稽古場に求められる『引き算思考』
OM-2 ポチ
ヨガの呼吸法や古武術等の身体論を学び、現在、アレクサンダー・テクニーク教師養成コースにも所属。また、舞台俳優として国内外の演劇祭に出演しながら、LEGOや様々な身体操法を活用したワークショップも行っている。教育学修士。 |
本紙への寄稿を決断した理由は、演劇の本質(ひいては人間/自然の本質)とは何かを自分なりに再検討してみたかったからだ。では、いったい何から書き始めるのがよいのか? 演劇文学を研究されている方、私よりも遥かに舞台経験の長い方の書籍等を読むに、様々な切り口で演劇というものの本質に迫ろうとしている(このような現象が起こるのは、演劇というものが人間/自然の本質的で普遍的な何かと結びついている証であり、実に様々なテーマが提起されている)。そこで思い切って、会社員でもある私自身の経験、さらには演劇以外の身体操法の考え方・発見を交えながら、OM-2という集団を私自身がどのように理解してきたかを書いてみようと思う。
“ティール”的な在り方、OM-2という集団
稽古場について触れる前に、まずはOM-2というパフォーマンスグループがどのような集団であるかについて考えていきたい。OM-2との出会いは、私が東京に転勤となった3年前。この集団を一言で表すならば、2018年の組織マネジメント分野で最も注目を集めた「ティール組織」ではないかと感じた。産業革命以降におけるマネジメントの常識とはまったく異なるアプローチで運営されるティール組織において、劇的な成果を上げる例が次々と誕生しているそうだ。
産業革命によって生まれた組織においては、トップ(上司)がいかに社員(部下)へ目標を指示し、いかにして高い目標を達成させるかが重要視された。集団内にピラミッド型のヒエラルキーが当然のように作られ、上意下達システムが集団を維持している状態だ。これにより、時代に合った能力を持った社員が力を発揮できる一方で、多くの会社員が機械のように働き続けることも助長してしまった。多くの日本の劇団システムにも、似たようなモデルが多いのではないだろうか。演出家と俳優の間には、大なり小なり主従関係があり、演出家が実現したい望みを中心とした上演が行なわれる。俳優は戯曲を語る業務を遂行し、組織のトップである演出家の世界観を表すことが仕事となるわけだ。器用な俳優は売れていくかもしれないが、一方で俳優という職業も機械化してしまう危険性があるように思う。
これに対してティール組織では、トップが社員の業務を指示することはない。ビラミッド型の構造をとらず、全員が対等に協力しあっているのが1つめの特徴だ。OM-2でも、俳優は演出家の指示を受けて行動するのではなく、1人ひとりが自分の考えに基づいてシーンを創りあげるやり方をとる。また、社員にしても俳優にしても、一般的には評価される側の立場となるため、無意識レベルで自分が期待されている“役割”を演じようとする。結果、俳優は自分のやりたいことや、本来の個性を発揮することが難しくなる。個人のありのまま(全体性)を尊重し、受け入れることを重視するティール組織と、後述するOM-2の稽古場の風景とは似ている点が多い。以上が2つ目の特徴である。
最後に、演出家(一般的な劇団におけるトップ)の立ち位置について考えていきたい。OM-2で演出を務める真壁茂夫氏は、自身の著書「『核』からの視点」(れんが書房新社)において次のように述べている。
――演出家は、俳優やスタッフなどすべての人が平等、対等であるという「場」を創りだす責任を負うべきであり、それが演出家の最も重要な仕事ではないだろうか。
一般的な会社組織においても、組織が目指す方向性は経営者のようなトップが示すものだとされている。しかし、ティール組織やOM-2という集団においては、トップが指示をする独裁的な立場には位置づけられない。演出家の好みや台本のイメージに合わせるのではなく、俳優やスタッフは自身のやりたいことの“根拠”をベースに創りあげていく。シーンの構成やデザインは、その担い手によって創造が進められるべきだという考えであり、そのため作品全体の方向性は、その時に集まった公演メンバーによって大きく変わっていく。このような「場」を創りだすことは、演出家にとっても他の俳優・スタッフにとっても、大きなエネルギーがいることである。
作品の創りかた/シーンが目指すもの
