PHOTO©大橋絵莉花
会場の新宿眼科画廊はごく狭い平場のスペースで、椅子一つ置かれていない。そこで役者は立ったり座ったりし、時には喧嘩をしてもみ合ったりする場面もあるが、基本的に身体の演技は薄めだ。
劇空間を規定しているのは、圧倒的に言葉の力である。作・演出の綾門優季の書くセリフは、彼いわく「文語体」。とは言っても戦前まで使われた「~なり」といったものではなく、自らの硬質な文体を指してそう言っている。
会話の部分は基本的に話し言葉だが、同じ言葉を繰り返したり、頻繁に言葉を区切ったりするなどして、リズムを付けている。一方で、会話とは違う質感の言葉がある。独白だったり、回想だったり、全体の状況を俯瞰したりする言葉で、比較的硬い書き言葉であり、一つながりの文章になっている。隠喩も多用されているので、現代詩のようでもある。ある程度劇が進行すると、このモードの言葉が挟まってくる。アクションは止まり、役者は立ったままそれを速射砲のように口にし、しばしば複数がユニゾンで声を合わせる。映像が用いられてかぶせられることもある。
この作風は、11年に綾門が「Cui?」を立ち上げて以来、基本的に変わっていないようだ。なお、今回の『きれいごと、なきごと、ねごと、』は初期の作品の再演とのこと。
『きれいごと、なきごと、ねごと、』は家族劇である。だが、両親の存在感は薄い。父親は登場人物のセリフで言及されるだけで、舞台には現れない。母親に至っては全く言及されない。いないのだと思われるが、いつどんな事情でいなくなったのかもわからない。
劇の中心となるのは三人の高校生の姉妹+彼らの大学生の兄の四人きょうだいである。だがこのきょうだいは当初から仲が悪く、劇が進行するにつれて、彼らの家庭は崩壊していく。
その理由はかなりはっきりしていて、この家族には母性がないからだ。母親がいない上に、その役割を担おうとするものもいない。日本社会の現実が、家庭から企業にいたるまでやや母性過多であるのに対して、全く母性が欠如した世界が描かれている。
その意味で劇の核になるのが三人姉妹の長女である。戯曲によれば名前は愛雨(あいう)。だが次女白雨(はくう)、三女翠雨(すいう)の名前が頻繁に口にされるのに、劇中で愛雨の名前は一度も登場せず、もっぱら「お姉ちゃん」と呼ばれる。年齢的には一番上の、長男の続(つづき)が「お兄ちゃん」と呼ばれることはほとんどないのに、である。
愛雨が名前ではなく「お姉ちゃん」と呼ばれるのは、妹たちが彼女に母親代わりの役割を期待しているからだ。白雨と翠雨は同じ高校の豪(ごう)を巡ってとげとげしいライバル関係にあり、愛雨が母親代わりとしてできることは大きい。二人の言い分をそれぞれに聞き、受け入れ、その上で仲裁すること。だが、愛雨はその役割を徹底的に拒否し、むしろ正論で二人を追い詰めていく。その結果として家族は当然のように崩壊していく。
この作品には母性への拒否感が横溢している。今後の綾門の作品でそれがどのように展開されていくかに注目したい。
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