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論考・OM-2
 

人一人の「脱構築」から「社会と演劇」の
創造的変容を夢見る「OM-2」の作劇法


    原田広美 Hiromi Harada

舞踊・舞台批評を「朝日新聞」「東京新聞」他,専門紙・誌に執筆多数。05~09年,国際交流基金の助成などで,欧州で舞踏と日本のコンテンポラリー・ダンスについてのレクチャ-を行い,英・仏・墺の国際ダンス・フェスティバルを取材。著書に,ポストモダン・ダンスの母アンナ・ハルプリンに影響したゲシュタルト療法の『やさしさの夢療法』日本教文社,『舞踏大全~暗黒と光の王国』現代書館,また『欧州コンテンポラリ-・ダンスへの旅~身体イメ-ジと意識の変容』現代書館を来春に出版予定。


  2001年春に上演された「OM-2」とシカゴの俳優達とのコラボレ-ション作品『K氏の痙攣2』。役者達の痙攣と,最後にテロップで流れた幾多の心理・精神療法名。

  そのコンセプトは,ベルギ-の「アラン・プラテル舞踊団~les ballets C de la B」の2007年の来日公演で,約百年前にフゲッテン博士が精神病患者に見せた「難病患者の映像」を創作と上演で用いた『聖母マリアの祈り vsprs』や,2012年の同舞踊団の来日公演『OUT OF CONTEXT(文脈から逃れて)-FOR PINA(ピナに捧げる)』に現れた〈ヒステリカル・スタイル〉とも言われる「人間の核(身体と精神のコア)」からの震えや痙攣に重なる。

  本来,ヒステリ-とは,感情の爆発ではなく,「人間の核」と社会との摩擦によって引き起こされる「身体症状」を指す。「人間の核」をリビド-(性的衝動・生命力の根源)とすると,社会という巨視・微視的な周囲の秩序からの要求が,「人間の核」を内包する「身体(=精神を含む)」に知らぬまに抑圧して内在化し,筋肉の鎧や殻を作る。

  ところで,プラテルの言う〈文脈〉は「一般的な舞踊身体」で,そこから逃れるのは,「OM-2」の「一般的な演技術」の拒否と重なる。プラテルや「タンツ・テアタ-」以降のバウシュは「従来の舞踊身体」を拒否し,「OM-2」は真壁によれば「従来の演技術」を拒否する。すると,残るのは「身体の現前(ありのままの身体)」である。

  だが,この「身体の現前」の捉え方は容易ではない。一人一人が皆異なるために,単に演技や舞踊以前の「身体の零度」には収まらない。「社会」の「身体的な内在化」もあるが,「社会」が「人間の集積」で成立する限り,さらなる詳細な「人間についての探究」が必要なのだ。



  身長・体重・プロポ-ション等の他,〈気質〉と関連する体型・体つきなどがある。「ロシア・アヴァンギャルド」に端を発し,当時の最前衛のアブストラクトなモダン・バレエを打ち立てた振付家のバランシンも,『四つの気質』という作品を古代ギリシャのヒポクラテスの分類を参考に創作した。これはバレエなので「舞踊身体」は零度ではないが,「身体の現前」をテーマに取り入れた。舞踊では類似の事象はコンテンポラリ-の時代には希有でなく,フォ-サイスの解体的な身体と野性が同居するバレエも知られる。

  またフロイトから袂を分かったライヒは,ユダヤ系のためもあって米国に逃れ,「オルゴン(=生体)エネルギ-」を提唱して晩年は「オルゴン・ボックス」の袋小路に填ったが,元々は『性格分析』の著者で「筋肉の鎧説」を唱え,「〈防衛〉としての性格」が一人一人の「筋肉の鎧」を生み出すと考えた。

  「筋肉の鎧」の緩和と解放を目指す「バイオエネジェティックス」(療法名)の生みの親のアレキサンダ-・ロ-ウェンは,渡米後のライヒの弟子である。「〈防衛〉としての性格」と言うが,つまりは過去の体験や記憶が絡む「怖れ」が作り出す思い込みの一種である大小の「トラウマ(=心的外傷)」や「コンプレックス(=否定的な思い込み)」に触れずにすむように,人々は「感情を抑圧」し,「〈防衛〉としての思考・行動様式」を発展させる。

  その結果として,「体型・体つき・身構え」とそれを支える「しこり・硬直」を作り出す。内面的には,「気づかないふり・逃避・フタをする」「遮断・攻撃・先回りする」「支配的・権威的・閉鎖的になる」「隠れる,引きこもる」「弱者のフリをする,無力だと思い込む」「大勢に同意する」「感情を圧し殺す,虚勢を張る」「関係を否定,(共)依存,差別する」「他人や時代や社会のせいにする」「罪悪感に打ちひしがれる,罪悪感を引き離す」など,「防衛」の仕方は一人一人が無限に複雑な個性を発展させ,その内面の癖に導かれるので,「しこり・硬直」の種類や大きさ,位置や在り方も,皆異なる。

