日本でも「コンテンポラリー・ダンス」の時代が始まって以降(おおよそ1990年前後から)、特に若い世代を中心に、「モダン・ダンス=現代舞踊」という捉え方が一般的になったと感じられる時期があった。その後、あらためて(一社)現代舞踊協会を中心とする「現代舞踊」の側から、コンテンポラリー・ダンス、舞踏、バレエなどをその範疇(はんちゅう)に入れて再考しようとする動きも、活発化したように思う。そのような「現代舞踊」への周囲からの視線や理解の仕方を含め、その内実を考察するためにも、国内外の舞踊の歴史を踏まえつつ、今回の催しを見てゆきたい。
そもそも「現代舞踊」を英訳すれば、「コンテンポラリー・ダンス」だ、というのが私の考え方である。逆に「コンテンポラリー・ダンス」を邦訳すれば、「同時代の、現代の、今日的なダンス」であろう。さらに「コンテンポラリー」という語の対極は「クラシック」で、洋舞では「クラシック・バレエ」がそれにあたる。たとえば『日本の現代舞踊のパイオニアー創造の自由がもたらした革新性を照射するー』(監修:片岡康子/新国立劇場情報センター)※1でも、第1章は、明治末年に帝国劇場で「クラシック・バレエ」を教えるために来日したイタリア人教師ローシーに学んで活躍した後、反旗を翻して独自の舞踊を始めた石井漠(1886~1962)にあてられている。そして、それが日本の「モダンダンス」のはじまりとなった。
ところで国際的な舞踊の歴史をたどれば、前世紀初頭から(舞踊の)モダニズムあるいは「モダン・ダンス」「モダン・バレエ」につながる動きは、始まっていた。主だった所では、アメリカから渡欧したイサドラ・ダンカンや、パリを本拠地とした「バレエ・リュス」が、各々「モダン・ダンス」と「モダン・バレエ」につながる前衛的なさきがけとなった。さらに「モダン・ダンス」では、「ドイツ表現主義舞踊(ノイエ・タンツ=ドイツ語:新しいダンス)」が勃興したが、ナチスとの関係を免れ得なかったために戦後は下火となり、代わって戦前のアメリカで始まったマーサ・グレアムに代表される「モダン・ダンス」が花を咲かせた。
日本の「現代舞踊」のパイオニア達は、戦前に「ドイツ表現主義舞踊(ノイエ・タンツ)」を学びに渡欧した者が少なくなく、戦前に渡欧してツアーをした上述の石井漠も、その独自の舞踊を「ノイエ・タンツ」と称していた。そして戦後になり、マーサ・グレアムの「モダン・ダンス」のメソッドの講習会が、進駐軍によって日本にもたらされた。一方、「モダン・バレエ」は、「バレエ・リュス」の振付家としてデビューした後に渡米し、「アブストラクト(抽象)・バレエ」を打ち立てたバランシン、フランスのローラン・プティ、フランスからベルギーに本拠地を移したベジャールに代表されたが、現在の「現代舞踊」のグループと人脈的に最も近い関係にあるのはベジャールである。
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『砂漠のミイラ』©池上直哉
さて、舞踊史をコンパクトに振り返ったが、その上で今回の〈戦後日本の3人の異才たち〉による3作品を見て行こう。まず第一部は、藤井公(1928~2008)・利子による構成・演出・振付『砂漠のミイラ』Mummies in the desert(1993年初演)。藤井公は、小森敏(1887~1951/欧州の歌劇場などで活躍後1936年に帰国)に、共に学んだ妻の利子と、1961年に「東京創作舞踊団」を結成し、2008年まで作品を発表。埼玉県舞踊協会を設立した。師の小森は、上記の舞踊史の中の「モダン・ダンス」とは一線を画し、おおむね日本舞踊をベースにした東洋的な身体性に、バレエの律動を生かした気品のある独自の舞踊を踊ったようだ(※1の第2章、執筆=杉山千鶴を参照)。
