近年、障がいを持った方々と舞台を作ることが多く、作品創作に於ける主題やアプローチが、彼らとの共同制作から大変影響を受けています。
それら事柄を書き残しているノートから2,3紹介させていただきます。よく言われているような言説かもしれませんが、障がい者の方々が舞台上で動き、発話をし、静寂な舞台の上で客席と向かい合うといった事が前提での提起であることを念頭に入れてもらえればと思います。
舞台空間(観客席も含めた)に立ち現れる世界は、我々が生きる世界を鏡のように映し出す。むしろ舞台空間とは世界そのものと言っていい。
それはメディア論的な思考でもありえるが、私が標榜するその立ち現れる世界とは、社会性というヴェールの隙間から垣間みる生のむき出しであり、ヴェールそのものを自らが剥ぎ取ろうとする身体行為の連続性と、舞台上に存在する生そのものを肯定し、集団としての社会性および公共性の中に潜む様々な欺瞞をも露呈させる空間をいう。
演者は現前化されたその生々しい身体によって、観客に衝撃を与えようとする。(もはや言葉は叫びとなり)しかし、その衝撃をどこまで観客の精神に波及させるか、また、その身体がどこまでも根源的で、過去・現在・そしてやがて訪れる死をも想起させる存在として舞台上に在るのかを常に考えてしまう。それらは見えるものと見ないものの拮抗した関係が現れるような、非常に緊迫した空間であろう。
舞台空間の中の沈黙。その沈黙を守り抜くことと沈黙を破壊するということ。この相反関係は実は同義的である。沈黙の中にこそ、途方もない叫びがあり、イメージのるつぼと化す空間が立ち上がってくる。そして行きかう言葉や動きが溢れているような空間には、沈黙がひっそりと立っている。その沈黙にこそ私が観客と共有したい何かがあるように思える。
舞台上に現れるイメージをどこまで広げていけるのか、劇場の外を、日常に潜む隠されたイメージと存在を常に舞台空間と交差させて、その狭間で起こる出来事に観客は困惑してしまうかもしれないだろう。そして観客が日常に戻り、あるとき、ふとした瞬間に舞台上のイメージが脳裏をかすめることがあれば、私にとっては大きな喜びである。もちろん、その瞬間に立ち会うこともなければ、それを口にすらしないまま、その観客は忘却へとイメージを放り投げるであろうが。しかし、その潜在的な疵のようなものを、言語化しにくいようなイメージを投げかけ続けていくために、これからも舞台芸術作品として発信していきたい。これらは私なりの世界=舞台空間との緊張関係である。
宗方勝
「bug-depayse」主宰。美術・映像・アートディレクターの傍ら、2001年舞台芸術グループ
「bug-depayse」を立ち上げる。演劇・ダンス・アート・メディアをミクスチャーし、物語形式ではないテーマに沿った総合芸術としての舞台作品を発表している。 団体HP
次回公演
bug-depyase タイトル未定
現代劇作家シリーズ9「『日本国憲法』を上演する」参加
2019年5月8日(水)&9日(木)@d-倉庫
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