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輪心庵 投資銀行勤務会社員   
不条理と異端の共生  【寄稿】

OM-2『Opus No.10』
2019年2月22日(金)~24日(日)@下北沢ザ・スズナリ

 衝撃だった。現実との境界の見えないむき出しの表現を目の当たりにし、身体と意識の性認識の矛盾の問題や、自分自身が引きずる家族との関わりと死による葛藤などを反射的に重ね合わせ、あたかも役者に乗り移られたような錯覚に襲われた。頭が締め付けられ心臓をえぐり出されたようなショックと虚脱感にとらわれるとともに、矛盾をはらむ世俗的倫理観と個の存在の共生という、身近でありながら奥の深い課題を正面から突き付けられたような感を受け、舞台を見てからしばらく経った今でも鮮烈に脳裏に焼き付いて離れない。

 うず高く詰まれた段ボールの壁の全面に、プロジェクターが蒼白くにぶい桝目模様の光線を刑務所の檻のように投影している。舞台の中央で年齢も性別もあいまいな小柄な役者が椅子に座って読書にふける中、壁のあちらこちらから太長い筒がスルスルと突き出し、管に反響する乾いた声が沈黙を破る。段ボールの壁の窓が次々と開き、役者の頭部だけがのぞき出ては、他愛もない会話から政権の批判、言論の自由、憲法議論などが、独り言、役者同士の会話または観客への語りかけとして無秩序に飛び交う。壁の端の箱では髪の長い女性が所在無げにうずくまっている。声はだんだんと都会の喧騒のように混ざり合い、耳を覆うばかりに高まった所で「うるさい!」と怒号が鳴り一旦静寂が戻るが、たちまちまたざわめきが噴き上がり幾度となく波を繰り返す。中央の役者はやがて背を向け着衣を脱ぎ、腕を背中にからませゆっくりと悶える。「見ざる聞かざる言わざる」の三匹の猿のように、周囲の声に目耳口を閉ざし耐えようとしているのだろうか。あるいは体制への不安や批判、普遍的常識という殻にひそむ矛盾やごまかしに気付いて声をあげようとしつつも、虚構の鉄格子にがんじがらめに囚われもがき、際限なく憤りを溜めているのかもしれない。

 ここまで観て、よくある政治や世相に対する表面的な批判の寸劇かと一瞬あなどったのも束の間、突如耳をつんざく轟音とともに壁が崩壊する。核の爆発だろうか?それとも蓄積した不満が爆発したのだろうか?天変地異のような破壊音が響く中で蹂躙され逃げまどう人々がやがて去り、静かに降り積もる核の灰を思い起こさせる、ブラウン管の砂の嵐のような映像の景色となり静けさが戻る。静けさ?いや違う。これから始まる絶望と破滅に向かうモノローグの幕開けだ。ここは本当にあの小さなスズナリの劇場だろうか。疾風が吹きすさぶ荒涼とした平原にたたずんでいるようだ。


©山口真由子
 いつの間にか、舞台にはありふれた机やロッカーが並んでいる。おもむろに巨漢の男がのっそりと現れる。彼を縛る格子も壁ももうない。それでもなお彼は自らが何かに抑えつけられているかのように、ゴミ箱を頭に被り、そこに内蔵されたカメラを通して舞台に顔を映し出し、大柄な体に似つかわしくない不思議にとらえがたいスローモーションのような動きをしながら、吸い込まれるような語り口で自身の過去の話を走馬灯のように話し始める。子供の頃、女装というささやかな秘密の趣味が見つかったことで、父親から受けた拒絶と虐待の辛い過去を。ゆがんで悲痛に満ちた思いを、魂の叫びとしてじわじわ絞り出しながら、徐々に高潮してゆく。 

 老衰の床にあって弱った父親を見舞ったときに与えたひとかけらの角砂糖で、父親が誤嚥性の肺炎をおこしやがて息絶えた可能性を否定できない事実に対する自責の念。そして世間一般の常識とは外れているとはっきり自覚しながらも、自分自身では解決のしようのない身体と心のかい離による性的倒錯。それを理解出来ず、世間体に縛られ自分を拒み人格まで否定し、今や霊安室に横たわっている父親のなきがらに、恨みともゆるしの懇願ともつかない言葉をかけ、身悶えながら奈落の底に落ちてゆく。小山のような役者の体とはアンバランスな、物憂くゆがんでどこかか弱いキャラクターの設定が、異様な感覚をさらに高める。彼が唱える言葉はそのままプロンプターのように壁に投影され、観客は聴覚と視覚の両方からサブリミナルに台詞を受け止め、無意識に役者に自分を投影し、まるで自分が発した言葉をオウム返しのように聞き、自分の深層心理に語りかけられ責められているような錯覚に陥る。