本作は、<死や無限>を意味する名のタクラマカン砂漠(新疆ウイグル自治区)に眠る、ミイラをテーマにした約1時間の大作。2003年にはローランの美女を始めとするミイラ群発見のニュースもあったが、これはそれに先立つ作品である。原案は、秋谷豊詩集「砂漠のミイラ」。ホリゾントには、薄い夕焼け色の空の下に赤茶けた色で広がる砂漠が遠景で映される。アオザイ(ベトナムの女性の民族衣装)風の白い衣装をまとった20人ほどの男女と、途中からは、最後にミイラ役で現れる男女一対の生前の役を踊る〈青い衣装の清水フミヒト〉と〈紅色の衣装の吉垣恵美〉が加わった。
物語はなく、軽妙な〈身体各部の動き〉を舞踊に融合させ、フォーメーションの移動も多い7つの構成シーンを〈ミイラの命を源とした夢想〉のように重ねてゆく。最後の場面では、2000年のあいだ眠り続けたという〈男女一対のミイラ〉に扮した2人が、舞台の中央に横たわる。ともあれ上演時間の長さを感じさせないのは、見事であった。
当日のプログラムに掲載された文章には、「藤井作品は時代への深い反発を経て、『北斎、今』に代表される軽妙洒脱な世界へ。/そしてミニマルな身体のリズムを刻むコンテンポラリーな作品『砂漠のミイラ』へと繋がっていった。/蜃気楼(シンキロウ)→吐魯蕃(トルファン)→吟遊詩人→流沙→魂の共鳴→飛天→砂漠のミイラ」とある。
ミニマルという言葉のとおり、伝統的な舞踊の大技としての回転やジャンプなどの身体技は見られない。だが場面ごとに、身体をさまざまに分節的に用いて、あるいは関節からの動きを効果的に組み合わせ、床に身体をつける動きを含め、衣装や砂漠の地域性、各場面の雰囲気に合致したオリエンタルなテイストの動きが、軽やかにシンプルなタッチで流れるように紡がれて行った。ここで言うオリエンタルなテイストとは、動きの質が、曲線的というより直線的であることを含む。
ミニマルという語は、舞踊では「モダン・ダンス」の後、ニューヨークを中心に展開された「ポスト・モダン・ダンス」以降に、用いられた。また、プログラムの中の文章は「ミニマルな身体のリズムを刻むコンテンポラリーな作品」と続くわけだが、この日の3作品の中で、最も「コンテンポラリーな身体性」を私に感じさせたのは、確かにこの作品だった。
ここで私が「コンテンポラリーな身体性」を感じたと書いたのは、「モダン・ダンス」の形式を伴う重厚さ、またそれに対抗的な「ポスト・モダン・ダンス」の風味を代表するミニマリズムやニュートラル(中立性)を超えて、ミニマルではあるが、いわゆるミニマリズムに限定されない日本あるいは東洋的な身体観の豊かさという自由」があった、という意味である。使用音(楽)は、山本直オリジナル他だが、ポスト・モダンからニュー・エイジを感じさせるものまでが並んだ。
場面ごとに、多様な身体の動きと舞台上の人数を増減させながらの、多彩なフォーメーションが組み合わされ、後半は、しだいに動きと音楽に勢いがついてゆくように感じられた。この辺りの様子や、最後の2体のミイラの演出なども、いわゆる「ミニマリズム」を超える部分だが、まだ他にも、大いに述べたいことがある。それは1980年代の東京では、〈古今東西の身体技法〉や〈身体の解体・解放のためのテクニック〉をさまざまに学ぶことが可能であったという記憶である。そのような時代の身体性にまつわる潮流を確かに踏まえた発想が、見事に融合しているように思われた。その上で、身体の動きに艶(つや)がり、それが気品であると感じられた。
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第二部の最初は、若松美黄(1934~2012)による構成・振付・自演のソロ『獄舎の演芸』(Dancing in the Prison Cell/1977年初演)。筑波大学教授、日本女子体育大学教授、現代舞踊協会理事長、舞踊学界会長、WDA会長などを歴任した若松は、明るく、オープンで、ユーモアもあり、花のあるダンサーだった。若松の特にソロ作品は、若松自身の人柄の味がふんだんに発揮される場であったように思う。この日、それを演じたのは高比良洋だが、若松のダンシングの特徴がよく押さえられていた。会場でも、「若松先生が踊っているように見えたわね」の声が聞かれた。
