダンスで美しく粉飾されなければ、その欺瞞に人びとはもっと早く気づいたかもしれない。
 とはいえ、当時としては、慰問や国策的なイベントに協力することはなんら問題視されるものではなかったのだから、今の私たちが事後的に批判することはできないだろう(かれらの想像力のいささかの欠如を残念に思うことはできるだろうが)。それにまた、私たち自身にしても、かれらを裁くほどの正義を体現しているわけではない。50年振りのオリンピックに浮かれ、軍事ヘゲモニーへの参加や加担をなしくずし的に容認している今の日本に住んでいるのだから。2600年も男系で万世一系を貫いているといわれる天皇家とそれを称揚する一派は、戦争など何もなかったかのように今でも改元を行っている。
 それでも、戦時下の舞踊家たちの戦争責任を問う責任が私たちにあるとするべきなのは、それが私たち自身にも関わる問題だからだ。私たちに舞踊家たちを裁く権利はないが、かれらを批判する責務はある。しかたなかった、という留保で許され得るようなことを二度と繰り返したくないからでもある。私たちもかれらと同じことをしていただろうということを自覚しつつ、戦争責任を問わなければならない。
 戦時下の舞踊家たちと私たちが時間的にも空間的にも連続しているこの日本という地平にいるのだから、かれらのおこなったことは、さまざまな形で私たちの一部を形成しているはずだ。舞踊という狭い世界においてみるだけでも、戦前と戦中と今とは、切れ目なくつながっている。だからこそ、私たち自身の責任で、舞踊家たちの戦争責任問題に対峙しなくては、いつまでたっても私たちはかられらを私たちの一部として受け入れることはできないし、してはいけないと思う。かれらの責任問題を問うことは、私たち自身の責任問題を問うことでもあり、それをへてようやく私たちはかれらを私たちの一部として受け入れることができるのだ。
 宮操子たちは前線で多くの兵士たちの前で踊った。兵士たちは楽しんだり癒されたり感動したり感激したり元気になったりした。それは素晴らしいことだったと思う。でも、それを素晴らしいこととして讃えることができるためには、私たちは、宮たちの戦争責任を明確にしなければならない。宮たちに戦争責任があると言い続けなければならない。その責任を認めたうえで、彼女たちが前線の掘っ立て小屋のような舞台で、疲弊した兵士たちを元気づけるために、自らも疲弊しながら踊っていたことを、ようやく受け止められるだろう。ようやく、宮操子たちの素晴らしい笑顔を受け止められるだろう。


1941年4月頃


参考文献
宮操子『戦野に舞ふ:前線舞踊慰問行』(鱒書房、1942年)
宮操子『陸軍省派遣極秘従軍舞踊団』(創営出版、1995年)
『皇紀二千六百年奉祝芸能祭』(国際報道工芸、1942年)
桑原和美「宮操子の半生と戦地慰問」(『就美論叢』2011年41号所収)
木野彩子 レクチャーパフォーマンス『ダンスハ體育ナリ?』(ドイツ文化センター、2018年)
坂口勝彦・西田留美可『江口隆哉・宮操子 前線舞踊慰問の軌跡:戦場のモダンダンス』(かんた、2017年)




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