©松見拓也
鍛えあげられた鋼の身体、技術によって磨きあげられた身体、一点と一点を直線距離で結ぶ機能的な身体、労働や戦争の過酷な使用に耐える身体、 記録を更新すべく運命づけられた身体、それこそがスポーツ身体! 近代的合理性をよきものとして受け入れ、みずからの身体を完璧にコントロールする主体を立ちあげよ! このミッションを現実化する規律的身体と真逆にあるすべてのものが、地点/イェリネクの『スポーツ劇』には集められていた。言葉をつまずかせ、俳優たちをステージのうえで意味なく疾走させる三浦基の演出は、戯曲が持つ言葉とイメージの洪水状態をさらに過激にしていた。高くそびえるバレーボールのネット、サッカーやテニスのグラウンドを埋める緑の芝生、ホリゾントに向かいスキージャンプ台のように湾曲し急角度にそびえ立つ床、複数のスポーツ装置をキメラ状にコンバインした珍妙な演劇装置は、引用される言葉のパッチワーク状態を象徴するとともに、観客の視線がまなざす世界をシュルレアリスティックにゆがませる。この空間を生き抜くのは、アーノルド・シュワルツェネッガーの劇画化された身体くらいしかないだろう。スポーツ身体への手痛いしっぺがえし。
その一方で、すでに形式の定着しているこの種のポストドラマ演劇には、戯曲の支配=作家主義の解体を、当の作家が嬉々として演じているような滑稽なところがある。実際の作品を観ると、これも海外から輸入された新種の演劇スタイルというにとどまるだけなのではないかと勘ぐりたくなる。というのも、戯曲がテクストの塊となり、意味なり意図を伝えようとしていた作家が消滅して、言葉そのものが、舞台と観客の間で雄弁に(洪水のように)存在を主張しはじめるといったヴィジョンは、実際に演出を施していく過程で、俳優を要請し、役割を発生させ、対話/反対話/非対話の関係性をステージ空間に復活させることで、結果的に演劇システムを延命することになるからだ。演じることから俳優たちを解放する演技など、現実に存在するのだろうか。そこでは言葉を逃れていく身体だけが、システムを裏切るべく採用されている形式主義の基底にあるなにかとして意味を帯びている。彼らの身体を、テクストの化身としてではなく、それとは別次元を動く身体の動き、あたかも演劇の外からやってきた「踊らないダンス」のようなものとしてとらえるとき、別の道から作品という出来事に接近することが可能になりはしないか。
©松見拓也
さらに公演には、コロスの役割を持たせられた14人編成の演奏方が、7人ずつ2組にわかれて登場する。観客席を見下ろす劇場左右のバルコニーの高さから生音を降らせるこのコロスは、公演の後半、俳優たちが静止するなか、観客の耳を一点に集中させるようにして、たどたどしく「君が代」のメロディーを奏でた。これは「戦争とスポーツ」「メディアと欲望」「パパとママ(家族の三角形)」など、複数のテーマを同時進行させるイェリネクの戯曲を、私たちの文脈に一瞬で接合するものだった。この「君が代」の演奏は、横浜で開催されたダンス・アーカイヴ・プロジェクト<DAP2016>での木野彩子のレクチャー・パフォーマンス「『ダンスハ體育ナリ』~体育教員としての大野一雄を通して」(016年2月)を思い出させた。「国民」「臣民」という抽象的な概念に身体を与える「體育」の問題。2公演を関連づけ、ダンスと体育の間の曖昧な領域に照明をあてることは、私たちの身体はどこまで奪われ、どこまで自分たちのものなのだろうかという、言葉にすることのむずかしい問いに私たちを向かわせる。「君が代」の演奏は、『スポーツ劇』に内包された問いが、私たちの身体のなりたちと深く関わることを示すものだった。(観劇日:3月16日)
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