 中央に置かれたロッカーの扉が開け閉めしては、役者自身と複数の分身の映像が激しくロッカーを出入りし、観客の視覚的興奮が高まってゆく。舞台ではいつの間にか多くの役者が入り乱れ、冒頭飛び交った政権批判やイデオロギーを掲げて叫ぶ個のない全裸や白塗りやお面をかぶった衆愚が乱れ舞う。壁に文字で投影された我が国の憲法は、国民の自由と権利を保障するが、これを実現するための国民と社会権力の間での不断の努力の結実については、現実には矛盾の反復の歴史であり、権力にしろ大勢意見にしろ往々にして固定観念と偏見の上に成り立った主張の軸に片寄せされ、そこから異端としてはじかれる個の存在を押しつぶしてしまう。舞台のボルテージが激昂してゆく中で、あわれな巨漢の男の不安定な心は世俗的道徳の価値観に追いつめられ見る見るうちに壊れ、理性を失い舞台をのたうちまわる。


©山口真由子
 この男を救いたいと切望する自分に気づく。いや、この男は私自身を写したトルソー(胸像)であり、自身が救われたいと無意識に感じているのだ。自分の身の上ともどこかつながる幾つかの接点が知らぬ間に男と自分を同期させ、胸が張り裂けそうになる。これが芝居なのかさえもわからない感覚にとらわれる。とてつもなく怖いと同時に、何か自分がこれまで一生懸命閉ざしてきた殻に、一穴を開けられたような奇妙な感覚に襲われる。他人には言い難い問題を抱えていたり、引きこもったり、何がしかの部分で世間とのつながりを閉ざさざるを得ない者が、外界への一方的なチャネルを求める感覚なのかもしれない。舞台は益々狂気に向かって進み、私の勝手な思いも空しく男は遂に自身に銃口を向け、天井から降る大量の血しぶきを浴びて力尽き果てるのだった。

 再び舞台を静寂が覆う。戦争や震災による核の汚染であろうか、舞台には月光のように碧く冷気を帯びた照明のもと、ぽつぽつと灰のように白く小さなまだら模様が浮かび、枯れ木のようなオブジェが見える。幕開けで段ボールの壁の箱の中でしゃがみこみ無言で観客席をうつろに眺めていた女性が、防護服を着てあらわれる。女性は着ていた防護服を脱ぐと椅子に座り、とてもゆっくりとなまめかしく体を動かす。泣いているようだ。壊滅した世界を嘆いているのか、力尽きて自己破壊した男をあわれんでいるのか、それらの終局的な状況を招いた社会自体の矛盾を憂いているのだろうか。あるいはそれら全ての不幸な結末からの再生を祈り踊る女神なのかもしれない。 

 冒頭の小柄な役者が再び舞台に現れ本を読んでいる。かたわらでは散乱した段ボールの片付けが淡々と始まり、消えた壁が再び積み上げられてゆく。あれほど重いドラマが展開されたのにもかかわらず、あたかも何もなかったように終演を告げる無機質なアナウンスの声が流れる。移ろいやすい刹那や利己主義、為政者への圧力に対する不満、あるいは大衆価値観の矛盾により身動きできないように拘束された、我々が生きている以前と変わらない現実の社会に戻ったことを知らせるかのように。 


©山口真由子
 社会権力や普遍的常識という一見良識めいた鳥かごは、時として目に見えない暴力となり、適合しない存在を許さず異端として容易に冒涜する不条理さを内包する。はじき飛ばされて行き場を失った者はやがて暴発し、かえりみられることもなく埋没し日常が淡々と過ぎてゆく。一方で、不条理自体を客観的にとらえた上で、立ち向かいながら個として生きることこそ、人間の人間たるゆえんであるということなのかもしれない。では、か弱くもろいがゆえに耐え切れず、自分の存在価値を見失ったり自らを殺めたりする者は、単なる敗北者として打ち捨てられて良しとするのだろうか?いや、そうではなく、個々の多様な価値観がある中で、各々の主張や行動、心理を多面的に相互に見つめ認め合い、真に共生できる理想社会の実現の可能性を探ることが課題ではなかろうか。今回のパフォーマンスは、それに対する方法論の具体的な道しるべが示されたわけではなく、観客一人ひとりに問題に対する理念的な解を問われたような幕切れであったように思う。

 OM-2の舞台を観劇するのは今回が二度目だが、これほどのテーマを危うくも絶妙にバランスさせた問題作を、高度に洗練された舞台装置と映像技術を駆使して見せられたら、一観客として否が応にも虜にならざるを得ない。類いまれに秀でた劇団に出会えたことを幸運に思うとともに、次回も目を見張る作品となるであろう「Opus 11」に今から大きな期待を寄せる。