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前衛という運動 ~界面に穴を穿つ~

坂口勝彦 ダンス批評家




 前衛という単語はもともと軍隊用語で、戦闘の最前線で突破口を開く部隊の意味。前衛芸術家は戦う芸術家でもあるだろう。だからアルトーは、あらかじめ既に盗まれている言葉という絶対的な他者の先回りをしようと戦い続けていた。クレーは、具象でも抽象でもない主体と客体の様々な交感ルートを作り出そうと戦っていた。ロシア・アヴァンギャルドがロシア革命の理想と夢を共にしたように、日本の前衛も政治的に自由な世界を彼方に夢みていた。

 花田清輝は、「はたして芸術家のアヴァンギャルドは,政治家のアヴァンギャルドの眼を獲得するであろうか」と問い、期待を込めて答える、「むろん、芸術家のアヴァンギャルドは、即座に、政治家のアヴァンギャルドに変貌するであろう。──もしもかれらが、いままで、内部の世界にそそいできたような視線を、外部の世界にむかってそそぎはじめるならば」(「林檎に関する一考察」)。前衛の運動は、花田が期待するように、外部への積極的な眼差しを求めて、閉塞している状況を突破するだけの論理構造を持つべき運動なのだろう。だからこそ、「外部の世界の非合理的現実」に積極的に関わり、「人民の中にありながら、自分を人民の中に解消せず、人民の先頭に立って進むような人物」をこそ、花田はアヴァンギャルド=前衛と呼んだ。

 日本のコンテンポラリー・ダンスも前衛運動だったかもしれない。ダンスの外部への眼差しを通して、風通しの良い心地よい風を感じることができたのだから。リオタールは、「一つの作品は、それがまずポストモダンでないかぎり、モダンになることはできない」と、うまいことを言っていた。たとえばピカソが、最初は前衛だったが、モダンとなり、今では古典にさえなっているように。コンテンポラリー・ダンスも前衛の役割をひとまずは終えて定常状態に至ったということだろうか。純化された専制的な領域から非合理な外部世界へと踊り出して行くエネルギーを保つのは難しいのかもしれない。

 今、川口隆夫に驚かされることが多い。日々の生活からひそやかな恋まで私的な出来事をフラットに記述するパフォーマンスを続けながら、最近では、まったくの他者である大野一雄の完全コピーを踊っている。内密で私的なものと外的な他者が、クラインの壺のようにくるりと裏返って地続きになって、私たちの外部の世界の色を変えてしまう。だからこそ彼は前衛の名に値するだろう。

 「私が興味があるのは、ひとがどう動くかではなくて、何がひとを動かしているのかです」──これは、かつて前衛であったはずのピナ・バウシュのよく引用される言葉だけれど、ひとを動かすものとは、純粋に内にあるものではなくて、外へと積極的に関わることから生まれる内なる運動なのだろう。だからこそピナは、社会や政治における私を規定しているものへとダンサーの意識を向けようとしたのだろう。

 前衛運動が戦うべき相手は、内と外の境界を閉ざそうとする構造なのかもしれない。何であれ内と外とを閉ざそうとする勢力に抗して、界面に穴を穿つこと。それはきっと、メディアと権力と知が結託したときの閉塞構造を告発し続けたフーコーの意志にも通じる。内と外との風通しをよくするのだ。