『獄舎の演芸』©池上直哉
若松美黄は、沙原聖子、津田信敏(1910~1984)、マダム・ノーラに師事。1967年に、「若松美黄・津田郁子自由ダンスカンパニー」を設立した。津田信敏は、戦前に渡独し、マックス・テルピス舞踊学校、ドイツ国立舞踊学校に学び、帰国後は前衛舞踊(当時のモダン・ダンスの最先端の呼称の一つ)家として活躍。この流れの中から「暗黒舞踏」が、生まれて行った。若松も当初は、後に「暗黒舞踏」を形成する面々とも接点を持った。
ただし若松の身体性は伸びやかで、たとえば関節部分に余裕を持たせた表情豊かな身体性で脚を跳ね上げる。だが「暗黒舞踏」同様、マイムや、クラウン(いわゆるピエロのような)の味付けもある。その自在な精神性を合わせて、他の「モダン・ダンス」の面々とは、一味違う魅力があったと言っても過言ではないかもしれない。自身では、「ポスト・モダン寄り」と言っていたように思うが、あえて「モダン・ダンス」をベース置いた上での、自在な「コンテンポラリー・ダンス」というところである。
今回の『獄舎の演芸』は、10分前後の小品。音楽は、クルト・ワイルの『第2シンフォニー』。舞台奥、しゃがみこんで頭を抱えたダンサーが、暗闇の中に映し出される。道化の味付けがあった。その後、床面を覆う大きなライティングは四角。プリズン(刑務所)の一室だからだ。そこからは上述のような、若松の伸びやかでユーモアや諧謔を取り込んだダンスが始まる。オープンな人柄でありつつ、容姿にも恵まれ、後には大学や舞踊界の重鎮を務めたエリート(優等生)的な側面を合わせ持った若松が、あえて囚人を演じるところに、若松らしい、「常識的な日常の自己」の枠組みから〈はみ出そう〉とする逆説が見て取れる気がした。
そして、さすがに前衛舞踊の津田信敏の薫陶を受け、初期の「暗黒舞踏」の面々とも接触した、若松らしい羽目の外し方だと思ったのは、当日のパンフレットにも写真があったラスト・シーンだ。しゃがみ込んだまま、ニットのシャツの裾(すそ)に内側から両足で踏み込み、腕を左右に広げたおどけた姿勢と表情で、低い姿勢のまま前へ進む。2つの膝頭(ひざがしら)の膨(ふく)みが、ニットのシャツを突き上げて目立ち、何だか〈女性の胸〉のようにも見える。ここが、また面白かった。
「世の中というものが本当に立派なものならば、世の中に根差した私の悲哀も立派なしっかりしたものであろうと思います。世の中がメチャクチャだと思う折に、悲哀も又、メチャクチャに分解するものだと思いたいのです」(若松美黄、1977) これも、当日のパンフレットにあった言葉だ。自分という「個」と、「世の中」を切り結ぶ創作意欲を内包した作品だったのだなあ、と思う。
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最後は、庄司 裕(1928~2008)の『八月の庭』Garden in Augaust(1994年初演)。庄司 裕は、戦前に「ドイツ表現主義舞踊」を学んで帰国した江口隆哉・宮操子に学び、1970年に自らも文化庁派遣在外研修員として欧米に渡った。帰国後、1972年に「庄司裕モダンダンス・カンパニー」を設立。私たちの世代には、ダンスカンパニー「カレイドスコープ」(コンテンポラリー・ダンス)を主宰する二見一幸の師と言った方が、分かりやすいかもしれない。
『八月の庭』©池上直哉
当日のパンフレットに、「ダンサーの個性と美しさを存分に引き出す叙情溢れる庄司流の表現スタイルは、全国に伝播して日本のモダンダンスの大きな潮流をつくった」とあったように、この日の中でも、いわゆる「モダン・ダンス」のスタイルを際立たせていたのは、この作品だった。ひまわりの花を立体的にいくつも取り付けた、色鮮やかな傘が開かれ、それを軽装で黒衣の男性ダンサーが支え持っていたが、20名を超えるダンサー達が出演し、ユニゾンで踊る場面も少なくない約20分の上演時間を通して、傘を中心に、舞台の左右が対称的な演出・構成になっていた。
