「あなたにとってダンスとは?」という質問をされる度に、なんて答えれば都合が良いのかと考えあぐね、いつもとんちんかんな返答をしてしまう。理由は、単に質問の汲み取り方自体、様々な解釈ができること。そして、ダンスに愛され、センスの塊のような人間が「仕事」と答えたり、ダンスで生計を立てている人間が「趣味」と答えたらきっと格好が付くが、ダンスに長々と片思いをしながら、貢ぎ続けている現在の自分には格好の付けようがないからだ。「食事や睡眠をとるのと一緒」というようなアーティスティックなことも言ってみたいが、そんなことを簡単に口にする「習い事ダンサー」「自己満ダンサー」を私は死ぬほど知っている為、控えるようにしている。ただ、生きるためにダンスを続けているのではなく、ダンスを続けるために生きているという方がどちらかというとしっくりくる。少しばかり、「生粋のダンス馬鹿感」を演出しているように思えるかもしれないが、このように感じている者は少なくないと思う。特に、幼少時からダンスを習い、他に趣味を見つけられず、多くの時間をダンスに費やした上で今もなおダンスを続けている者には。まあ、このような私個人の中でのダンスの位置付けについて長々と述べていてもあまり生産的ではないような気がするので、少し違った解釈の答え方もしてみる。
―私の作品創作においてのダンスの位置付けは―
例えば、ダンス作品をつくる者の種類を大きく3つに分けてみる。①コンセプトやそれに近しい何かが先にあり、ダンスが引用されるもの。②先にダンスがあり、コンセプトやテーマが自ずと決まるもの。③その他、または同時。ざっくりこの3つだと仮定してみる。勿論、作品によってその都度創作のスタートが変わることは大いにある。だが、そのことを前提にしてみても、私は現在①番であることが多いと感じる。②番はどちらかというと、純文学の考えに近いような気がする。そして、これもあくまで予想だが、③番と答える作者が多いのではないだろうか。何故なら、そのコンセプトである理由や、ダンスを踊る必然性が生まれやすい、もしくはそうであったと表明するには一番適しているからであろう。
そんな中で、私はあえて①番を選択する。何故なら、私は、(もしかしたらダンサーと言い換えられるかもしれないが、)理由なく踊れてしまうからである。祈ることがなくても、喜怒哀楽を感じていなくても、身体の必然性や動く動機を強く捉えていなくても、誰に求められていなくとも、踊ることを選ぶことができる。そうであることを認めると、途端に私の作品にダンスが出現する必然性は客観的な視座を失い、薄まり、もはや私個人の中でのダンスの位置付け自体が錯覚なのでないかとも思えてくる。習い事が音楽関連だったら、私は音楽家を目指していたのかしら、という疑問が浮かんだり。だからこそ、私は常に別の表現方法を求め続け、毎度ダンスが作品にとって必要なのか、最適なのかを疑う必要があるのだ。ダンス以外を知らないからダンスを選ぶのではなく、たくさんの方法論の中から、最適な時のみ、ダンスを選択したいのだ。
何かを始める時に、いつでもダンスを選択でき、捨てることができる関係でいたい。これが現状、私の作品創作においてのダンスの位置付けである。
ちなみに、私の創作においてどんな時にダンスが引用されるかについては、これまた長くなりそうなので、今回言及することはやめておこう。ただ、そこについて言及し、もっともらしいことを述べられたとしても、実際のところは、片思いを拗らせ、大義名分を後付けすることでダンスすることを誰かに認めてもらいたい、許容し、受け入れて、できれば楽しんでもらえたら、なんて思いから考えついた言い訳に過ぎないかもしれませんが...
中川絢音
3歳からクラシックバレエ、4歳から日本舞踊を踊り、トウ・シューズと足袋の狭間で思春期を過ごす。桜美林大学にて木佐貫邦子と出会い、裸足で踊り始める。大学在学中に「水中めがね∞」を立ち上げ、振付・演出等の作品創作を開始する。人間社会においてのダンスの在り方、在り処を模索し開拓することを目標に活動している。 団体HP
次回公演
水中めがね∞『絶滅危惧種(仮)』
2018年10月11日(木)〜13日(土)@シアター1010 稽古場1
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