アクチュアルで根源的な課題
インタビュー with 岡本章
聞き手:編集部 金原知輝
岡本章(「錬肉工房」主宰)
1949年奈良生まれ。演出家、俳優。明治学院大学文学部芸術学科教授。早稲田大学第一文学部演劇科卒。1971年の創立より錬肉工房を主宰。錬肉工房の全作品を演出する。多様な現代アートとの共同作業や、能を現代に活かす「現代能楽集」の連作の試みで知られる。2016年度観世寿夫記念法政大学能楽賞受賞。 |
©宮内勝
まず初めに「錬肉工房」、そして岡本さんのこれまでの活動歴について、簡単に教えて下さい。
「錬肉工房」を創立しましたのが1971年なので、今年で46年目になります。初期から、通常の現代演劇の枠組みを根底から捉え返す試み、作業を持続的にやってきました。具体的には、中心的な課題として四点あり、その一つは、〈言葉〉と〈身体〉の関係性を根元から問い直し、新たな〈声〉や〈身体性〉の可能性を模索する作業。二つ目は、能を中心に前近代の演劇、伝統的な文化とどのような関係を持ち、切り結んでいくのか。三つ目は、様々な芸術ジャンルの表現者たちとの脱領域的、横断的な共同作業の課題、そして最後に、テクノロジーやメディアと身体がどう関わっていくのか。高度情報化社会の中で否応なく生きている私たちの身体のあり方を見つめ直してみる、ということがあります。さらに言えば、例えば前衛や先鋭的な作業というものが、通常自明にされている芸術、文化、制度の枠組みに絶えず根底から揺さぶりをかけ、問い直しを行うことであるとすれば、そうした問題意識と繋がる試みを、毎回多様な角度から持続的にやってきたことは確かですね。
創立された当時の演劇状況はどのようなものだったのでしょうか。
ちょうどアングラ・小劇場と言われた演劇の大きなムーブメントが起こり、展開していた時期でした。上京して大学に入学したのが1968年でしたからアングラ第一世代と呼ばれた「状況劇場」、「早稲田小劇場」、「天井桟敷」、「演劇センター68/69」などの仕事はみんな見ていますね。当時は、社会や文化状況が激しく揺れ動き、芸術表現の領域も活気がありました。彼らの近代劇批判の視座から色々と刺激を受けましたが、同時に僕は、舞踏やダンス、伝統演劇の能や歌舞伎にも興味があり、それらも熱心に見ていました。特に観世寿夫さんの能と出会ったのは大きかったですね。世阿弥の再来と言われ、現代音楽、現代美術、現代演劇とも活発に共同作業をされ影響を与えた方ですが、その人の能を見て驚きました。古典の能を見ているにもかかわらず、アングラ・小劇場や舞踏などと同様に、いやそれ以上に「現在」を生きているという実感、手応えが切実に届き、揺さぶられました。これは目から鱗の体験でした。
時代状況もあったのでしょうが、僕は当時から現代演劇、舞踏、能などといったジャンルの垣根にあまりとらわれがなく、それらが並列してあって、アクチュアルで根源的な課題に触れてくるものに興味がありました。初めから脱領域的だったと思いますね。その後、舞踏家の笠井叡さんの天使館の開館に参加したり、自由舞台という早大の学生劇団で別役実さんの『カンガルー』の演出もしています。その学生劇団の仲間を中心に71年に結成したのが「錬肉工房」です。まあなぜ、「錬肉工房」という名称にしたのかと良く聞かれますが、その頃みんな熱心に読んでいたのが、アントナン・アルトーの『演劇とその分身』でして、演劇の中に危険な力を見ようとしている眼差しに刺激を受けました。その中に「錬金術的演劇」という論があり、それに触発されて、「肉体の錬金術」ということを考えて「錬肉工房」という名称にしました。
現在も「現代能楽集」というシリーズを行っておられるようですが…
先程も話しましたように、僕の仕事の重要な核になるものの一つに能の本質的な構造を捉え返し、それを現代に活かすという課題があります。「錬肉工房」の活動の初期から、そうした課題に取り組んできましたが、大学では能のサークルにも入っていて、60年代後半から、そうした課題に繋がる作業をすでに始めていましたので、アングラ世代の中では、能と現代の諸課題に関わったのは、僕が一番早かったのではないかと思います。