  また,このような「〈防衛〉システム」は,生活や人生に不必要ではないが,知らぬまに癖のある「身体性(=思考法や精神性を含む)」の一つに自閉すれば,不自由になり,「感受性」と「創造性」が閉ざされる。

  「野口体操」(野口三千三が創始)をすれば,「筋肉の鎧」や「防衛」によるであろう余分な力が,いかに関節や筋肉に滞って恒常化し,脱力が容易でないのかを思い知る。前述の「バイオエネジェティックス」ではそれらを緩和・解放するために,たとえばあらかじめわざと力を入れて体をヨジり,歪曲させ,時にバスタオルをネジり,床やベッドを殴打し,枕やバスタオルに顔を埋めて「叫び」,抑圧されていた「感情」を浮上させて解放する。

  大抵は怒りの下に悲しみがある。逆に悲しみにばかり溺れる人は,怒りに内包されるエネルギ-を創造性に転換させる必要がある。

  ここまで書いたのは,「OM-2」の佐々木敦の息詰まるように集中した身体の深層に潜む「今ここで」のリアリティに基づく「即興」を混えた「行為」が,それに重複するためだ。それは演技術の「零度」を超えて,さらに「身体の現前の水面下」が表出された表現と言うべきである。

  2002年春の『いつか死んでゆくであろうすべてのものたちへ』(麻布die pratze)で,佐々木を初めて意識したが,過食のように食べ散らかし,冷蔵庫を投げ倒し,雑誌や新聞紙を破り捨て,椅子や机を床に叩き付けた。各々の「行為」には内面に潜んでいた「怒り」が籠められ,あらかじめ身体を「硬直・歪曲」させ,自然と感情を放出しやすい独自の呼吸法に導かれて叫びだす。

  要するに「感情の抑圧」と「防衛システム」を含む思考法と「身体の癖」が交わる地点が,「人間の核(=身体のコア)」であろう。「人間の核」と書いたのは,むろん「OM-2」の演出家・真壁茂夫の演劇論集『「核」からの視点』を思い出してのことだ。

  「ロルフィング(=ストラクチャル・インテグレーション)」(米国の生化学博士アイダ・ロルフが創始)というボディ-・ワ-クでは,筋膜に働きかけて筋肉の凝りを緩和・溶解させるが,「体の癖をほぐしても感情の抑圧や思考法が元のままであれば,体は戻ろうとする」とも施術者は言う。逆に,自由連想を重視する「精神分析」が大して奏を効しないのは,「感情の解放」やボディ-の問題を除外するためである。

  1960~70年代には「肉体と精神」と言われたものが,その後「身体」と言う語に集約された。私は「身体」よりも時に「心身」と書くが,それは本文で説明して来たように「深層心理と身体」の関係性が濃厚なためで,「身体」という語だけで「精神・心・感情」の部分までが伝わるのかを憂慮するからだ。

  「原初の叫び療法(=プライマル・スクリーム・セラピー)」は,ジョン・レノンが夫人のオノ・ヨーコの勧めでこれを体験後,名曲『マザ-』が出来たことで広く知られた。米国の心理学者ア-サ-・ヤノフが創始者で,「長く抑圧された幼い頃の心の痛みに繰り返し遡り,表現することの必要性」を解く。

  「OM-2」の2014年2月の『作品No.8』(日暮里サニ-ホ-ル)では,仏の胎内巡りさながら,ホ-ル内の周縁通路を観客の私達も作品上演の一部として歩かされた体験と共に,佐々木の「お母さん!」で始まる,深層からの叫びのような台詞が心を打った。
  
  私自身,20代の10年間,さまざまな心身のワ-クや身体表現を梯子し,30代の数年をセラピストとして過ごした。家族や社会や友人や多々ある中でも,母からの影響は,人生を歩むにつれ解放・解消しつつも,何度も立ち現れる壁のようであり,方や人生を創るための源泉的な存在でもある。

  佐々木の叫びは,「お母さん,僕は・・(既にお母さんの影響下にあるなどと言えず,自分の人生はとうに自分の責任なのだけど,だけどもお母さん・・!)」。結局,人は幼年期に体験した「闇」からの離反を意志し,いかに大きな旅をしようと,なお起点に立ち戻り,最終的にはそこに生まれた者として花を咲かせるしかないのか,と私は最近考える。

