俳優の自立
山の手事情社 浦弘毅
1996年劇団山の手事情社に入団。国内外で舞台経験を積む
俳優活動を続けながら2015年株式会社ステージワークURAKを設立 代表取締役を務める
桜美林大学、玉川大学非常勤講師 |
私が演劇の世界に飛び込んだのは1996年、21歳の時だ。現在は45歳、約四半世紀俳優活動を続けてきて俳優の生活状況はどのように変化していったのだろうか?私なりに検証していきたいと思う。世界経済、日本経済、時事から当時の俳優の生活を考えてみようと思うが、これから書かれるものは俳優である私の主観であって、社会全体の考え方でないことを了承いただきたい。
1996年、演劇界は今と違う活気があった。1989年にベルリンの壁が崩壊し、日本では消費税3%、1991年にバブル経済崩壊、湾岸戦争、1995年阪神.淡路大震災、地下鉄サリン事件、毎年のように何かしら世界的大きな事件が起こっていた。こういうある種のマイナスな事件の時は演劇というものは刺激的に活発になる。当時まだコンプライアンスという言葉は一般化していなかった。また、演劇という社会認知度も決して大きくなく、今よりもっと自由で激しい演劇が多かった。この時代20代の俳優の生活はほぼアルバイト。私も飲食店、バーテンダー、運送会社などいくつも掛け持ちをして生計を立てていた。頭では不景気になるという危機感は持っていたが、バブル時代の経験を忘れられない人間にとって「なんとかる」と思っていた人も少なくない、どこか楽観的な時代だったと思う。
1997年以降山一證券の経営破綻を皮切りに永久就職神話が崩壊。この時期から大企業の経営統合など日本経済が不安定になってくる。アルバイトで生計を立てていた私たちもまかないの有料化などの煽りを受け始める。当時俳優はほとんど飲食店で生計を立てていた。大きな理由はご飯が出るから、お酒が飲めるからである。有料化をする飲食店は、大型チェーン店である。そこでアルバイトをした方が時間や休みの都合がつくからである。個人経営の飲食店では休みにくい環境があり、公演前の長期休みにも対応が効かない、店主との信頼関係がない限り個人経営の飲食店ではアルバイトはしにくくなる。また、大企業の飲食店も人件費削減のため、アルバイトの人数を減らすようになるため、アルバイトの日数が減ってくる。
だが、ここで演劇界では運のいいことにアニメが世界的に評価を受けることになり、声優に人気が集まるようになる。専門学校、声優養成所が急激に増え、俳優たちが講師をし、生計の一部を立てられるようになる。それが2013年くらいまでどうにかこうにか続いた。2012年に文部科学省から武道、ダンスの教育への取り入れがはかられ、また、声優などの専門学校も生徒の頭打ちになり、少しずつ食い扶持が減ってきたように思える。現在、俳優はアルバイトを主にしているが、人材派遣、契約社員など定期収入を求める傾向にもある。個人差はあれ概ね20代〜30代の小劇場の俳優はこんな暮らしをしていたのではないだろうか?
ここで話は前後するが20代〜30代(2000年〜2010年)の私の俳優生活のやりくりをお伝えしたい。
私は劇団山の事情社という劇団に所属している。今は劇団で演劇活動をしながら、会社経営、大学の非常勤講師をし生活は安定している。そのようになれたのも演劇という芸術の探求から今の人生があるのだが、ここでは本題からずれるため省くことにする。
当時の劇団は1年間で3本立て公演(2週間で3演目を公演する)を年に2回、その間で海外公演と過酷な演劇活動をしていた。アルバイトは月に10日程度、当時私は家賃41,000円の四畳半アパートに住んでいた。月の収入はアルバイトで8万円程度、交通手段はボロボロのスクーター、ガソリン代が月に5,000円、光熱費、携帯電話料金で15,000円。父親の事業失敗のために背負った借金返済のために15,000円。残るお金は5,000円程度。これに公演の月はギャラが入るが公演前は1ヶ月以上毎日稽古のため働くことは出来ず、似たような生活になる。
ほとんど生活はできない。なんとかして国民健康保険のお金を工面し、国民年金は毎年免除申請を行っていた。食事は1日1食+バイトの賄い。家では寸胴鍋に30人分のカレーを作り溜めし、それで食い繋いでいた。本当にお金のないときはただじっと動かずになにもしない。たまに自分の家の中を物色し金目のものを探す。四畳半のほとんど荷物のない家に金目のものなどあるはずもない。財布の中は100円も入っていないことはよくあった。何もすることがなく、ずっと芝居のことを考えていた。台本にひたすら目を通したり、図書館へ行ってひたすら本を読む。文学の世界を想像すると自然と空腹を忘れることができた。私の20代〜30代の生活はこんな感じである。
私は貧乏であったことをあまり悲観的に思っていない。考え方によっては人生で大きな逆転を起こせる。貧乏から脱出するための私の考え方はこうだ。「笑顔で貧乏をとことん味わってみよう。」ここまでくるともう常軌を逸している。しかしそれが私の大きな経験になった。
まず、私には演劇しかないわけだから、命がけで稽古に望むようになる。(山の手事情社は身体性を持ち味とした、運動量の多い劇団であるため空腹のわたしには本当に命がけだった。)これを数年続けると、俳優として上手くなるし、集中力がとてつもなく上がった。次に、人との付き合いが大きく変わった。日々命がけであるため、主張することができるようになった。ただ主張するだけでなく、自分の主張が受け入れられなければお金にもならない。自分の人柄、相手の性格の観察など他者との関わるためのコツをつかめるようになった。そのような生活が2年くらい続いただろうか、いろんな方との出会い、いろんな方から少しずつ仕事をもらえるようになり現在に至っている。
私は国が芸術文化というものをどのように考え、そしてどのように育み、守っていくか? そのためには芸術家たちの生活をどのように保証していかなければならないか? それが日本という国はまだ未熟であると思っている。もちろん国、企業の助成制度はある。それで多くの芸術家が守られている事実もある。だが、充分な創作時間がない中で世界に通用する表現が現れるのだろうか?そこには大きな疑問を感じる。
世界に通用するということは日本がどのような文化、言語を持ち、どのような国民性であるかを示すためにとても重要なことである。俳優(芸術家)というものはどこの国でも決して裕福な業種ではない。だが海外が日本と大きく違うのは、俳優(芸術家)はその国の文化を示すために必要な職業で俳優もそこに大きな誇りを持っているということだ。このことでも日本の芸術というものが未熟なのだ言える。自国の文化、言語を育み、守るための職業なのだと自覚している俳優はおそらくほとんどいない。それは国、地方自治体の責任だけてなく、日本の俳優の質、俳優としての自覚にも大きな問題があるのではないだろうか?その教育が日本にはない。ないというより日本は俳優という位置付けをそこにおいていない。そこに重要性を置かなければ貧乏だけが際立って、辛い生活になってしまう。
私たち俳優(芸術家)はお金には変えられない豊かさを追求している業種でもある。私たち俳優(芸術家)が考えなくてはいけないのは、どうしたら金銭的に余裕のある生活を送るかではなく、どうしたらお金には変えられない豊かさを提示できるかなのだと思う。それができないのなら、俳優(芸術家)という職業はやるべきではない。と私は思うのである。
次回公演
山の手事情社『桜姫東文章』
2020年3月@東京芸術劇場シアターウエスト
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