①作品を作ることの数を重ねていくにつれて自分が生きやすくなっていく手応えはあります。
わたしは世の中にあるもの、国境を超えても、人間でなくても、アリの巣からブラックホールの穴まで通ずるような図式、公式のようなものを求めていると思います。それは単純なもので、どこからみた拡大、縮小も自由自在なものです。☆という公式があったら☆の中にもその公式は存在していて、もちろん、☆の外にもその公式があるということ。当たり前だけれど、どこから見てもそれは含まれているし、含んでいる。そういったものを作品を作る過程で探しているのだと感じます。探しているというよりはおそらく、自分の中に既に在るそのものが何枚もの皮に包まれているから、それをはがしている、いらないものを削ぎ落としているという感覚があります。同時に図式や公式の役割を果たす作品を作りたいと思っています。
具体的なそれを探しつつ、その役割を果たす作品を作るという2つの行為は似ているようで違うけれど、両方をすることで自身が助けられています。言い換えられるとか、当てはめられるってわたしはとても好きです。当てはめられると、物事との距離がぐっとひらけて、受け入れることがまず出来る。その後に色んなことが諦められるようになり、その瞬間、簡単に自由になれるし、前より確実にタフになっている。
②韓国では「カラスが飛び立ち、梨が落ちる。」ということわざがあります。カラスが飛び去るから梨が落ちるのか。それとも梨が落ちるせいでカラスが飛び去るのか。このことわざは2つのことがらの間に必ずしも因果関係があるわけではないことを表しているそうです。人間は意味合いの無い情報から意味を見いだそうとする傾向がある。経済や政治、哲学の上では、関係性の捉え方を間違えることは危険なことですが、舞踊作品においてこの傾向は多いに生かされている?都合の良い?ものです。それが無ければわたしも含め、特にいわゆるコンテンポラリーダンスと言われるものを作ろうとする人が救われないなぁ!なんてそう思います。少なくともわたしはかなりそこに(良くも悪くも)頼っているし、それを望んでいます。
しかしながら、作り手はいかに意味を見いださないように提示するかが重要なような気がしていて、それが99パーセント因果関係のあるようなことがらでさえ、そこに意味を見いだしてはいけないと思います。答えは作り手がだすものではなく、観る人がだすもの。少なくともわたしたちは、それぞれがそれぞれの答えに辿り着けるような、導きの質問(yes.no.では答えられない問いの方が良いと思います)を舞台で提示するだけ。これと近い考え方だと思います。そしてそれは“世の中のものごとをなるべく真ん中によせていくこと”に繋がってきくると思います。世界で一番大切なことを大切ではない方向に近づける意味って、結局はそれが一番大切なことだとお知らせすることでもあったりします。
③踊るダンスと作るダンスには大きな差があるように感じます。群舞ばかりわたしが作っているからだと思うのだけれど、今のわたしには別物に近いです。今回は作るダンスよりに、書かせてもらいました。次回、ぜひ踊るダンスについて書くチャンスを下さい、お願いします(5年後くらい・・・)。
自分はそこがまだ平行線のままで、自分の動き、身体を把握できていないところがあります。目指すところは漸近線のようにどんどん距離を縮めていき、それでも交えない部分のことを自身が感じられるようになることです。20歳になって自分の身体と向き合い始めて、今やっとどこに何があるかがうっすらと分かり始めたばかりです。身体と外の関わり方や距離感を意識しても良いのかと思えて来たばかりです。周りにはそれを自然にできている人がたくさんいます。うらやましいです。
④あなたにとってダンスとは?答えになる文章を書けていなかったらごめんなさい。ダンスにとってわたしとは?ダンスに聞いといて下さい。自分よりダンスの方がわたしのことをよく知っています。
大塚郁実
93年生まれ。日本大学芸術学部演劇学科洋舞コースを卒業。幼少期から柴田恵美に師事。在学中から現在にかけて柴田恵美、酒井亜矢、小笠原大輔などの作品参加。平行して作品『lonely』『春に』『フィニッシュ』などを発表。「ダンスがみたい!新人シリーズ15」にて『It isn't a story about war.』がオーディエンス賞を受賞。
次回公演
Dance Drama Company 『A un~あ.うん』 vol.1『わたしたちこれでカンパニーになっちゃいました!』
2017年10月13日(金)~15日(日)@池袋シアターグリーンBox in Box THEATER
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