  大人になった自らが身を置き,直面する困難な状況は,幼年期の体験との関連が強い。だから幼年期の見直しは有効だが,かと言って人生の旅や冒険を拒めば,やはり「筋肉の鎧」に捕われる。

  「原初療法」は,先の「原初の叫び療法」と混同されがちだ。こちらは,ヒットラ-という人格が,血統的問題も含むコンプレックスからいかに生成され,加えて戦前のドイツに多かった「闇教育(=体罰を伴う厳格な躾)」が,いかにナチスへの追従者を作り,その躍進を食い止め得ない人々の育成に影響したか,などを考察したスイスの元精神分析家で心理学者のアリス・ミラ-が,一時は支持した。心理療法家で博士のコンラ-ト・シュテットバッハ-が,考案した療法である。

  これは日本の「内観法」にも似て,外界との接触や嗜好品・気晴らしを断ち,一週間ほど自らとのみ向き合う。だが,後にミラ-は支持を取り下げた。端的に言えば,「原初療法」の理論は良くとも,これは一人で行い,他人が関与(フィ-ド・バッグ)しないので,自らの思い込みの殻を破って自らを「脱構築」(ブレイク・スル-)するのは困難だったからだ。

  これは舞台を鑑賞し,感想を言い合う価値にも重なるだろう。同時に,佐々木ほか「OM-2」のメンバ-が,「身体の現前」を観客に曝すのも同様な意味があるはずだ。

  また佐々木の演技における「身体の晒し方」に,「表現主義」に抵触する独自性が際立つために,「OM-2」は佐々木だけだ,という批評があるが,これは「早稲田小劇場」は白石加代子だけだった,という粗雑な誤解と酷似している。演出家もそうだが,一つのグル-プに共存できるのは,一人一人がその特異性を許容でき,類似の資質を共有できるためである。

  また本文で触れる数々の療法は,治療目的に限らず,米国の1960年代以降の「ヒュ-マン・ポテンシャル・ム-ヴメント(=人間の可能性開発運動)」の中で,自己を高めて開く関心と共に,広く知られた。その内容は,修業的な創造と捉えればいいだろう。

  そして1990年代の終わりに集団創作を終え,それを演じる本人の「身体の現前」から発するものをリハ-サルで見出す方向へと移行した「OM-2」の作劇法は,1977年に「タンツ・テアタ-」を開始以降のバウシュの方法に重なる。師のヨ-スから誠実さを受け継いだというバウシュは,ある時,ダンスの動きよりも踊る以前の「身体の現前」に関心が移行した。

  そして「どう動くのかではなく,何が動かすのか」「何かもっと,深いものが出てこないかと思うの」などと言いながら,リハ-サルでダンサ-達が表現する場面を選りすぐり,コラ-ジュして作品化する方法を見出した。

  バウシュは,そもそも「身体の現前」から出発した「ドイツ表現主義舞踊(前衛的なモダン・ダンス=ノイエ・タンツ)」の系統だった。ノイエ・タンツの創始者のラ-バンは,弟子のウィグマンらと,第一次大戦中はスイス山中の芸術家村(アスコーナのモンテヴェリタ)で裸体舞踊を試み,「ダダイズム」とも交流。ウィグマンは,「表現主義」の画家達(ブリュッケや青騎士派)にダンスに導かれ,精神病患者に絵画を描かせた最先端の精神科医と付き合っていた時期もある。やはり「表現主義」的とされるムンクの『叫び』は象徴的だが,「表現主義」は「人間の核」からの叫びであろう。

  そしてこのような表現は,「バイオエネジェティックス」や「原初の叫び療法」のように,独自の呼吸を伴う「即興」と共に,心身の鎧を外して叫び,硬直の内面に直面し,玉葱の皮を剥くように深みへ向かう変容を伴う。私はこれまでも時に,「OM-2」の舞台を見に行くのが少なからず怖かった。そんなにいつも停滞せずに,作劇が歩めるものかと不安なのである。



  2010年2月『作品No.7』(日暮里サニ-ホ-ル),後から全くの斬新な叩き方で韓国の民族的リズムを刻んだと聞いたが,演者達はバチを両手にドラムやシンバルを並べて叩いた。身体エネルギ-の発露は凄まじいが,「OM-2」がフォ-クロアに投身するのかと苦言を呈した。本作は,年末に改定再演『資本主義崩壊へのレクイエム』とし,韓国の劇団チャンパの『青い棺に浸る赤い宿屋』と別日に「町屋ム-ブホ-ル」で上演。

