ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』
――ユートピア喪失の時代に――
市川明 大阪大学名誉教授 ドイツ文学・演劇研究者
ブレヒト、ハイナー・ミュラーなどドイツ現代演劇を中心に研究。「ブレヒトと音楽」シリーズで、『ブレヒト 詩とソング』『ブレヒト 音楽と舞台』『ブレヒト テクストと音楽――上演台本集』(いずれも花伝社)を刊行。近訳に『デュレンマット戯曲集』第2巻、第3巻(共訳、鳥影社)など。多くのドイツ演劇を翻訳し、関西で上演し続けている。ドイツ語圏演劇の個人訳、全20巻(松本工房)は現在第4巻まで刊行されている。 |
©ディミター・ゴッチェフ
1.ディミター・ゴッチェフ演出の『ハムレットマシーン』(2007)
ベルリンのドイツ劇場の演出家ディミター・ゴッチェフの助手から電話があったのは2007年の夏だった。「ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』の上演を助けてくれないか。出演もしてほしい」と。夏は毎年一ヶ月ベルリンに帰省しているが、九月中旬には日本に帰る。その旨告げると「声の出演」だと言う。さっそく劇場に行くと「あなたの翻訳があると思うがそれを使ってハムレットの声を日本語で録音してほしい」と頼まれた。音声テストでOKが出、収録日時が知らされた。久しぶりのドイツでの稽古場通いが始まった。
ゴッチェフと言えば知らない人がないほどの名匠だ(2013年没)。2006/2007年のシーズンにはハイナー・ミュラーの翻訳によるアイスキュロスの『ペルシア人』(『ペルシアの人々』)を演出。高い評価を受け、演劇雑誌『今日の演劇』の劇評家が選ぶベスト上演に輝いた。ブルガリア生まれのこの演出家はミュラーとの関係も深く、1983年に『フィロクテート』(ソポクレスの『ピロクテテス』の改作)をブルガリアで初演している。私が学会誌で『フィロクテート』を紹介したのが1977年なので、同じころにミュラーに興味を抱いていたことがわかる。2005年にはベルリンのフォルクスビューネでこの作品を演出し、自ら主役を演じた。『ハムレットマシーン』でも演出と主演を兼ねている。
稽古場で会ったゴッチェフは長身、長髪で、低く美しい声が印象的だった。彼の演出プランはこうだ。現代から迷い込んだ若者(アレクサンダー・クーオン)がハムレットに自分を重ね合わせる。バトンタッチするような形で主役のハムレット(ゴッチェフ)が登場。この舞台上のハムレット1,2に加え、ハムレットのせりふの一部を日本語(市川)、ブルガリア語(ゴッチェフ)、英語の声で流すというのだ。そう言えばミュラーも演出準備を始めた1988年に、五人のハムレットを舞台に登場させることを考えていた。三人のマクベスを登場させ、議論を呼んだフォルクスビューネの上演(1982)にあやかったのかもしれない。いずれにせよポリフォニー(多声音楽)の演劇を作るという意図はわかったので、少し張り上げた声と、ささやくようなかすれ声の二種類を違ったスピードで録音した。
2007年9月8日、初日の幕が開いた。稽古場では若手のふたり、クーオンとヴァレリー・チェプラノーヴァ(オフィーリア役)は完璧だったが、ゴッチェフは演出に時間を取られ、せりふのほうは危なっかしかった。だがさすが、彼は本番に合わせてきて、「私はハムレットだった」で始まる長大なせりふをよどむことなく言い切った。その間に収録された私たちの声がミックスされ、流れていく。「私は善良なハムレット。私に悲しみをもたらしてくれ。本当の悲しみをくれるなら、全地球をやってもいい…」。ハムレット役の俳優が語る場面では、ゴッチェフは新聞を広げながら絞るような声で、歴史=出来事を語っていく。最後はオフィーリアの無言の叫びで終わる。ムンクの絵『叫び』を思わせる。
満員の観客の大きな拍手を聞いていると、ハイナー・ミュラーのことが思い出された。彼の最後の演出となった『抑えれば止まるアルトゥロ・ウイ』(1995)の演出チームに入っていたときのこと、そして何よりもあの『ハムレット/マシーン』上演(1990)のことが。
©ヴァレリー・チェプラノーヴァ
2.ハイナー・ミュラー演出の『ハムレット/マシーン』(1990)
ハイナー・ミュラーの上演史は「受難の上演史」だった。だが1988年、89年には「歴史を待つ孤独なテクスト」であるミュラー作品が、東ドイツで堰を切ったように上演され出した。第一弾は88年1月、ミュラー自らが演出した『賃下げ野郎』(『賃金を抑える者』)だった。その後『ゲルマーニア ベルリンの死』、『カルテット』、『グントリングの一生、プロイセンのフリードリヒ大王、レッシングの眠り夢叫び』、『ヴォロコラムスク街道』と続いた。長い間出版さえ許可されなかった幻の二作品、『ハムレットマシーン』(1977)と『マウザー』(1970)も、90年にともにベルリンのドイツ劇場で東ドイツ初演された。