なぜならば、対等な関係というのは誰もが自由であることだが、同時に責任も生まれる。俳優は演出家から指示されたことを演技するのではなく、自分自身で考えて一つのシーンを創りあげる。これは(私を含め)、台本に頼りきってきた者にとってはかなり厳しい作業となる。台本からヒントを得て、さらには演出家の言葉やテーマからしか舞台上での存在理由を求めることが出来ていなかったことに気付かされるのだ。
©山口真由子
OM-2の稽古では、参加者の皆が同じ場所を共有しつつも、自己の在り方を探る作業(シーン稽古)を、ひたすら個人で試みる。そして俳優は、いわゆる演出家や劇作家、照明、音響の仕事も行い、創ってきたシーンを全員の前で発表する。そして、シーン発表に対してその場にいる俳優、スタッフ、演出家が何らかの意見を述べる(ここでも、演出家に特別な決定権はない)。公演までの稽古は、シーン発表とその話し合いの時間でほとんどが費やされる。そして、この作業を絶えず繰り返していくことで、公演作品が出来上がっていくのである。
では、OM-2のシーンにおいては、一体何を創りあげるのか? それは「①“社会的な鎧”を脱ぎ捨てた、②私本来の在り方を晒す」ということだ。まず①について。人間は生きている以上、社会に自分を合わせて生きていく必要性はどうしても生じる。例えば現代における日本の学校教育では、強い規格化/標準化の圧力がかかる(それによって工業化を支える大量の代替可能な労働者を作り出してきた)。こういった影響を受けていくことにより、社会的という名の“鎧”が形成されていく。「ありのままの自分」を、「こうあって欲しい自分」「こう見られたい自分」「こうあるべき自分」へと、すり替えてしまう。学校や会社といった社会の中から疎外されない防御のための“鎧”を着て、そのまま暮らしていくのが一般的と思われる。では、そういった社会的な立場や目線を気にしてセーブしてしまう日常の状態を、舞台の上でだけでも“鎧”を脱ぎさってはどうか、と考える。
次に②について。例えば演劇の稽古に入ると、俳優は無意識のうちに客席側を向く、見振り手振りを大きくする、声を張って大きくする、というように、何かの行動を露骨に(わかりやすく)行なおうとする。おそらくこれらは学芸会やお遊戯会からの流れであり、こういった過去に学んで来た演技様式や説明するための技術を捨てていくのである。舞台に立つ上で役立つ道具は捨てる、効果を上げるための行為もやめる。全てを捨て去った後にも残る身体を探る作業を繰り返していくのだ。色々なものを引き算していったとしても、どうしても残ってしまう個人の“核”を見つけることが稽古となる。意識的に排除していくことで、ほとんどのモノが無くなる。だが無くなるからこそ、そこから何かを創っていくのだ。欠落した状態のままでいるのではなく、創造力によって穴埋めをしていくということだ。これがシーンとなる。
自然に湧いて出る衝動から生れた動きは美しい
©山口真由子
・・・と書いている私自身も、まだまだ格闘している最中である。シーン創りで上述のような内容を体現することが難しい理由の一つは、漠然とした不安感であろう。やはり過去の経験から、無意識のレベルで「何かをしていないと不安」になってしまうのだ。私のシーン発表の際にも何度か指摘されるのだが、「お客様に見せ(魅せ)よう」としたり、「時間を行為で消費してしまおう」としたりする。とにかくジッとしていることが不安で堪らなくなり、人間本来が持つはずの自然な感覚がはたらかず、習慣的な身体的反応(私の場合、暗黒舞踏“的”な動きであったり、顔が下を向いてしまったり等)が出てしまう。
これは私に限らず、多くの人は“やっている感”がないと落ち着かないのではないか(頑張ったり努力したりすることが良いことだと、ずっと学校で教えられてきたから?)。一般的に演劇の「稽古」の目的とは、美しくする・補っていく・上手くなる、というイメージが共通のものとしてあると思うが、これらには、自分はまだ醜い・足りていない・下手だ、という認識があるからではないか。この思いを何とか満たしたいがために、ちゃんと“やっている感”が必要となってしまう。