  この時は,足場のように鋼を組み上げた2階建ての客席でフロアを囲んだ設営も見事だったが,ドラムやシンバルを叩いた後,舞台上に組み上げたセットの上に,何と家族が囲む食卓が出現した。私は,これで納得した。「人間の核」に巣食う「闇」に,家族の影は色濃いものだ。この新たな層の「核」に出会うために,2作続けて内部への鎧戸を打破しようとドラムを叩き続けたように感じたのだ。このような分析を「OM-2」は好まないかもしれないが,理解も親和の一つである。

  また私達の日常は資本主義の中にあるが,その崩壊を私は夢見ない。一時は逆側のユ-トピアに見えた社旗主義は,腐敗した。私達には民主主義もあり,容易には機能しないが,資本主義も民主主義も,その最終単位は個である。個の集積の力によりベルリンの壁のような世界的なシステムの要でさえも崩壊するし,システムの運用のあり方も,個の思考や感性で変わる。必要なのは,「解放に向かう脱構築性」なのではないか。

  「人間の核」に迫れば,「欲望」が出現するとの誤解もある。だが「鎧(コンプレックスによる防衛)を着けた姿の人間」こそが,〈個の人生と社会を育む芽のようなエネルギ-〉を抑圧する「欲望の機械」を動かす兵士である。私が夢見るのは,硬直しがちな人々の鎧の溶解である。鎧の軽減や,自在な着脱である。個人の内面と社会の抑圧を解くことである。

  『資本主義崩壊へのレクイエム』は,いわゆる資本主義に巣食う抑圧と弱肉強食的な性質の終焉への熱い願いを込めたタイトルであっただろう。

  ところで初期の「OM-2」の初期の舞台に見られたと言う「役者達が淡々と階段を昇降する」や「檻の中から役者達が観客達を見詰める劇」から,いかに現在に至ったか。本紙2号の対談にあるが,1995年の『Nocturanal Architecture』の視線のシ-ン(=30~40分,観客が演者を見詰める)で,異変が起きた。今や「OM-2」に不可欠な俳優に見える佐々木敦が,以前は黒衣やスタッフだったにも関わらず,そこに全く自発的に関与した。そして,集団創作から個の「核」が露出されるような劇へと変化した。

  これは,「ポストモダン・ダンス」の母アンナ・ハルプリンが,1960年代に「行為のみの即興」による公演を始め,後に出演者達の感情が爆発したのと似ている。ハルプリンは,偶然に出会いを得たゲシュタルト療法の創始者フリッツ・パールズ(欧州時代はライヒに学ぶも,ユダヤ人のため渡米)のワークをダンサー達と2年間受ける中で,この謎を解明して行った。

  ハルプリンは,公民権運動が醒めやらぬ1969年に,白人と黒人のワ-クショップ(「アメリカ合衆国の人々の大きな融和」),1980年代半ば以降は,HIV感染者と健常者のワ-クショップ(「サ-クル・オブ・ジ・ア-ス」)を開いたことでも知られる。長期のワ-クショップで「人間の核」を開き,癒しと相互の融和を図る。演技をせずに「人間の核」を曝すことは,このように大きな融和を創り出す可能性を持つ。

  2012年春の真壁とチャンパとの『一方向』(d-倉庫)で,玉音放送が流れた韓国人の若い女優と老俳優による最終場面。これに心を打たれたのも,同様の理由によるのではないだろうか。


次回公演
OM-2 新作公演『作品№9』
2015年3月20日(金)19:30&21日(土)15:30
@日暮里サニーホール
http://om-2.com

【チケットプレゼント】
OM-2新作公演「作品№9」に抽選で5組10名様をご招待! 氏名・電話番号・メールアドレス・希望日時を明記の上,下記アドレスよりご応募下さい。当選者のみに当選メールをお送りします。
[チケットプレゼント応募先] artissue2@gmail.com
[締切] 2015年3月1日(日)



[artissue FREEPAPER]

artissue No.004
Published:2015/01
2015年1月発行 第4号
 
論考・OM-2 原田広美
     『人一人の「脱構築」から「社会と演劇」の創造的変容を夢見る 「OM-2」の作劇法』    

Another point of view ~芸術を取り巻く環境~
     日本版「アーツカウンシル」のそもそも論

       interview with 石綿祐子 アーツカウンシル東京・プログラムディレクター


 
「ライバル誕生,川村美紀子とスズキ拓朗」 志賀信夫
「想像力に直接働きかける政治性」 芦沢みどり
あらかじめ解釈を放棄する自由を観客は与えられている 宮川麻里子

 
「むしろ後衛であること」 寂光根隅的父/双身機関 主宰
「切創だらけ,酔ひ酔ひと」 恒十絲/IDIOT SAVANT 主宰