傘の中に〈2人の男性ダンサーが立つ〉、〈その後方にも女性ダンサーが隠れるように立つ〉などという演出は、何か不可思議さの暗示に見えた。また「八月」のひまわりには、敗戦記念日の印象も宿る。そして最後に、傘が前方に引き出され、倒れる演出には、やはり原子爆弾の落下の印象が重なった。このように意味内容に明確な抽象性を含むというのも、モダン的であるのかもしれない。そして衣装にも、ある特色がよく現れていた。女性達の衣装が、柔らかな薄手の布地のロング丈の揃いのドレスである。それは、〈舞踊のための衣装〉といった感が強いものだ。これぞ「モダン・ダンス」らしいスタイルの一つ、と言えるのではないだろうか。動きも、いわゆる舞踊言語を感じさせるものであった。
音楽は、安良岡章夫の『協奏的変容~ヴァイオリン、チェロとオーケストラのための』が用いられ、木管楽器や不調音階などが耳に残った。当日のパンフレットには、「庄司 裕 作品には、反戦3部作と言われた大作『聖家族』(1967)、原 民喜の『夏の花』(初出1947年)に触発されて原爆の惨状や悲劇を描いた『鎮魂歌・夏の花』(1985年)の数年後、同じく原爆を扱った『八月の花』を発表した。『八月の花』は声高に反戦を主張してはいないが、戦中派庄司 裕の“戦争を風化させてはいけない”という思いと平和への願いが感じられる」という記述があった。
本作は1994年の初演で、それは「阪神・淡路大震災」の前年である。その後、2011年の「東日本大震災」の惨事も重なり、時代の感受性がシフトした感もあるが、庄司が大戦の惨禍を脈々とテーマとし続けたことは印象的である。反戦3部作の3作品目は、『リゴドン~死の舞踏』(1997)であった。
国際的な「コンテンポラリー・ダンス」の潮流の広がりは、1980年代に始発したフランスの「ヌーヴェル・ダンス」の波を受けたとは言え、特に第2次大戦後の欧州の体制が崩壊した1990年前後の区切りめと無関係ではなく、2つに別れたドイツが元に戻った「ベルリンの壁の崩壊」、そしてソビエト連邦の崩壊にともなう「東西冷戦の終結」が、その発展の契機となったようだ。アジアでは、まだ朝鮮半島は統一されていないものの、日本においては2度の震災に見舞われたこともあり、時代の気分はしだいに「ポスト・戦後」へと移行して来た部分も、必然としてあるだろう。
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まとめとして「モダン・ダンス」と「現代舞踊」の関係性について述べるが、今回の3作を見ても、「モダン・ダンス」=「現代舞踊」という考え方は、はなはだ偏向的なものであることが理解できると思う。藤井 公『砂漠のミイラ』は、「モダン・ダンス」の観念を超えて、「時代の身体性」を大きく反映していた。若松美黄『獄舎の演芸』は、「モダン・ダンス」のみならず「ダンス」の枠を超えたマイム身体の融合や前衛的な精神性を大いに含んでいた。庄司 裕『八月の庭』は「モダン・ダンス」を自認した作品だが、国内外の大きな時代の区切りめの最中にあって、重要なテーマを印象的に残す貴重な作品となった。そこには時代の空気を大きく吸った、振付家としてのアーティスティックな強い直観(インスピレーション)も働いたのではないか。
このように見て来ると、日本の「現代舞踊」のグループの作品は多岐に渡り、各々に振付家達が、人生をかけて創作した豊かな作品にあふれているように思われる。秀作だからこその再演ではあるが、日本の「コンテンポラリー・ダンス」の発展において、これらの様々な発想を含んだ資源が、有効に生かされることを願いたい。
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