わたしはよく「あらかじめ作家が書いたものを、演者が覚えて、それを人前で声にする」という言い方で人に、演劇のことを説明します。それは何か演劇の原理を指し示そうとして迫ったそのあちこちの報告ではなく、あくまで自分が制作にあって注意して取り組んでいることをより明確に伝えようと、まずは制作にあって自分が使っている素材を列挙しているのです。
この言い方においておよそ意外にも重要なのは、「人前」という素材です。この「人前」をもう少し詳しく説明すると、これは上演のその日その時間に形成された集まりの中で、ある支度を経過した演者が声を出すという取り組みを実施するという事態にあって、演者が対面する環境のことです。加えてその環境を作り出しているのは「観客」と言うよりか、「不特定多数の人たち」だと稽古場でわたしはよく説明します。もちろんそうやって一方だけのことを正確に言い表すのには困難がついて回るために、「人前」というあいだを指し示す言葉をまず使っている、ということはあります。人前の最中で演者が取り組むのは、先に出てきた「支度」のディテールを、不特定多数の人たち(あるいは「まだ会っていない人たち」)へ伝播させていくということです。支度のディテールというのは、とどのつまり「読み」のことです。オリジナルのテキストを用いた上演にあっては、お客さんには読みを事前にこなしてくることはできません。一方でわたしたち演出家および演者は読みという支度を十分にしてその上演の場に臨むことができる。この実情の違いに触れることで、翻って「人前」という言葉がやっと完成に近づくということも言えると思います。それは、仮に言う方も聞く方もそのテキストを巡って同じように支度をしてきたときに、「人前」という言葉が少しだけしっくりこなくなるという感覚をてこにしています。別の言い方をすれば、この実情の違いをある種埋めるようにして、「支度のディテールを伝播させる」という取り組みが可能になるのだと思います。そしてここまでに出てきた言葉を撚り集めるので繰り返しになりますが、この「支度のディテールを人前で伝播させる」というレトリックこそが、わたしの実践においてとても重要なのです。
詩人で詩歌研究者の藤井貞和さんが「声」について書いていることを一つ挙げてみます。「音読は黙読からの復帰である。(中略)音読には、あらたまった、面倒な、また、はたに迷惑をかけられない、何だか恥ずかしい、などいろいろな心的条件がつきまとう。そんないろんな理由から言語の経済として黙読しているだけのことだ。文字の効用である。文字がつくりだした黙読に声を預けているのにすぎない」[1](下線は引用者)。黙読は音読からの退化である、とも藤井さんは言っています。これは重要な指摘ですが、ここで藤井さんが指している音読もまた、「声」に比して形骸化したものだと言えるでしょう。下線を引いた箇所に音読をめぐる困難がいくつか示されていますが、実際「声」をめぐる困難にはこれ以上のものが挙げられます。それが例えば「支度のディテールを人前で伝播させる」ということになります。藤井さんが「文字がつくりだした黙読に声を預けているのにすぎない」という言い方で危惧しているのは、声が二度もの疎外の目に遭いはしないか、というところでしょう。一度は声がテキストを産み落とす過程において、二度目はテキストがまた声として練られる際にたどる形骸化の向きにおいて。わたしの実践はこの声が瀕する危機に対して、こまごまと工夫を重ねていくようなものだと考えています。テキストにまつわる支度が成すのはどの程度のことなのか、その時にはすでに想定されている特殊な環境をも適宜手入れして、「声」がどの程度実現し得るのか、その推し量りというわけです。
[1] 藤井貞和『口誦さむべき一篇の詩とは何か』(思潮社、1988)p.144
村社祐太朗
新聞家主宰。演劇作家。1991年東京生まれ。2014年に作・演出した小作品が「3331千代田芸術祭2014」パフォーマンス部門で中村茜賞を受賞。テキストを他者として扱うことで演者に課せられる〈対話〉を、パフォーマティブな思索として現前させる独特の作品様態が注目を集めている。演劇批評家の内野儀はそれを「本来的な意味での演劇」と評した。「利賀演劇人コンクール2018」奨励賞。 団体HP
次回公演
新聞家『フードコート』
2019年9月上演予定@会場未定
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