私は自分自身の演劇活動がさほど前衛的であるとは思っていない。「既成の芸術概念や形式を否定し,革新的な表現をめざす」のが前衛芸術であると言うのだが,この定義に則れば,前衛であり続けるためにはその表現の有り様は常に更新されなければならない。しかし例えばここ数年私はサミュエル・ベケットの戯曲を上演しているが,その度に自分の営みが周回遅れであると感じずにはいられない。そこにおいて革新的なのはベケットの言葉であり,演劇形式に対する疑いの思考であって,歯を食いしばりながらそれらを消化している時点で既にその舞台は前衛では有り得ない。そもそも私は寺山修司の影響の元に演劇活動を開始し,その方法論に基づいたオリジナル作品を創る集団として自分たちの劇団を旗揚げしたのだが,20年経った今もまだ手のひらの上で踊っているに過ぎないとつくづく思う。寺山ほど自身の上演スタイルを次々と変え続けた,正に前衛と呼ぶにふさわしい演劇人は他にいないと思われるが,その膨大な文脈の中からパーツを1つずつ取り出しては検証する作業の終わる兆しが一向に見えて来ない。ベケットや寺山といえども死後数十年経てば「既成の芸術概念や形式」に数えられるべきであり,拮抗する対象として彼らを捉えることが前衛たる最低限の態度であるはずだが,未だにその枠の中であがき続ける凡庸さである。
ところで「前衛芸術」のもう一つの文脈として,「社会の最先端に立って,その革新をリードする」という側面があると思う。ロシアアバンギャルドが正にその典型であったように。その点で最近の演劇は何だか社会と仲が良いなあと感じる。今どき革命をことさら声高に叫べとは言わないが,かといって保革の区別が無くなり対立点を見失った政治状況に芸術がつきあう必要もないのではないかと思うのである。対立点はいくらでもある。というか日常的な表層に揺さぶりをかけることにこそ芸術の本質があるはずだ。そもそも新劇・アングラを問わず,この国の現代演劇は「近代」を前提として成り立っている。しかしこの国の近代は自らの根っこを刈り取ることにより成立したので,その土壌の上に立つ芸術は命的に根無し草となる。劇団の旗揚げ以来抱えてきたこの課題を解決すべく,私は昨年から修験道の体験修行を始めた。今の日本に必要なのはむしろこのような「後衛」だと思われてならない。思想ではなく身体の極限から立ち位置を再発見し,その様式から自らの表現を新たに構築する試みである。20年どころか,100年かかって失ったものを再現しようというのだから,その作業にはもう100年かかるだろう。どころか,自分が生きている内に全ての修験道場を巡ることすら出来ないだろう。しかしこの歩みは少なくとも,「近代の芸術概念」を否定するためには欠くことができないと考えている。
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双身機関 SOUSHINKIKAN
1995年3月結成。2005年には商店街での市街劇『箱男と箱女』(原作:安部公房)を上演,2006年にはパフォーマンス作品 『ファシズム!』をもって韓国ソウルのギャラリー, 名古屋陶磁器センター,東京都美術館,三重県伊勢市のカフェを巡演,その後も野外広場,神社での上演を重ね,常に既成の劇場ではない新たな空間との出会いを求め続けている。
次回公演
・現代劇作家シリーズ5
J-P・サルトル「出口なし」フェスティバル参加
2015年5月10日(日)&11日(月)@d-倉庫
★以下,日時・会場未定
・第16回公演『授業/出口なし』
・寂光舞踏公演『月読ノ宮・2015年午前零時』
・第17回公演『SHIRA(仮)』※創立20周年記念公演
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