この厄介な“やっている感”だが、実は武術的にもアレクサンダー・テクニークの考えからも、よろしくないことなのである。人間は不完全だから鍛えなくてはならない、という考えでは、自分が本来持っている自然な働きに気づきづらくなり、技も決まらなくなる。一般的に、力を入れることは頑張ることであり、身体を固めて強くすることと思われがちであるが、そうではなく、筋肉に適切な張りがある状態の方が力は発揮される。また、アレクサンダー・テクニークでは、もともと自分が持っていたが、偏ってしまった(もしくは忘れてしまった)素晴らしい身体の使い方を取り戻していく作業を行なう(感覚器官を再教育していく)。英語ではNon-doingと言い、「何かをしない」ことこそがアレクサンダー・テクニークの神髄である。しかし、人間は「何かをする」方が簡単で、ほとんどの人は無駄に筋肉を使ってしまっている。人間は本当に、ただやることが難しいのだ。
頑張って何かを表現できるようにする、というのは一般的な稽古方法でもある。しかし考えてみれば、小さな子どもや動植物は「表現しよう」なんて考えていないはずだが、存在するだけで癒やされたり、感動させられたりする。ただ自分自身を、“今ココ”に100%やり切っているだけのことである。人間は、自然に湧いて出る衝動から生れた動きを「美しい」と感じるのだろう。
OM-2における基本稽古~真っ当に生きてみる~
稽古場では、演出家からの稽古指示は特に行われず、一人一人が自分の課題に対して稽古をしていく。「しっかりやる」、「頑張る」という方向性で自分の身体を動かしていくのではなく、余計なものを取り除いていくことで、自分が舞台に立つ根拠を具現化していく。これまで身につけた技術は、(少なくとも)OM-2の舞台上ではまるで役立たない。…と言いつつも、じつはOM-2の稽古にも「基本稽古」なるものが存在する。誰がやっても同じになる一般的な技術や価値を捨てるといっても、でたらめに動けばよいということでもない。パフォーマンスである以上、上手くやる必要はなくとも、「“自分”は何をやるのか」がより問われるため、集中の度合いやテンションの強度が動きに伴わなければ、単なる自己満足で終わってしまう。
©山口真由子
そこで、「孤立稽古」と呼ばれる基本稽古を行う。ここでは、自分の内側との対話を通じて、集中の度合いを高めていったり、自身の核となっているものを呼び起こしたりしていく。孤立稽古ではまず、正坐した状態から“意識”をおさめることからはじめる。一箇所に集中させるというよりも、自分の身体のどの部分にでも意識を自由に集められるように行う。次に、能の構えのように、丹田を低く落として、下半身への意識を忘れないように立っていく。両肘は張らずに、大きな球を両腕で抱え込むようなラインに沿って構え、両足を開き、全身に意識をみなぎらせる。これが孤立稽古の基本的な姿勢となる。決して楽な姿勢ではないが、下半身は大地に根ざしてどっしりと構え、上半身は天へと伸びていくような感覚である。
この姿勢から、立って、歩いて、座るという、人間として生きていく上での基本的動作を、決められた型に合わせて行なっていく。テンポの速い社会に対応するために行っていることは停止させ、ただ立つ、歩く、座る。慣れないうちは姿勢をキープするだけでも難しいが、この非日常的な姿勢があるからこそ、現実の枠組みからはずれ、「孤立」という名の通りに、世界に自分一人だけが立っている状態をつくりだし、自身の内側との対話を可能にしているともいえる。社会での日常生活を営む為の身体から、自身と向き合うための厳しい状態の身体に変化させ、“真っ当に”生きることを試みていくのだ。
そして、ここでは発声という行為も同時に行なっていく。一から八までの数字を徐々に大きくしながら発していくので、「一」は、聞こえるか聞こえないか程度の最小限のボリューム、「八」が限界以上の叫び声のようなものとなる。日本古来の謡いのように、丹田を低くして、肉体も声も地面を這うように下に下にと向かわせる。また、声を発することについても、社会の目があるうちは、怒るにしても泣くのにしても、こんなことしたら他人に笑われるのではないかと、周りをどうしても気にしてしまう。しかし、今自分は社会の中にはいない。宇宙空間のような場所にたった一人、孤立した状態で立っているのだ。そのため、“自分の身体”と“自分自身と対峙する何か”に意識を集中させればよい。身体中を震わせて、泣いたり怒ったりしてもよい。気取らない、格好つけない。本当にこの状態を身体は欲しているのか、自分にとって要らないものを捨てていこうとする決意の中で、強度に意識を集中させていく。非日常的な姿勢や発声をもつこちらの型を通じて、こういった感覚を高めていく。
