辻征夫は、詩人として生きている壮年の内面など傷だらけに決まっているではないか、と書きました。そうだろうと思います。集団での共同作業を前提とする演劇は、世界とすれ違う詩人の孤独とは別種の孤独を導きだすかもしれませんが、少なくともぼくは傷だらけです。流れる血も足りないほどです。しかしなお演劇に臨みつづけているのは、それがもっとも直接的にことばを生みだす装置であるから、という思いによります。
ことばを生みだすとは何か。ある舞台のひとつの場面が成功しているとき、その場で飛び交うせりふ(語られるにせよ、語られないにせよ)は、世界にそのことばがあることへの新鮮な驚きを聞く者にもたらします。ありがとう、でも、さようなら、でも、殺してやる、でも、生活のなかでときには単なる符丁にまで堕したことばの手垢をぬぐい、新鮮な光を宿らせることが演劇の役割であると考えます。
ことばを持つからだが目の前に存在する、わたしたちは観劇においてそのことの奇跡性をくり返し確認する。ある特別な熱を帯びた孤独な呻きが他者と出会ってことばになる、演劇は上演の全過程を通して、その瞬間を再現するものです。わたしたちの声が、いつしか意味と熱と感情と時間を内包させたことばへと変貌したその瞬間に、舞台の時間はくり返し回帰する。演劇は、ことばがなぜこの世界に生まれたかの、不断に続く問い直しであると考えます。
なぜことばにこだわるかといえば「演劇は祈りである」というそれ自体すりきれた、言い古された文言を素朴に信じているから、としか言えません。祈りとは、“そうであるように”という、切なる思いをことばにすることです。虚空の彼方の、何か絶対的なものに働きかける、ある営み。わが身の無力さを痛切に感じたとき、人はしぜんと祈りの姿勢を取ります。舞台の上に、現実とは位相の異なるある約束事を成立させ、世界を共有し、一挙手一投足、語の一つずつに至るまで繊細に配慮し、複数人がもうひとつの現実を協働して立ちあげるという作業は、まさしく“そうであるように”という切なる思いを集団で言語化することにほかなりません。こうなったらもう、素朴に書きますが、ぼくは解決不能で悲惨で困難なこの人の世において、何事か、祈りたいのでした。愛したい。世界を祝福したい。ここで生きていたい。そのための戯曲。そのための舞台です。
820製作所
04年に旗揚げし、東京圏を活動の拠点として演劇の公演を重ねる。「本当はそこにあるおとぎ話。」をキャッチフレーズとして、生活と人、人と世界の関係のなかに潜みこむ詩を、わたしたちの背後に作動するものがたりを、作品化することを試みる。 劇団HP
次回公演
現代劇作家シリーズ7
別役実「正午の伝説」フェスティバル参加
2017年5月7日(日)&8日(月)@d-倉庫
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