©福井理文
相模原の「津久井やまゆり園」事件は表現者にも大きな衝撃を与えた。「19人もの人が殺されてしまったこと」に対して、やはり芸術は無力なのかと煩悶する者も少なくはなかったはずだ。
だからこそ、これまでも自らの作品に「凶悪事件」を度々取り上げ、自分の表現は何をなしうるのか問いつづけている劇作家の、まさに彼にしか作れないあるシーンについて書きたい。なぜならば、「19人もの人を殺させてしまったこと」にまで想いを馳せている彼の表現にこそ、わたしたちに残された可能性を見出せるのではないかと思っているからだ。
『昔々日本』は、文化庁の委託で東京演劇大学連盟が後援した「演劇系大学共同制作」の四年目の公演で、今年主管する桜美林大学の卒業生でもある範宙遊泳の山本卓卓(すぐる)が書き下ろした。俳優だけでなく、技術や制作も五つの大学から集まった50名以上の学生が中心になって作り上げ、今年9月に東京芸術劇場シアターイーストで上演された。
舞台奥側には横8m×高さ6mほどの大きなスクリーンが下りていて、その前には八百屋の陳列棚のように手前に向かって傾斜のある舞台がしつらえてある。スクリーンには東京芸術劇場の前の公園でたたずむ人々が映し出されている。そこには「4時からパフォーマンスがあります」とキャプションが付いている。
舞台には映像の中の人々が同じ衣装で出てきて、誰かを待っていたり、いつ撮られたのかよく判らない不思議な映像の中の自分を眺めたりしている。その中の一人、長身の青年が、唐突に「バス! まだ来ません、はい、カズくん、バス、はい、4時、10分です、はい」と大きな声を出す。どうやら彼は発達障害があるようだ。その後も、冷蔵庫のドアを開けっ放しだと真っ黒い目が入ってくるから閉めておかないといけない旨を、周りの人たちに訴えもする。その「カズくん」は女性のカバンのチャックが開いているのが気になって、強引に閉めようとして払いのけられ、転がる。そこから彼は胸の前に祈るように手を組み、鉛筆を転がすみたいに傾斜をコロコロと転げおちる。下まで行くと上まで登り、繰り返しコロコロと転げおちる。「ああいう人から世界ってどう見えるのかね」と冷たい視線を送る人々の中で、いかにもお調子者な青年が便乗して転がることで風景は一変する。人々は「これ絶対パフォーマンスでしょ、これ演劇はじまってるよ」とか「やらない方が恥ずかしいやつじゃん」と嬉々として次から次へと連鎖的に転がりはじめる。そして、それを観ているわたしも、「それいけ、もっと行け」と心の中で喝采していた。
©福井理文
現実の世の中ではまことに残念なことに、このわたしも含む多数派から異質と感覚されるものは矯正され、許容範囲に収まらなければ世間からは排除される。差異があるというだけで理不尽にも「異常」とされる人々の方を変らせるのではなくて、山本はものの見事に世界の価値観の方を拡げて見せてくれた。
ここに、わたしたちの可能性がある。
コロコロに客席も沸いたのだが、それは、自分の中にもある“異質性”を、普段は社会性とか何とかいって押し殺しているその部分を、許される気がしたからではないか。それは、差異がある者がその差異によって排除されることのない世界を実現させるために、いかにフィクションが有用であるかの証明だったともいえよう。
「4時からパフォーマンスがあります」という真偽の定かでないキャプションが、大抵は「奇行」と処理されるであろうコロコロを、フラッシュモブかなんかと勘違いさせ、結果的にあの場で「カズくん」は排除されなかった。
フィクションの力を用いて、なんとしてでもあらゆる人間を肯定しようとしている山本卓卓のそんな営みの先に明かりが、ほのかになんだけれども、たしかに見えている。それは、19人も殺させてしまった、いや、もっともっとたくさんの人たちを殺させつづけてしまっているこのわたしが赦してもらえるために、わたしたちが進むべき道を照らしてくれている。殺されてしまった人たちへの応答として、殺してしまった彼への応答として、そんなことが起こらなくてよい世の中を創るために、コロコロと転がって行こうよという呼びかけが響きわたる。
わたしの中では、今も彼や彼女は延々とコロコロ転がりつづけている。「芸術の無力」なんて嘆くヒマもねーよと言わんばかりに。
|