こうして“良い感覚”が現れてくると、時間の感覚が狂って、伸びたり縮んだりし始める。また、走馬灯のように記憶が入り込んできたかと思えば、いきなり停止したりする。どのように動くか自分でも制御が厳しい。呼吸が変わる。右半身は何者かに天に引っ張られ、左腕は重さが増して地面に吸い寄せられるようだ。様々な筋肉が動き始めようとする。このエネルギーを、型の動きへと変換していく。また、時間の感覚が変わってくると、単に過去の自分を「思い出している」という域も超えてくる。過去のトラウマともいえる傷と現在の自分とが今まさに出会い、もう一度向き合い、闘っているのかもしれない。東日本大震災でのボランティア生活、会社で犯した失敗、過去の恋愛、・・・そして通り抜けたかと思えば、また別の何かと出会うことになる。
“良い感覚”を再現しようとすると失敗する(基本稽古の罠)
難しいのは、こうした“良い感覚”を基礎稽古において達成できたとしても、どうやってシーン稽古において、その状態にまで持っていくかである。「ここをこうして、あそこをああする・・・」と考えながら動いていては、自然な動きを生み出すことはとてもできない(注:ここでは「自然」という単語を、リアリズム的演技という意味ではなく、“本質的”や“人間本来”というニュアンスで用いている)。孤立稽古での“良い”と感じた動きを再現しようとしても、それを取り戻そうとして、自分にとって良かったという過去にすがり、そこからどんどんドツボにはまっていく。過去の“良い感覚”を再現しようとするあまり、今の身体の自然な動きに合わなくなって、余計に変な動きになってしまうのだ。
©藤居幸一
これは他の芸術においても同じことが言えるのかもしれない。例えば、「型通りの演奏はつまらない、即興性が大事だ」といっても、楽器が弾けないとお話にならない。だからまず、手や指の動かし方や楽器の構え方といった基本動作を練習する必要がある。問題は、手順を学ぶと「こういうときは、こうすればいい」といった想定を抱いてしまうことにある。目の前にやってきた事象に対して、基本稽古で学んだ動きを参照して、当てはめようとするのだ。すると、今の自分の身体の状態と齟齬が生じ、どうにも上手くいかなくなる。
そこで、技術を中心に稽古するのではなく、自分の内面から何かが生まれた際に、自身の身体とどう向き合うかを稽古すればいい。その際にどうしようか慌てたり、過去の“良い体験”にすがったりするのではなく、“その時の”自分の内面と向き合う。例えば、自分の内側に何かの感情が強く湧いてきたとして、身体部位のどこに、どんな症状が現れてくるのか。心の動きのどこに、どういう詰まりがでてくるのか。今まさに、その時に「もうこれしかない!」といった位相にまで高める。だが、それですらも流動的なものである。そこに微かに(内側に)感ずるものこそが、個性と呼ばれるものの発芽であり、(たとえ表層上では形式化された動きであったとしても、)そこに人間としてのオリジナリティが出るのではないだろうか。
最後に
現代を生きる我々は教育によって、「努力すること」を美徳と教えられてきた。そのため、現代人はついつい「足し算」をする思考に陥りがちになってしまう。加えて、社会に生きる我々には“鎧”までも着せられてしまっている。そこで、演劇における約束事やあらゆるものを捨てる。そして、ただ歩いてみる、座ってみる、立ってみる。何かのセリフを吐いてみるだけでいい。嘘をつくことだけはしない。私の場合、いくら捨てようとしても残ってしまうものは、過去の精神的傷であることがほとんどであった。その傷はネガティブであることも事実だが、同時に確かな自分自身でもある。この捨てきることの出来ない、どうしても残ってしまうものこそが、演技の原動力となり、腕や足、喉などの肉体を動かし、強力なエネルギーも生み出す。
次回作『作品No.10』の公演に向けた稽古は既に始まっている。生粋の(?)良いところ見せたがりな私にとって、この闘いはまだまだ続く。
次回公演
OM-2『Opus No.10』
第29回「下北沢演劇祭」参加
2019年2月22日(金)~24日(日)@下北沢ザ・スズナリ
構成・演出:真壁茂夫 映像:兼古昭彦
出演:佐々木敦 柴崎直子 金原知輝 ポチ 田仲ぽっぽ 辻渚 細谷史奈 ふくおかかつひこ 高橋あきら 坂口奈々 鐸木のすり ほか
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