だがそのときにはミュラーが社会主義内部で戦い続けた敵も、権力も、国家さえ消滅しようとしていた。『ハムレットマシーン』上演は東ドイツへのレクイエムでもあった。ハムレットを演じたウルリヒ・ミューエの氷のように冷たいせりふや憂愁に満ちたまなざしが忘れられない。ミュラーは語った:「一度の人生で三度も国家の没落を見ることができたのは、作家冥利に尽きます。ワイマール共和国、ヒトラーの第三帝国、そしてドイツ民主共和国(東ドイツ)。ドイツ連邦共和国の没落はおそらくはもう体験できないでしょうが」。
東ドイツの消滅を決定づけた90年3月18日の自由選挙のころ、ミュラーは24日に初日を迎える『ハムレット/マシーン』の稽古に忙しかった。シェイクスピアの『ハムレット』とミュラーの『ハムレットマシーン』を組み合わせたもので、ミュラー自身が演出する。ミュラーは稽古場で次のように語った。「今、東ドイツでいちばんアクチュアルな作品は『ハムレット』だ。このドラマは国家の危機、二つの時代とその時代間の裂け目を扱っている。古いものがもはや機能しえず、新しいものもおいしくない、そんな時代の裂け目を」。
ハムレットのイギリス行きの場面と狂乱したオフィーリアが登場する場面の間には、ト書きによれば数週間が経過したとある。ここにミュラーの『ハムレットマシーン』が劇中劇のようにはめこまれる。八時間という長時間上演もあっておおいに話題を呼んだ。装置を搬入して組む現場を見せてもらったが、古代の回廊にいるかのような大がかりな装置を見てこれは「社会主義最後のぜいたく」だなと思った。初日が来た。ドイツ劇場は有名な劇評家や演劇人でいっぱいだ。フォルカー・ブラウンら作家の顔も見える。幕が開いた。観客席の袖に吊るされたモニターテレビが、上からのカメラで舞台上の動きを映し出していく。休憩は三度あり、二度目の休憩(一時間)で晩ご飯が食べられるようになっている。まさしく一大イヴェントなのだ。
シェイクスピア研究者アレグザンダーは、ラファエロの絵「騎士の夢」を使って、ハムレットの人生を表そうとする。まどろむ青年の左右から二人の乙女が差し出す剣と書物、そして花。この三つはハムレットがこれから送る人生の象徴であり、ハムレットもこの青年と同じようにどれを選ぶか迷うというわけだ。『ハムレットマシーン』でも「ハムレット」は三つのディメンションを旅する。
第一景「家族のアルバム」はいわば「剣の章」である。「私はハムレットだった」という過去形のモノローグでこの景は始まる。「ヨーロッパの廃墟を背にし」、浜辺で孤独なおしゃべりを続けるハムレット。「国葬の鐘が鳴り、高貴な遺骸を納めた柩の後を、顧問官たちが直立歩調で行進する。」ハムレットは血で血を洗う権力闘争に嫌悪感を覚え、父の世界から身を遠ざける。
第二景「女のヨーロッパ」は「花の章」であるはずだが、そこには気が狂って、花を王や王妃に捧げるオフィーリアの姿はどこにもない。男の特権社会である「男のヨーロッパ」から「女のヨーロッパ」へ視点は移行する。オフィーリアは女性を「囚人にする」ものをいっさい破壊し、何世紀も続いた抑圧の歴史から決別しようとしている。
第三景「スケルツォ」は「書物の章」にあたる。ハムレットは王子であると同時に、ルターの宗教改革の地ヴィッテンベルクの学生である。ハムレットが戻った大学は際限ない「ささやきとざわめき」の「死者たちの大学」にすぎない。哲学・イデオロギーの無力をハムレットは知る。
『ハムレット』の構造を巧みに取り入れた三つの景のあとに、1956年のハンガリー動乱をはじめ、さまざまな歴史的事件を描いた第四景が来る。ハムレットを演じていた俳優が「私のドラマはもう起こらない」といって、役をおりてしまう。舞台装置を組み立てる裏方を尻目に「現実」という平面でのいっぷう変わった「劇中劇」が演じられる。特権階級に対する嫌悪や、行動する人間になりえないインテリ批判がここでは描かれている。舞台(世界、歴史)を動かすことができなくなった俳優は「私は機械になりたい」という。歴史の進行に手を貸す機械=ロボットになったインテリ(ハムレット)。斧で頭を割られるマルクス、レーニン、毛沢東。ミュラーが『建設』で階級社会の比喩として用いた「氷河時代」への逆戻り。
最終景では、オフィーリアは憎悪に狂うエレクトラと一本化し、深海で「自分が生み出した世界(歴史)を自分の胎内に回収する」。ユートピアの喪失、社会主義神話の崩壊の時代に、オフィーリアは深海の沈黙の中で、歴史をじっと待ち続けるのである。
ユートピア思想の系譜には「母」志向的なユートピア論と「父」志向的な千年王国論がある。幸福の島ユートピアは、母の胎内へ回帰しようとする人間の深い願望と結びついている。それは安全で静穏な生活を営もうとする平和への祈りでもある。母にして処女なる都ユートピアを汚そうとする「父」は退けられる。戦いで相手を倒すことによってしか「約束の地」を獲得できない千年王国論は、ヒトラーに代表される世界征服と権力欲の象徴である。ミュラーが『ハムレットマシーン』で描こうとしたのはこの「母なるユートピア」であり、そこには反ファシズム、反植民地主義、反男性(父権制)社会、反物質文明といったミュラー作品の全体を貫くテーマが凝縮されていると言えよう。
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