論考 コンプレックスの力 ~佐々木敦と川村美紀子という”異端”~
志賀信夫
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批評家。舞踊学会、舞踊批評家協会所属。テルプシコール舞踏新人シリーズ講評者。『Danceart』『Dancework』『TH叢書』『別冊TH ExtrArt』『Invitation』サイト「DanceSquare」などに執筆。著書『舞踏家は語る』、共著等『凛として、花として--舞踊の前衛、邦千谷の世界』『踊るひとに聞く』『吉本隆明論集』。批評誌『Corpus』主宰。 |
佐々木敦という怪優
劇団OM-2の役者佐々木敦、その存在が爆発したのが、2003年『作品No.2 ハムレットマシーン?』である。佐々木敦が個人として内包しているコンプレックス、トラウマが舞台に広がり、2007年の再演時にも大いに話題になった。また、2005年の『作品No.3』では佐々木はゴミ箱から自分を映し、2006年『作品No.4 リビング』では、佐々木の生活と内面に徹底的に迫り、そのトラウマ自体を表現しきった。人は何を抱え、苦しみ、どう生きるのか、それをはっきりと感じさせた。コンプレックスの塊ともいえる心情吐露そのものを含めて作品にすることで、現代という病を描けると、OM-2の代表真壁茂夫は考えたのではないか。
佐々木敦©田中英世
佐々木敦は不思議な役者である。百キロを超える巨漢でありながら鍛えた体ではない。引きこもりをイメージさせる雰囲気で、実際、劇団OM-2に参加するまでは、自信がない鬱々とした生活を送ってきたらしい。だが友人の薦めでスタッフの手伝いをしたところ、はまった。それが、1999年、『Nocturnal Architecture』の「視線」のシーンだ。物語に関係なく突然、舞台上の役者が観客を約30分見つめ続けるというものだった。佐々木は次のように語っている。
「その世界に入っていきたいと思った。(中略)見つめるという行為なんかじゃなくって、そういう人の状態そのものが凄いと思った」、「役者がそれまで与えられてきた役割なり言葉なりを(中略)脱いでいく、(中略)その役割を脱ぎ捨てた演者が『一人の人間』として立ち始めるシーン」、「演じるとか与えられた役柄そのものをやめていくことをしなければ、このシーンは始まらない」
そして、これを「僕がやればいいんだ」という強いモティベーションでOM-2の舞台に参加して18年、「異物」ともいえる存在感とともに中心俳優、パフォーマーとなっている。
前述のように、何といっても強烈だったのが、『ハムレットマシーン?』だ。ハイナー・ミュラーの原作で知られるこの作品で、佐々木は空気を入れた巨大な透明なビニールの部屋に入り、マスターベーションとして消火器を噴霧して暴れ回る。
そして、『リビング』の2作、さらにその後の作品でも佐々木の孤独な生活とコンプレックスが描き出された。実は真壁はそれぞれの場面を役者自身につくらせる。役者の特技、趣味嗜好、考え、生活などがそこに現れる。これはピナ・バウシュの創作法に似ている。ピナはすべてのダンサー、出演者に「子どものころの思い出」、「嫌だったこと」などのテーマを与えて自由に演じさせて、それを元に舞台をつくる。そこには出演者とピナの思いやコンプレックスが現れる。だが真壁はもっとストレートにそれぞれの場面を役者自身につくらせる。そのため、強烈なコンプレックスを抱える佐々木自身の吐露の強さが舞台を圧倒することが多かった。佐々木はこうも語る。
「僕がパフォーマンスの中で体験することは、行為でも身体でも全部OM-2以前の僕の部屋であったことなんだ。(中略)散乱するゴミ、吐しゃ物、ダッチワイフ、消火器、真っ暗に目貼りしたことなど全部、自分の部屋の中の出来事」、「部屋はそれでも何かしら外とつながっているっていうこと。僕の身体が引き起こす部屋はやっぱり社会を反映している」
作品『リビング』はその意味で、生活、生きることであり、部屋であり、「社会」でもある。そのなかで、佐々木敦がコンプレックスを吐き出すことが、まさに「現在」を表現することにつながった。
打楽器と身体
OM-2では2008年の『Performance No.2』から机を叩くパフォーマンスを始め、2010年『作品No.7』から、打楽器を舞台に取り入れ始めた。ミュージカル『ブラスト!』などに影響されたとも思えたが、役者が打楽器を演奏しつつ演じる。だが、それは音楽の演奏技術の完璧さを求めるものではない。佐々木のみならず、打楽器による強い身体性が表出し、出演者のはみ出すエネルギーがあれば、舞台が成立すると真壁は考えたのでないか。
打楽器には佐々木も作品を経るごとに馴染んだが、それでも佐々木敦という体そのものがそこに現前する、存在するという強さを感じ取れる。人間の身体は体だけではない。当然精神がある。人間が立つときには、精神と体の両方がある。つまり佐々木の立つ身体には彼のコンプレックスや悩み、苦しみ、過去などが内包され、それとともに立っている。以前のようにはトラウマが激しく出ない打楽器中心の舞台でも、佐々木の語りや動きの端々に他の人とは違うものが見いだせる。知らない人には「あの人ちょっと変」、「少し違うよね」だが、それはだれでも感じ取れる。
