「前衛」「前衛芸術」という言葉を前にすると、どこかしら身構えてしまう自分がいます。
それは、「昔はよかった」的な懐古趣味やノスタルジイに話題が回収されてしまう可能性への抵抗感もありますし、「それっぽく」着飾った言葉に対する思考停止への怖れもあります。
また、固定観念を破壊するという固定観念に縛られてしまっているのではないかという矛盾も少なからず感じられるし、何より、いま現在、例えば2014年の日本において、「前衛」ないし「前衛芸術」が果たして成立するのかという強い疑いを払拭できないからです。
アップデート、バージョンアップ、更新、といったような言葉が、日常的に使われるようになりました。「●●、バージョンアップした?」とか「昨日、××更新したよ」という会話は、冷静に考えるとちょっと間が抜けているようにも感じるのですが、ともかくも、私たちは様々なレイヤーにおいて日々を「更新」しています。
その「更新」の速度、拡がり、重なりは、後世に多大な影響を及ぼした「前衛芸術」が台頭した頃の世相とは比べものにならないと思うのです。
仮に、これまで前衛芸術と呼ばれたものが何がしかを「更新」するものであったならば、「いまの」前衛芸術は「何を」更新するのだろう。
時代を?世界を?アートシーンを??
エンタメ、サブカルで括られるような活動はさておき、先鋭的なある幾人かのアーティストたちに、かつての「前衛」の精神性が受け継がれていることには疑いを持ちません。
されど、多種多様な層で覆われ、情報に満ち溢れたこの現在の世界に立ち向かうにあたり、その精神性が単に表現活動へのある種の自衛=保険として機能していないかどうかには、自分自身のことも含め、常に批判的でありたいと思っています。
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