2014年10月,パリ郊外の劇場Studio Théâtre de VitryにてCompagnie CHAMP 719が『C’est seulement que je ne veux rien perdre―La Dispute』を上演した※1。マリヴォーの『いさかい』に基づいて構成された作品である。まずは劇団について,配布されたパンフレットをもとに駆け足で紹介しておきたい。2009年に演出のGrégoire Streckerによって設立されたこのカンパニーは,既存のテクストを使用しつつ,そこから発想された世界を身体,身振り,音声など,不定形でとらえどころのない言語に還元し舞台上に呼び起こす。彼らは「作品のために,常に新たに構想され,何度も耕される空間,時間,場となること」を目指し,「『何か』が現れるように時間と手段を提供する」。ここで期待される「何か」は,「偶然,直感,予め決められていないものにのみ由来」し,「前−演劇的なもの」であり,「未完成でありながら,消失点がもはや私たちには捉えられない一本の線のよう」でもあり,「人間の経験の結果としての,そして私たち/あなたたちを危険にさらした結果としての『何か』」である。彼らは「舞台の詩学」が生じるように,この見えない「何か」を追求していく※2。本上演では,マリヴォーの戯曲を反射板のように利用して,私たちが目にしつつも見ていない「何か」を提示すべく舞台が構成される。
通常の公演であれば,筆者が鑑賞した10日,私たちはこの「作品」を解釈することが不可能であった。俳優が怪我で降板し代役が立てられたのだが,女優が男優に代わっていたのである。この変更によって,観客が見た舞台は恐らくそれ以前と根本的に異なっていた。だがStreckerの意図を汲み取れば,この「偶然のアクシデント」ですら上演の中の出来事だと捉えて解釈できるのではないか。テクストの上演を目的とするのではなく,予測できない偶然からしか生じない「何か」が現れ出るように時/空間を構成するのが狙いなのだとしたら,配役の交代すらも「作品」のうちに含まれると理解して記述することが可能である。この上演スタンスは,観客の鑑賞態度,そして演劇における「作品」という概念に対する示唆に富んでおり,十分批評の対象となり得る。
マリヴォーの『いさかい』は,「男女どちらが先に不実を働くか」を巡って口論しているカップルが,世話係を除いて誰にも会うことなく育てられた男2人,女2人を出会わせ,恋愛,裏切りが生じる過程を観察する芝居である。本上演ではこの4人が,男3人女1人に変更された。中央に平らな空間が作られ,それを取り囲むように観客席が設置されている。スモークで視界が限られる中,女性の声でアナウンスが入る。「意味をわかろうとしなくてもOKよ。」「好きなように見てね。」このアナウンスからも,上演が観客に要請する態度が伝わってくる。ここで展開されるのは,戯曲の言葉の意味を超えて俳優の身体,身振り,叫びなど,マリヴォーのエクリチュールから乱反射される非言語的なパフォーマンスであり,言語のレベルで意味を理解されることを拒否している。
薄暗がりの中に叫び声が響いた後,白い防護服の男(世話係)と地を這うように蠢いている男の会話が始まる。男は二足歩行をせずに,身体を動物のように使って動く。言葉は流暢ではなく吐き捨てるように呟いている。この第一の男に,獣のように襲いかかるもう一人の生き物=女が登場する。彼女は敵に出くわした動物のように暴力的に男に向かっていく。実際,俳優は四つ足で俊敏に動いており(そのけんかのような激しさ,散乱していく小道具のために怪我が絶えないのであろう)まるで格闘技を見ているかのようである。お互いに衣服を毟り取り,やがて裸になって床の上でぶつかり合う。誰にも出会わずに育った2人の,初めての他者との出会い。防護服の男とは違う,同じ「人間の発見」の場面である。肖像と鏡を与えられ,他者,そして「自分」を認識した彼らは,この場面で初めて印象的に2本足で立ち上がる。相手が自分と同類であり,また「異性」という他者であることを,身体の衝突・接触そして視覚を通して認識していく。
この上演が複雑なのは,はっきりと全員の役名は登場しないものの,原作の戯曲の女性の役を男優が演じ,男性は女優が演じている点である。この性の倒錯に加えて,同じように粗野な同性同士の初めての出会いの描写,さらに先述の配役の交代も相まって,男女間の恋愛ではなく他者によって自己を認識していく一個の人間という個体,そしてその人間の他者に対する多様な欲望の目覚めを目撃しているといったほうが正しい。男性同士の性行為のような場面もあれば,女性一人を男性二人が取り合う場面もあったが,異性を演じるトリックと代役という偶然性によって決定的な読みは拒否される。
途中「わからなかったら私たちのサイエンティスト(=防護服の男)に聞いてね」というアナウンスが響いてくるが,確かに眼前にあるイノセントな俳優の身体,獣のような行動の鮮烈な印象は即座には言葉に還元し得ない。それは私たちが持っていながら認識していない「何か」である。マリヴォーの戯曲に切り込むことで,この「何か」が現れ,観客に解釈する/しない自由を与えつつ,古典的な鑑賞態度の放棄を迫る。劇中で4人が手にした「出ていく自由」と「知る自由」は観客にも与えられていたのである。
※1 初演は2013年ストラスブール。本公演はVitryでの滞在制作を経てそれを発展させたもの。タイトルは戯曲中の台詞からの引用で,『新マリヴォー戯曲集』所収の井村順一訳(大修館書店,1989年)では「あたしはただ,なんにも失いたくないのよ」と訳されている。
2 括弧内は配布されたプログラムより引用。ただし筆者による抄訳。
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