もちろん楽器演奏は、『ブラスト!』やク・ナウカの役者の演奏する音楽のレベルと、どうしても比べてしまうが、2016年に再演された『9/Nine』は、構築された老人ホームなどのテーマやモチーフの強さで完成度が非常に高い作品になっている。そして「異端」、「異物」である佐々木敦も中心的な役割を果たしている。しかしそれでも、ビニールの中で消火器をまき散らし、暴れ、怨念の言葉を生まに発する佐々木の姿にかつて心をわしづかみにされた者としては、あの佐々木の姿を再び見たいとも思ってしまうのだ。
川村美紀子という舞姫
コンテンポラリーダンスの川村美紀子に注目したのは、2011年の横浜ダンスコレクションである。新人部門に出た彼女は、コンテンポラリーダンスにストリート感覚を入れた激しいダンスと大胆な発想で圧倒した。ところが、受賞後に話しかけると内気かつ挙動不審なキャラクターに驚いた。その後、2014年『インナーマミー』でトヨタコレオグラフィーアワード「次代を担う振付家賞」と「オーディエンス賞」、2015年、横浜ダンスコレクション EX 2015「審査員賞」と「若手振付家のための在日フランス大使館賞」をダブル受賞し、一気に有名になった。
川村美紀子は自由に見える。踊りたいから踊る、踊りたくてたまらない。踊り出したらとまらない。そういう意味では天性のダンサー、舞姫気質を持っていることは間違いない。だが、本当に自由なのか。自由に見える人は、自分で不自由を克服している。どう踊るか、何を踊るか、常に悩んでいるはずだ。
それが顕著に現れたのが、シアタートラムで2015年10月に上演された『まぼろしの夜明け』である。川村を含む6人のダンサーはほとんど踊らない。中央に据えられた台の上に横たわっている。ノンダンスですらない。その前の作品は、ダンサーたちをかっちり振り付けて、川村イズムのダンスを徹底的に踊らせたのだが……。
また、2016年10月に名古屋で上演された川村のソロ『無題』では、「パフォーミングアーツ? なんだそりゃ。見るもん見るもん、嘘くせぇサル芝居ばっかりで、こっちは飽き飽きしてんのよ」、「責任ばっか押しつけんなよ」、「ダンスやっているっていうと、ちょっと踊ってみてよっていわれる。ちょっと踊ってみて、って何だよ」、「これが最後のダンスだっていつも思ってる」、「アート終わってんな」などと叫んでいる。ダンスに対する思いが人一倍大きいあまり悩み、鬱屈していく。いや、精神というものは、まっすぐであるはずがない。だれしも何かを決定し行動するには、悩み、紆余曲折を繰り返していくものだ。
川村美紀子©bozzo
舞姫の宿命
音楽が鳴ればすぐにどこでも踊る、オートマタ(自動人形)のように拍手をもらえば踊り続け、「拍手乞食」と土方巽にいわれた舞踏家大野一雄も、土方巽が1968年、『肉体の叛乱』というソロを踊って以降、踊れなくなったという。それに対して約十年後、大野一雄が『ラ・アルヘンチーナ頌』を土方の演出で上演してから、土方巽は踊れなくなったともいわれる。つまり踊りに淫している舞姫だからこそ、踊れなくなることがある。川村もひょっとするとそんな悩みを抱えているのではないか。『まぼろしの夜明け』以降の踊りを見ていると、そんな気がしてくる。
だが、川村美紀子はダンスだけではない。実は非常に多才である。2011年にRAFTで初演された『がんばったんだね、お前の中では』では、録音したDJの語りの音の中で踊ったが、そのDJを含めた数人の声も川村自身が演じており、玄人はだしだった。そして作品の構成、照明、演出、さらに音楽もしばしば自分自身でつくり、演奏して歌を歌い録音したものを使う。会場ではそのCDとともに、川村自身が書いた「小説」を販売する。フランス滞在記を含めて、読み出すと引き込まれてしまう。本来こういうアーティストは器用貧乏になりがちだが、川村美紀子はいずれも高いレベルでそれらをつくり出している。だが中心にはその強い身体と激しいダンス、踊りへのエネルギーがある。
川村と会話をし、文章を読むと、その内気さ、繊細さから、おそらくさまざまなコンプレックスを内包していることが感じられる。あれだけ優れたダンスを踊り、評価されていても、慢心せず、おどおどしている。むしろそれが根底にあるからこそ、川村の激しいダンスは成立しているのだろう。
このように、佐々木敦、川村美紀子ともに、根底に強いコンプレックスやトラウマがあり、それが激しい表現のエネルギーになっているのではないか。佐々木の暴力的なパフォーマンスの「暴れ」と川村の過激ともいえるダンスの「暴れ」には、どこか共通する力が感じられる。多くの優れた芸術家、文学者などの根底には強いコンプレックスが見いだせる。この「コンプレックスの力」こそ、芸術衝動といえるものかもしれない。「異端」といえるこの2人を「踊らせている」ものは、おそらく、その比類ない力なのだ。
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