能というと「型」や様式があり、それを現代演劇にどう導入し活かすのかという方向が通常考えられますが、僕はその方向を取っていません。確かに能では様式の洗練化が極まで進んでいて、「型」というものは演者を人間存在の根源の場に下降させるある種の通路の役割を果たしています。しかしそこには二面性があって、片一方では無自覚に「型」や様式に寄りかかり、支えにすることで、まさに「型通り」のなんの新鮮さもない惰性化、固定化した形骸的な退屈極まりないなぞりの演技に陥ってしまう。能の演技のあり方は、そうした両面性を鮮明に浮き彫りにします。幼少から稽古を始め、徹底した「型」の修練、研鑽を積む伝統演劇の能でもそうですから、僕は現代演劇や現代芸術の「型」や様式化の方向には、かなり懐疑的ですね。能の「型」や様式についての対し方も、その根源的な意味を探求しながら、それを神秘化するのではなく、そこで自覚的に対象化し、捉え返していく必要があるはずです。「型」や様式の基盤にある、音声表現や動きの原理的な筋道を、腰や肚、息の詰め方といった具体的な身体技法のレヴェルにまで下降して、対象化し、抽出してみることが重要だと思っています。
そうした身体技法の捉え返し、岡本さんの演技メソッドについてお聞かせ下さい。
「現代能楽集」の連作の試みは、1989年に開始し、現在まで14作上演しています。それは能の本質的な構造を捉え直し、それを現代に活かしていく作業ですが、その重要な問題意識として、謡曲などの言語、テキスト・レヴェルだけではなく、能の演技や身体技法を射程に入れ、対象化の作業を行うということがあります。
「現代能楽集」という名称は、もちろん三島由紀夫さんの『近代能楽集』を意識して名付けました。『近代能楽集』は、謡曲を見事に翻案した、言語レヴェルでの能の現代化の類まれな達成であることは言うまでもありませんが、同時に能の演技や身体性の大きな課題が見過ごされています。それを射程に入れ、対象化することは、能と現代の問題を探求するための何より重要な課題であるはずです。そのためこの連作の作業では、能の演者の参加を得、捉え返しの共同作業を持続的に行ってきました。とは言え、先にも言いましたように、もちろん能の「型」や様式を直接使用するのではありません。この作業では、能以外の多様なジャンルの表現者と能との共同作業を行っていますが、普通多くの共同作業では、残念ながら単に相互の手の内の技芸の寄せ集め、縮小再生産に終ることが多いわけですね。そこでなかなか困難な課題ですが、そのためにそれぞれの技芸、「型」や様式を方法的に一度離れてもらい、各ジャンルの分かれる前のゼロ地点に戻り、自在で「開かれた」新たな表現、関係の場で探ってもらっています。その作業の中から、能の演技や身体技法の持つ、高度で充実した「間」、関係性や、内心の深い集中を生きる音声表現、「息」のあり方が浮かび上ってきました。能は「型通り」行われている印象がありますが、同時に演者間での、息をはかりあってのスリリングな緊張感のある引っ張り合い、自在で充実した「間」が存在します。まさに偶然性の中に必然を探っていくような、本来的な意味での〈即興性〉、インプロビゼーションがそこで自在に生きられているんですね。
そしてさらにそれを可能にしているのが、呼吸の問題、「息を詰める」という身体技法だと思います。色んな舞台芸術の分野の達人たちが、演技の極意として「息」や「間」について経験的に語っていることがありますが、しかしあまり分析的ではない。僕の舞台の作業の方法論、演技のメソッドというのは、「型」や様式の基盤にある原理的な筋道、「息」や「間」を、腰や肚、息の詰め方といった具体的な身体技法のレヴェルにまで下降し、対象化してみることにあります。それは能の演者にとっては、普段、分析的には把握していない演技の構造を自覚し、芸の深奥を体得する大きな手掛かりとなるものであり、また「型」や様式を持たない現代演劇や現代芸術の表現者にとっても、様々に活用可能な貴重な身体技法、手掛かりになるものと考えています。
今年の3月に上演された『西埠頭/鵺』は、「現代能楽集」の最新作、14作目にあたる作品とのことですが、作業の狙いはどんな所にありましたか?
