©山口真由子
筆者が初めて「ハムレットマシーン」の舞台を見たのは、1992年、ブレヒトの芝居小屋で、J・サイラーさん演出の「東京演劇アンサンブル」による公演だった。なんの予備知識もなく、ただ行ったという観客にとって、1階2階が吹き抜けのような工場倉庫のような建物の中で、壁に沿った金属階段の途中や、天井近くの回廊から聞こえてくる、俳優の「ハムレット」をもじったようなセリフの断片。その繰り返し。記憶は定かではないが、訳が分からないという感じだった。「ハムレット」からの言葉は使っているが、意味不明で、その展開を辿りようがない苛立ちを感じていた気がする。筆者は何も回顧談をしたい訳ではない。その時から四半世紀余りがたった2018年、OM-2の「ハムレットマシーン」を見た時の自分の中の感覚が随分違っていることに驚いたからだ。OM-2の演劇空間も、四半世紀前の空間体験と同じように、俳優たちの言葉と動作で、何やら意味ありげなシーンが積み重ねられている。しかし、そこには身体と動きと発話があるだけで、その連関から意味を読み取ることは、やはり難しい。しかし、その脈絡のとらえどころのなさに苛立ちを覚えることはなかった。そんなものかとただシーンの美しさだけを見ていた気がする。もちろんハイナー・ミュラーの台本の膨らませ方は、J・サイラーさんの演出とOM-2の真壁茂夫さんのそれとは違うのだが、それ以上に「ハムレットマシーン」の作り出す世界の受け取り方、感じ方が自分の中で違っているような気がしたのだ。そこには四半世紀の時間の経過が促した、観客の感受性=認識の枠組の変容が在ったのではないかと思った。
「ハムレットマシーン」のマシーンは、ドゥルーズ、ガタリの用語の「機械」を思い出させる。「ハムレットマシーン」の観劇体験は、二人の著作「アンチ・オイディプス」の読書体験に似ている。その文章を論理で追って行こうとすると、全く了解不能な状態に落ち込んでいく。文意を理解しようとするのではなく、引っ掛かる文章の断片から、勝手に思考を連想的に広げていくと、むしろ様々な自分の思考が引き出され、楽しい。「ハムレットマシーン」のセリフの響きは、「アンチ・オイディプス」の文章同様、思考の流れを媒介しながら拡散させていく気がする。
©丸山雄二
OM-2の舞台は、円形スペースを客席が囲むように作られているのだが、中央に巨大なスクリーンが降りていて一方の客席からは反対側が見えないようになっている。一方にハムレット、他方にオフェーリアがいて、相手の様子がスクリーンに映っていたりするのだが、スクリーンを挟んだ向こうとこちらの会話はほとんど噛み合っていない。スクリーンには次々文字が映し出され、またハムレット役の俳優は、床にチョークで文言を書き続けている。円形の舞台を自転車に乗った青年がぐるぐる回り、また、人が舞台を後ろ向きに横切って行ったりする。何やら意味ありげなシーンにも見えるのだが、それ以上考える必要性も感じないのだ。舞台をただ眺めている感じで、脈絡のなさが気にならないのだ。
これはどういうことだろうか。「ハムレットマシーン」を見ることが出来る、感受性=思考の状態になってきたということかもしれない。1970年代、モダン(近代)は問い直され、思想の課題はポストモダンだった。日本でもドゥルーズやガタリが読まれた。ハイナー・ミュラーの「ハムレットマシーン」も、そんな文脈の中で書かれたのではないか。日本社会の土台は、消費主導の高度消費社会になっていた。そこでは商品の価値は機能性よりも、そのイメージが消費を促す力として重要になってきた。すなわち、商品の記号性だ。内省的に意味の深さを考えようとするのが近代だとすれば、ポストモダン(ポスト近代)は意味が深さを失い、つまり商品は機能の有用性であるよりは、表層的なイメージによって評価される。表層的なイメージの比較、連関によって受け止められる。イメージの直観的比較によって、商品は選択される。理詰めで選ばれるのではない。
そういう日常生活の中で、私たちの感受性は作り変えられて行く。私たちの思考は論理的で、しかも合理性こそが社会諸関係の基軸になったのが近代だ。だから私たちはつじつまが合わないと不安定な気分になる。そこが高度消費社会の価値様式の中で変わってきたのではないか。演劇シーンの脈絡のないと思える展開に、論理ではなく、絵画的に、そんなものだと受け入れられるようになってきた気がする。ポストモダンは、1970年代の高度消費社会の進行と並行して、思考の中では語られてきた。70年代後半から80年代、ポストモダンを巡るフランス現代思想の書物が次々翻訳され、読まれていった。しかし、それはあくまで思考=言葉の世界での話だったと思う。人々の感性が変わり、行動=生活実践が変質するまでには届かない。そんな風に思ってきたので、今回のOM-2の言葉の芝居としては脈絡の不鮮明な表現を、さほど違和感なく受け入れている自分の感受性の中に、社会の空気・精神の推移を見た気がしたのだった。
OM-2の舞台について補足しておけば、前半は、言葉はあってもスタティックで記号的な世界だった。ところが中ほどで俳優の佐々木敦さんが登場すると空気は一変した。彼の大きな体と叫び、バットを振り回し周りの器物を壊していく暴力的行為は、肉体そのものの蓄積されたいら立ちの噴出のようであり、60年代末のアングラ演劇の再来かと思ったほどだ。そうだとすると益々訳が分からなくなったのだが、そうではなかった。天井から無数の顔写真のコピーが降り注ぎ始めたのだ。止まることはなく、床も物もコピーされた顔写真で埋まった。雪のように降り続ける写真は美しく、そのことで噴出した肉体の生々しさは観客の中で中和され、消されていった。やはりそこに在るのは静謐な世界だったのだ。
©玉内公二
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