「我もまた父親殺しの共犯者――OM-2の『9/NINE』を観て」
三宅昭良(首都大学東京 表象文化論教室)
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©山口真由子
これまで都合が合わず、観ることのできなかったOM-2の舞台をはじめて観た。高い水準のパフォーマンスと、通俗的安楽と写実性とは正反対の、非文学的かつ非調和的で、あえていえばノイズ的な要素に満ちた音楽と映像とから成る卓越した舞台であった。その方向と水準は、大きくは寺山修司と安部公房の延長線上に位置づけられ、しかも彼らから切断している。前衛劇を装いながらじつは多くが新劇程度の写実でしかない日本の舞台のなかで、彼らはdumb type、維新派、Pappa TARAHUMARAなどと並ぶ真の前衛のトップ集団だと、今回の公演でそう感じた。
『9/NINE』の物語は単純である。セールスマンの父親を成人の子供たちが養老施設のような精神病棟に入れる。そこで繰りひろげられる現実とも幻想ともつかない9つのイヴェントを体験するうちに父親は絶望を深めて死に至る。その「お楽しみ恒例発表会」が様々なパーカッション、ヴォイス・パフォーマンス、タップダンスなどで構成されるという趣向である。ここで重要なのは、父親を追い詰める催しをわれわれ観客が楽しんでいるということである。これがリアリズム劇なら観客は写実的物語世界を外から眺め、そこに実社会の模写と告発を読みとるという仕儀となるのだろうが、『9/NINE』では我々は演目を楽しむことで否応なく共犯者に仕立てあげられてしまうのだ。
そうやって観客を巻き込むパフォーマンスは極めて水準が高い。高くなくては我々を共犯化できないのだから、これは必須要件である。しかし一方で、熟達と洗練はクリシェ化と紙一重でもある。定番化した演戯は下手をすれば、作品の結構と関わりのない出し物、作品の主題を口実としたバラエティ・ショーに堕してしまう。その点、今回の「お楽しみ恒例発表会」という枠組みは、むしろパフォーマンスを積極的に演目化して物語に取り込む役目をよく果たしている。個々の演者はこの枠組のなかでもてる力を存分に発揮していた。だが、それは(物語からの)演戯の解放となる一方で、定番化とクリシェの容認にもなってしまう。筆者ははじめて観たわけだが、OM-2の演戯はこの点、危うい綱渡りをこなしているのではないかと感じた。
解放された演戯は本来、即興に向かうはずである。演者は互いのパフォーマンスをメッセージとして受けとり、それに応えて演戯する。ここでも演戯の高い水準が要求される。そうでなければ滑稽なだけだ。『9/NINE』にはのびやかな即興的演戯が随所に見られたが、そののびやかさはクリシェ一歩手前の熟達と洗練に支えられていた。
また、解放された演戯はいきおい長くなる。そこを調節するのは演出の役割だ。演出の真壁氏は自己の内なる観客を基準に演目の長短を決めたはずだが、しかしそれは即興と矛盾する要素である。また実際の観客は千差万別で、個々の演戯を堪能するためだけに来た者もいれば、コンパクトな提示を求めるものもいたはずである。この種の舞台でもっとも難しいのはこの点にある。そして『9/NINE』についていえば、この千差万別の観客をして、いかにして自分が演目を楽しむことの意味に気づかしめるか、にある。この複雑な連立方程式の解を求めるには式がひとつ足りない。
そのひとつとは、おそらく観客に後ろめたさを感じさせる何かなのだろう。たとえていえば、舞台の奥から観客をじっと見つめる目のような。そういえば、第一部では背景の壁面に何者かがまたがっており、観客をじっと見下ろしていた。第二部ではそのようなものはいなかった、と思う。あれは、第二部にこそ必要だったのではないか。
それはともかく、確実なことが一つある。カーテンコールは邪魔である。真壁氏も著書に書いている通り、舞台は束の間の憂さ晴らしであってはならない。端的にいえば、観客の人生に影響を与えない舞台はいらないのである。であるならば、演者たちが「役」を降りた「素」の笑顔を見せるカーテンコールなど、観客から舞台を観たことの意味について反芻する機会を奪うだけであり、余計である。そして外に出ると、アンケートのお願いの声が聞こえた。これにも少なからず失望した。私は足早に立ち去った。少なくとも筆者はその場でスラスラと書けるような感想などもたなかった。もっと深く大切な衝撃を受け、今もその衝撃のなかにいる。
次回公演
■OM-2
『ハムレットマシーン』
日程:2018年3月上演予定
会場:日暮里SUNNY HALL
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