この作品は、僕の構成・演出で、現代演劇の先端であるフランスの劇作家コルテスの問題作『西埠頭』と、源頼政の鵺退治の顛末を描いた世阿弥の夢幻能の傑作『鵺』を題材に、両者を並置、再構成する形で新たな現代能の挑戦の作業を行いました。
『西埠頭』では、ニューヨークの埠頭に流れついた、内戦で敗退した南米移民の一家を中心に、西欧=資本主義の枠から排除され、追いやられ、圧殺された人々の姿が描かれ、現在の私たちが抱える、難民、移民の問題やテロと憎悪の連鎖といったアクチュアルな課題が先取りされ、描かれています。一方『鵺』では、単なる怪奇ものの武勇譚ではなく、敗者である反逆者の内奥の孤独、虚無、暗闇が鋭く見定められていて、世界や文体の全く異なった両テキストの象徴的な場面をつないで一本の作品に再構成しました。
©宮内勝
今回は、舞踏家の上杉満代さん、現代演劇の笛田宇一郎さん、横田桂子さんの参加を得、僕を含めた錬肉工房の演者とともに、新たな声や身体性が探られ、古典と現代、東西の演劇、文化が交錯する試みとして、斬新な舞台時空の創出が目指されました。その中から少しでも、時代、言語、文化を超えた累々たる非業の死者、敗者たちの姿、声が立ち上り、現在の私たちの抱える閉塞状況が照らし出され、問い直すことが出来ればと取り組んでみました。今回は能の演者の手は借りず、現代芸術の表現者だけで現代能に挑戦するという新たな試みで、格闘を強いられましたが、能の演技や身体技法の捉え返しに様々な展開があり、また『西埠頭』の南米移民の母親が最後に追い詰められ、噴出する現地のケチュア語の呪詛の場面では、どこかでアルトー的な分節言語に亀裂の入った身体性が現出し、手応えと発見がありました。
これまでの部分と重複する所があると思いますが、これからの前衛的、先進的な活動はどのような役割を担っていくべきなのかと、岡本さんは考えていますか?
最初にも言いましたように、前衛や先鋭的な作業とは、通常自明にされている芸術、文化、制度の枠組みに絶えず根底から揺さぶりをかけ、問い直すことだと思っています。「現代能楽集」の連作の作業も、もちろんそうした問題意識で行ってきましたが、具体的にはその根底の重要な課題として、「伝統と現代の断絶」の問題があるはずです。明治以後の日本の近代化の中でそれまであった文化伝統を否定、切断する必要が生じたわけでして、それは演劇の領域でも、築地小劇場の小山内薫の、「『歌舞伎を離れよ。』/『伝統を無視せよ。』」のモットーに見られるような、意志的な伝統との切断がありました。しかしその時同時に、それまでの演劇伝統とどのように切り結び、関係づけていくのかという、「断絶と接続」の課題も浮上してきました。このような日本の明治以後の伝統と近代の二重構造、「伝統と現代の断絶」の問題は、単に演劇領域だけでなく、文化、社会の構造をも貫く重要な課題であり、それはいまだ解決のついていない、現代にまで至る困難な課題であるはずです。
そしてさらに言えばそれは、地球規模で進行するグローバリズムとナショナリズムの対立といった大きな課題とも結びついてくる所がある。そしてわが国でも、切断され、抑圧されたナショナリスティックなものが、先の戦争に至るファシズム下で噴出し、またこの所の政治、社会状況でも再び浮上し、揺り戻しが起こっています。「現代能楽集」の連作の作業では、そうした問題意識で、能の演技、身体技法も射程に入れ、具体的、可視的な形で「伝統と現代の断絶と接続」の課題に取り組み、少しでも根底から徹底して対象化出来ればと思って、持続的に行ってきた所がありますね。それとともに、前衛や先鋭的な活動の役割や意味についてもう少し考えてみれば、1980年代以後のポストモダン状況、大衆消費社会の中で、前衛芸術運動はいかにして可能かという重要な課題があります。ポストモダン状況の中で、前衛芸術の消滅が声高に唱えられましたが、しかしそこで前衛とは何か、そして前衛芸術という概念そのものが、根底から充分に問い直されたとは思えません。
現在の、易々とジャンルの横断が可能であり、それがすぐ商品化されてしまう状況を見据えながら、そうした状況と切り結び、少しでも揺さぶりをかけることが、どうすれば可能なのか。これも大きな課題ですが、これからも実践活動を踏まえながら、多面的な角度から問い直し、少しでも転換の一瞬を探っていければと思っています。
次回公演
■錬肉工房
現代能『春と修羅』
日程:2018年2月28日(水)~3月4日(日)
会場:d-倉庫
>詳細
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